富士と江ノ電
気が付いたら僕はベッドの上にいた。
ここはどこだ・・。
眼鏡をかけたおじさんが僕の顔を覗き込んでる。
でもすごく不安そうだ。目の前にあるものがまるで、消えてしまうんじゃないかってくらい悲しい目をしている。
そうか、僕はこのおじさんに助けられたんだ・・。カワサキって街に行こうとした途中で嵐に巻き込まれて流されたんだっけ・・。記憶があんまりはっきりしないんだけど、あの時おじさんが温かいココアをくれた。
冷たい海に流されて身体も凍えそうでもうダメかと思ったけど、あの温かいココアが僕の命を繋いでくれた。
嬉しかった・・暖かった・・だから僕は、このおじさんを不安なままにさせちゃダメだ。
起きなければ・・目を覚まさなければ・・
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「坊や!気が付いたかい!?よかった、本当によかった!」
別当は少年が目を覚ましたのを見ると安堵と歓喜の混じった笑顔を見せる。
「おじさん・・ここは・・どこ?」
「ここかい?君とクジラくんが倒れていた由比ヶ浜海岸からそう遠くはないところにある病院さ。もう3日もずっと眠り続けていたんだよ。本当にどうなることかと・・。あ、ところで、どうして君はこんな寒い時期にずぶ濡れで倒れていたんだい?」
確かにそうだ。こんな師走の時期の海で海水浴なんてやる者はいない。ましてや、着ていたのは野球のユニフォームだ。サーフィンを楽しむにしてはあまりにも不適切な格好だ。
少年はぼーっとする意識の中でなんとか言葉を紡ぎ出す。
「えっとね・・僕はね・・カワサキって街に行きたいんだ。そこにある大洋ホエールズってチームの球団マスコットをやることになっているんだ。」
「大洋!?マスコット!?・・・いや、大洋ホエールズは知っているが・・球団マスコットだって?それはいったい何をするんだい?」
「うん、球団マスコットっていうのはね、球場を盛り上げたり、チームをサポートするお仕事だよ〜」
球団マスコット。戦前から戦後にかけての苛烈な環境下で野球に携わってきた別当薫にとってそのようなものはあずかり知らないものであった。しかし、別当にも思い当たる節が1つあった。
「そうか、たしか巨人軍にもひとりオレンジ色のウサギちゃんがいて、よく後楽園球場で見かけるな!つまり、坊やはその球団マスコットとして大洋ホエールズに入団するということなんだね?」
「うん、そうだよ〜。ホエールズも来年からユニフォームを変えるらしくて、それを着てやってきたんだけど・・いきなりずぶ濡れにしちゃったってわけなんだ(笑)」
少年は病室に干されているオレンジ色のユニフォーム、若草色のアンダーシャツを指差して恥ずかしそうに笑う。
「そうだったのか!だがしかし、大洋も随分と派手というかハイカラなユニフォームになるもんだ。あの真面目一徹な秋山くんが着てくれるどうか(笑)」
「おじさんは秋山コーチを知ってるの?」
「知ってるもなにも、私はこの前まで大洋ホエールズの監督をやっていたんだよ。今は監督から退いて静かに野球を観させてもらってるが、手塩にかけた選手たちの活躍はいまでも気にはかけているよ」
「えぇ!?そうなんだ!おじさんがまさかホエールズの監督をしていたなんて気がつかなかったよ〜〜!」
少年はベッドから転がり落ちそうくらい驚愕する。まさか自分を助けてくれた人間がこれから自分が入団しようとするチームの監督をしていたなんてだれが思おうか。
そして、別当は何か思い立ったように、少年に3日ぶりの外の空気を吸わせてあげようと、車椅子を用意する。
「ところで坊や、今日はいい天気だぞ!3日ぶりに外に出てみないかい?今日は富士山も見えるかもしれないぞ〜」
「富士山・・?」
「日本一高い山だっ!凄く大きくて綺麗な山だ!江ノ島の海岸から見える富士山はさらに綺麗だ!」
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別当は少年が乗った車椅子を押して江ノ島の海岸沿いを進んで行く。
すると、目の前に広がるオーシャンビューの向こうに大きくて荘厳な青々とした山が見えた。
「見てごらん坊や、あれが富士山だ。今日は特に綺麗だぞ!」
少年は富士山の大きさに圧倒されたのか言葉を失う。そして、目を輝かせながら「綺麗だなぁ、大きいなぁ〜」と言葉を漏らすのであった。
2人の後ろを鈍行の江ノ島電鉄の電車がゆっくりゆっくりと通過して行く。
まるで2人に「どうぞごゆっくり」と告げるように。
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