土井淳

大洋ホエールズが川崎にやってきた。

安息の地を求めて。


工場から黒々とした煙を放つ工業地帯を背景に、大洋戦士たちはさらなる奮起を起こさんと気炎を燃え立たせていた、とはいかなかったようだ


それはなぜか。


ここは若輩の作者が語るよりも、時代の語り部たる男の声で語る方が得策であろう。

作者が収集した資料をもとに、川崎大洋を1人の男の証言で語っていきたい。


男の名前は土井淳。


ホエールズの歴史を全てを知る男と言っても過言ではない貴重な生き証人である。


土井淳は1933年6月10日、岡山県岡山市にその生を受ける。1949年に岡山県立東高等学校野球部に入部後、同学年の秋山登と出会う。

入部から一年後、土井はショートからキャッチャーに転向。頭角を現し始めた秋山登とバッテリーを組み始める。後に2人が黄金バッテリーを組み、プロ野球界に名を馳せるなどこの時は誰も知る由もなかった。


1951年には岡山県大会を勝ち抜き夏の甲子園大会に出場。1回戦で高松第一高等学校と対戦する。しかし、その学校にはあの男がいた。

後に西鉄野武士軍団の4番として他球団を震撼させた”怪童”中西太である。土井、秋山のバッテリーは中西を抑えようと果敢に挑むがランニングホームランを打たれるなどして、高松第一高等学校に3対12で敗退。


1952年、住友金属から内定をもらっていたが、「東京六大学で野球をやれ」という周囲の勧めで早稲田大学を受験することにした。しかし、進学適性検査を受けていなかったため、早稲田大学を受験することは叶わなかった。

そして、進学適性試験の無い、明治大学商学部に入学することが決まった。

明大時代には2年春・3年春・4年秋の3回リーグ優勝を経験し、3年秋・4年春には連続してベストナインを獲得している。


また、当時の明治大学野球部を率いていたのは”御大”と呼ばれた島岡吉郎監督。その指導法は鉄拳制裁も辞さないスパルタ教育で知られてた。しかし、土井はその島岡御大に1度も殴られたことがなかったというほどの優等生であったという。


やがて土井にも進路を決める日がやってきた。まず声をかけてきたのは西鉄ライオンズであり、監督の三原脩が「土井をどうしても獲ってくれ」と言っていた。しかし、土井は「せっかくここまで秋山と縁があってきたのだから、プロでもバッテリーで挑戦したい」と言って断った。

また、秋山登は当初、巨人が獲得に動いていたが、 持病の腰痛があり獲得を白紙に戻していたた。それを見た大洋ホエールズが秋山の獲得に動き、土井に対して「2人一緒に入団してほしい」と口説いて晴れて2人は入団を果たすのである。


秋山登をエースに、土井淳を司令塔に低迷する大洋ホエールズを立て直そうと球団は一縷の望みをかけて2人を獲得したのであった。


続く

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