迷いクジラ

1950年に大洋ホエールズは堂々たる誕生を迎える。しかし、処女航海で鯨たちを待ち受けていたのは、猛烈な荒波であった。

他球団から引き抜いたスター選手は皆、選手としての峠は過ぎてしまっていたベテランばかり。特に投手力の弱さは如何ともしがたく、リーグ参戦1年目は5位に終わった。


1951年には、不採算から経営悪化した広島カープを吸収合併することも検討される。しかし、広島球団関係者や地元市民らの必死の存続運動により合併の話は立ち消えとなった。また、1952年には日本球界にもフランチャイズ制が導入され、フランチャイズ場内の全ての利益はホームチームに行く形となった。

中部兼市氏の収益分配があるから下関でもやっていけるだろうという目論見は水泡に帰したのである。


そうなると、下関のような地方都市では球団経営が立ち行かなくなる。そこで、大洋ホエールズは、大都市圏関西進出の足がかりとして松竹ロビンスとの合併を選択したのである。

しかし、松竹ロビンスはまだ合併も完了していない状態で選手の大量放出を行なう。これには松竹社内で「野球に使う金があるならば、本業の映画に使うべきである」という声が強かったからだ。


球団本体の合併も成立しないまま、1953年のシーズンが開幕。球団事務所を大阪球場内に置き、試合も大阪球場を中心に行なうことにした。また、球団名も急ごしらえで「大洋松竹ロビンス」に決定。

しかし、全てがちぐはぐな状態で好成績を収められるわけもなく、結果は5位。合併が完了したのシーズンもすっかり終わった暮れの12月のことであった。翌1954年もチーム内のちぐはぐな雰囲気は拭えず32勝96敗2分のダントツの最下位に沈んでしまう。

こうした結果を受けて、松竹はもはや球団経営に対しての情熱も冷めてしまい、1954年12月には撤退。2リーグ分裂後、初のセリーグ王者となった駒鳥たちは日本球界から姿を消したのである。


2代目社長の中部兼市氏の急死に伴い、3代目社長に就任した中部謙吉氏がオーナーとなり、改めて「大洋ホエールズ」は復活する。

また、フランチャイズも大阪球場から神奈川県川崎市の川崎球場へ移転することが決定する。


こうして、荒波に負けて深海に沈むことになった鯨たちは下関、大阪、川崎と場所を変えながらも、その尾ひれを休めることはなかった。

新天地川崎での海面への浮上を祈って。


続く

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