斜陽

「ご承知のように野球選手としては肉体的に言いますと、もう峠が来てしまった。引退ということを皆さんにお話しして、そしてお別れの感謝の言葉を述べさせてもらいたいと思います」


列島に衝撃が走った。巨人軍10連覇の夢を打ち砕かれた翌日の新聞は「中日優勝」よりも「長嶋茂雄引退決意」の記事が躍った。戦後の復興期、日本中にハッスルプレーの活力を届け、高度経済成長のシンボルとして活躍していた巨星がついに力の限界を悟ったのである。


少年はこの一大ニュースに青天の霹靂の想いで居ても立っても居られず、後楽園球場へ向かった。グラウンドに着くと巨人軍の球団マスコットのジャビットがスコアボードを眺めながら立っている。


「ハァハァ・・ジャビットさん!長嶋さんが引退するって本当なんですか!?」


少年の問いかけにジャビットは寂しそうな、しかしどこか朗らかな気持ちを帯びた目で答える。


「・・・仕方のないことなんだ。我々巨人軍は勝利してこそ価値が決まる。しかし、今年は優勝できなかった。長嶋くん自身もそれに対しては相当責任を感じているはずだ。そして、彼も老いた・・。もうあの頃の力は無くなっていたんだ・・。それをひた隠しにして現役生活を続けられるほど彼は生き汚くなかったということだろう。」


「本当に・・良いんですか?」


「ん?何がだい?」


「いや・・あれだけの選手が引退するって言うんだからジャビットさんは止めないのかなぁ〜って思ったんです・・」


「たしかにそうだな・・だが何度も言うが巨人軍は優勝して初めて評価されるチームだ。それが出来なかったのだから・・こればかりは仕方のないことなのさ・・」


“仕方がない”

この言葉をジャビットは何度も何度も心の中で自分を納得させるようにつぶやく。勝利を義務付けられた球団のマスコットとして、今回の長嶋茂雄の引退は受け入れざるを得ない状況なのだとジャビットは必死に理解しようとする。


「もしよければ・・なんだが・・明日の長嶋くんの引退試合。君も来てくれないか。彼の花道を君にも是非とも見届けてほしいんだ!」


断る理由は無かった。少年はジャビットの誘いに二つ返事で「はい!喜んで!」と答える。


「じゃあ明日は長嶋さんの引退試合、見に行かせてもらいますね〜!よろしくお願いします!」


「あぁ、ありがとう!必ず素晴らしい試合にしてみせるからな!」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

1974年10月14日、月曜日。東京地方は雨が降り続いた前日とは打って変わり、素晴らしい秋晴れとなった。

この年、5年連続開幕本塁打を放った長嶋茂雄だが、4月末には打率3割を切り、一向に上がってくる気配はなかった。かつてはバットの根っこに当たったボテボテのゴロでも、人のいないところに飛んで行くと言われたが、ジャストミートしても野手の正面に飛ぶ。「俺の打球も素直になったな」と苦笑いした。

引退表明の翌日13日が引退試合となるはずだったが、雨で順延となり、14日のダブルヘッダーが”選手長嶋”の最後の日となった。


「ついに長嶋さんが引退するんだね。それにしてもすごい歓声だなぁ〜・・」


5万人に膨れ上がった後楽園。2000人以上のファンが球場の外にあふれていた。

そして、第1試合の第2打席。迷いの無いスイングは通算444本目の本塁打を秋空に描いた。

試合後、事前の予定には無かったが、長嶋が一塁ベンチから無人のグラウンドに飛び出す。「長嶋!」という大声援、言葉にならない涙声、唸るような叫び声、後楽園球場は異様な雰囲気となった。笑顔だった長嶋が突然、立ち止まって取り出したタオルで顔を覆い、泣きじゃくる。突然の静寂が訪れ、みな長嶋と共に泣いた。


「これが・・長嶋さんなんだなぁ・・本当に凄い選手だったんだなぁ〜・・」


少年はこの長嶋茂雄という男が人々からどれほど愛されて、どれほど人を魅了したのか後楽園球場の熱気から忖度する。

そして、第2試合、最後の打席は選手生活晩年の異名”ゲッツーの長さん”らしく併殺打だった。

夕闇が包む後楽園球場、周囲のライトが消され、一条のライトが鮮やかに背番号3の雄姿を浮かび上がらせる。マイクを持った長嶋茂雄は静かに別れの挨拶を始めた。その全てにおいてファンへの感謝の気持ちが込められ、長嶋茂雄がファンと共に歩んで来たことが改めて感じられた。


「私は今日ここで引退をいたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です」


長嶋は独特の甲高い声で挨拶を終えた。そして、長嶋茂雄を送るために巨人選手、コーチ、監督、オーナーと握手をしながら進んで行く。後楽園球場内に鳴り響く「蛍の光」。鳴り止まない拍手。

少年は万感の思いでその情景を眼に焼き付ける。すると、少年は長嶋茂雄がジャビットの前に立って何やら話しているのを目にする。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「長嶋くん、・・ご苦労様。君と共に歩んだマスコット人生、本当に楽しかった。ありがとう・・」


「あぁ、ジャビットくん。僕が入団した時から君はいつだって僕に変わらない声援を送ってくれた。打てない日も、勝てない日も君はいつだって僕たちの味方でいてくれた。そのいわゆる1つの変わらない優しさが僕たちをここまで強くしてくれた。本当にありがとう!」


「よしてくれ長嶋くん。僕は何もしていない。試合を闘い、そして勝利して来たのは君たちのたゆまない努力の賜物だったろうに。」


ジャビットは長嶋の顔を直視することができない。いま彼の顔を見たら今まで堪えて来たものが全部壊れてしまう。ダメだ。巨人軍のマスコットがそんな醜態を晒すわけにはいかない。

だが・・


「これからの巨人軍を頼んだぞ。僕も影からサポートさせてもらう。もし今後、いわゆる1つの新しいゴールデンボーイが入団することがあったら、また君の猛烈な優しさを向けてやってほしい。今までありがとう!」


長嶋はジャビットを力強く抱きしめる。今までの感謝の気持ちを込めて力一杯。するとジャビットの抑えていた感情が一気に爆発する。


「長嶋くん・・僕は・・僕は・・君がいたからここまでマスコットを続けられた・・。本当に・・ありがとう・・。うっ・・うっ・・うわあぁぁぁぁぁあぁん!!」


ジャビットは人目もはばからず泣きじゃくる。巨人軍のマスコットとして非常でいなければならないと張り詰めていた緊張の意図が長嶋の抱擁でプツリと切れてしまったのだ。

いつも気丈に振る舞っている気高いジャビットが子どものように泣きじゃくる姿を目にして、少年は長嶋茂雄という男がどれほどの人物であったのか感じた。


そして、惜別の涙に包まれながらプロ野球の太陽はその現役生活に幕を閉じたのであった。

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スターマンの冒険Zero TT.すた〜まん @tt-starman0814

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