大洋ホエールズ誕生

【スターマンの冒険Zero 第4星】


時代はやや遡り、1929年5月。山口県下関市に1つの実業団チームが誕生した。


捕鯨業、トロール漁業を展開していた林兼商店が設立した野球部である。

翌1930年の第4回全日本都市対抗野球大会では、初挑戦ながら全国大会出場を果たした。また、翌年には中国大会ベスト4に入るなどの大活躍ぶりを見せた。

しかし、世界恐慌の煽りを受けて1932年の大会前に休止状態になり、軟式野球部だけが残る形となった。会社も林兼商店から大洋漁業へと名前を変えた。そして、戦後の1946年11月にやっと硬式野球部が復活し、そこから一躍頭角を現し始める。


1947年から3年連続で都市対抗に出場。そして、1948年には国体で堂々たる優勝を飾りその名を日本中に名を轟かせた。


その頃、プロ野球では巨人軍初代オーナー正力松太郎の「日本もアメリカと同様に、2大リーグで行くべきだ」という発言をきっかけに、これは好機とばかりに新球団を設立する企業が続出した。そのため、選手争奪戦が激化し、大洋漁業野球部からも戸倉勝城、河内卓司、徳網茂ら主力選手が新球団の毎日オリオンズに引き抜かれてしまう。

これに1人の男が烈火の如く憤慨する。


大洋漁業2代目社長の中部兼市氏である。


彼は林兼の時代から野球部には並々ならぬ熱意を注ぎ、強化のためには莫大な費用を投資していた。そんな手塩にかけたチームを一夜にして骨抜きにされ、彼の熱き血潮は黙っていられるわけがなかった。

中部兼吉氏は


「よし、プロ野球に選手を引き抜かれるくらきならば、我が社もプロ球団をさっそく作ろうではないか!至急、各方面から選手を引っこ抜いて来い!!

なぁに、クジラの2、3頭も余分に獲ればスター選手の20人や30人雇うのはなんでもない!」


という鶴の一声でプロ野球参入を決意したのであった。


ノンプロの大洋漁業から残ったのは4人、新入団は大学生2人、実業団5人。

あとは読売巨人軍からベテランの中島治康、平山菊二、大陽ロビンスからは藤井勇と林直明を譲り受ける。さらに、宇高勲のスカウト活動により、東急フライヤーズからは大沢清や長持永吉、片山博らを、阪急ブレーブスからは宮崎剛や今西錬太郎らを補強。

公言通り、本当にプロ球団から選手を引っこ抜き返してやったのだ。


そして、本拠地は、大洋漁業の拠点がある下野に置かれることになった。東京、名古屋、大阪のなどと比べると、都市の規模は小さい。しかし、当時はフランチャイズ制ではなく、試合の興行には収益分配制が採られていたためビジターチームにもそれなりの収入があった。そのため、中部謙吉氏は本拠地が下関でもなんとかやっていけるであろうという読みがあったのだ。


こうして、1949年11月22日。「株式会社まるは球団」を設立し、球団名を暫定的にまるは球団とした。そして、1950年開幕後に「大洋ホエールズ」に球団名を改称。


ここに、プロ野球という大海に逞ましい巨鯨たちが放流されたのである。


続く

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