第4話

「ネズミだけじゃない、ゴミとかの匂いもこびりついてますよ」

 ほぼ毎日ネズミの住処に通う私をタムリは何度も注意した。「あんな所・病気になる・臭いですよ」すべての言葉が貧民街へ行く子供を叱る時の言葉だ。その言葉も世界が変わっても変わらない。

 タムリやバナ、それに市場の獣たちを捕まえてネズミに関しての話を聞きまわった。もちろん元の世界に帰りたいのでその方法も探しているが、そちらがサッパリなので心の平穏のためにも余計なことをやる。余計なことに没頭出来ている内はまだ心が正常でいられる。


 しかしネズミはどこの世界でも可哀想な役回りだ。私の世界では伝染病の発生原因、不潔の象徴としてテッテイテキに駆除される。一部のネズミはペットとして飼われるがそれは本当に少数だ。ここアトラムではもっとひどい状況だった。

 まとめると

・ネズミはアトラリム最下層「ヌヌテン」にも属していない

・族名・村名・素名のすべてを許されていない

・就ける仕事も少なく、各種労働の下働き、残飯やゴミの処理などを行う

・ネズミを殺しても罪に問われることはない

・ネズミに直接触れ合うことは禁じられている。お釣りを渡す時も手渡しはしない

・戦時は貧相な槍しか持たせてもらえない。圧倒的な物量作戦で最初に特攻させられる

 など枚挙に暇がない。ネズミとして生まれた時点でアトラムではまともに生きることも叶わない。今日、橋の近くで腰から下がないネズミが転がっていた。大きな声を出して腰を抜かしているとイタチが1頭やってきて私を起こした。「どうしたんだ?」と尋ねるその口の周りには鮮血がこびりついていた。私の視線が口元に向かっているのがわかったのか、「腹減っちゃってさ」と悪びれずに笑う。残された上半身を見ると初めて橋の下に行った時に話した大人のネズミに似ていた。

 少し橋の下をぶらつき、マッチャにせがまれなんども布を丸めたボールを投げた。嬉しそうに何度も拾いに行くマッチャを見ていると食われたネズミが脳裏にチラつく。マッチャもあのネズミのように「腹が減ったから」と食われるのか。あのネズミは私が出会ったネズミなのか。尋ねようとしたが、名前が無いのでどう聞けば良いかわからなかった。

 アトラムで一番多い動物はネズミらしい。橋の下、城壁の裏、森、そして街の細い路地、あちらこちらで繁殖し、増えると共に疎まれていく。これほどの多数派であるのにすべてが奪われている。

 マッチャが鼻を鳴らして私に駆け寄るのを思い出すたびに立場や価値観の違いに悩まされる。タムリやバナは世間一般で言えば「良い獣」だろう。フィールドワークと称して外に出たがる私を快く送り出してくれる。酔っぱらいに絡まれた時は助けてもくれる。それも会話を通じた平和的な手段で。

 そんなタムリやバナですらネズミには冷たい。冷たいという感覚すらないのかもしれない。ただ「無」なのだ。安い労働力、毛皮などの素材、そして食料。その要素以外の認識を持っていない。私の感覚では同じ獣として対等に振る舞えばとも思うのだが、元いた世界での差別を考えるとその発言は憚られる。

「噂になっていますよ。ネズミとの交尾を楽しみにしているポウポウがいるって」

「交尾?」

「ええ、食べも殺しもしないなら交尾しか目的がありませんからね」

 ベージとのイザコザが続いているのか、耳に包帯を巻いたタムリが骨を噛みながら喋る。

「イタチはネズミをイチモツで貫いて、苦しんでいる所を頭からかじるのです」

「なんて残酷なことを」

「そのほうが味が良くなるらしいですよ。ミチアキも同じことをしていると思われていますよ」

「どうして」

「街の人はポウポウなんて見たことがないですからね。子供をさらうとも言われてましたよ」

 骨を噛みながら笑うタムリを見て妙な気持ちになった。昔話とかで違う世界に行くと基本的に尊敬されるはずだ。それが、アトラムでは不気味がられ、ネズミを犯し子をさらうと言われる。よそ者への忌避感その物だ。結局どの世界に行っても共通の思いや残酷な行動がある。

「どうしました? 元いた場所に帰りたいですか?」

「帰りたいね。でもまだ分からんのだろう?」

「ですね。どうもポウポウにそんな力がなんとかバナが言ってましたが」

「可能性があるってだけで気が晴れるよ」

「それは結構。じゃあいつも通り水浴びをして、ヤパリッカに入ってください」

 ヤパリッカとはイチゴやブルーベリーみたいな木の実が溢れるほどに入った風呂桶だ。ネズミの匂いが王宮には似つかわしくないらしく、毎日入らされている。最初は食べ物に体を入れることを気にしたが「水だって飲むじゃないですか」と言われてから抵抗はなくなった。まだアトラムに来て10日ほど。モラルのレベルを少しずつ落としていくのが生きるという行為を最適化してくれる。


 今日はこの後に王や軍部と会う。なぜ呼ばれたかは分からないが、王直々の指名との事だ。裸になり足を入れる。柔らかく冷たい木の実がぷちぷちとはじける感触を足の裏、臀部、背中で感じる。手で少し実を掬って食べると酸味や甘みが混ざり合い美味い。

 口から種を吐き出して立ち上がる。質素な服を着たメスネコが目の粗いタオルで私を拭く。体からアメ横の果物屋と同じ匂いがする。サルの仕立て屋が作ってくれたパンツと一張羅であるメイドインチャイナの戦場服を着込み用意を整え部屋を出る。


 広間に着くと王以外は集合していた。年老いたサイやトラもいる。もう私を見てヒソヒソと話す獣はいなくなったが、皆が私を見ている。なんとなく林家三平スタイルの挨拶をすると、小さな笑いが起こり場が和んだ。一番強面、王の椅子の隣に座っているサイが話しかけてきた。

「挨拶を覚えたか。アトラムは気に入ったか?」

「はい……皆さん良くしてくださいますし」

「なら良かった」

 緊張しながら座ると足音と車輪が転がる音がする。王が出入りする通路の幕が開き、武装したオオカミやトラが数頭隊列を組んで入ってくる。その後ろには一つの檻。中にはバナが普段身につけているローブを纏う少女が立っていた。白髪で透き通る白い肌。モンゴロイドかコーカソイドかもわからない。まさに国籍不明と言った少女が檻を掴み私を見ている。

 その表情には驚きも無く、ただ、そこにある物を見つめているとだけだ。ニンゲンだ。年齢は10代。前に王と会った時に「こいつより若いのか?」と言っていたが、こんな少女だったとは。見た目はニンゲンだが何か違う。感覚的にそう感じる。ニンゲンではない。だが、その美しさから目を離せず卒倒してしまいそうだ。痺れた脳に王の声が響き意識を取り戻す。

「これがポウポウだ。イイヌマだったっけ? やはり似てるな」

「はい……」

 返事をするのがやっとだった。吸い込まれそうな瞳、その佇まい。目を離すとどこかに消えてしまいそうに儚い。

「本題に入るか。おい」

「かしこまりました」

 先程のサイが立ち上がる。全身の傷と佇まいが立場を示している。

「えー、最近続いているベージの集会だが、そろそろ見過ごせなくなってきた。最近ではアトラムの王兵にも危害を加えている。そうだな?」

 最後の一言はタムリを見つめて力を込めて言った。

「はい……」

 頭を掻きながら返事をするタムリ。その姿は上司にツメられるサラリーマンその物だ。世界が変わっても変わらぬ哀歌は流れている。

「ゲッカニアとの戦いが激しかった時はこんな事は無かった。多少なりとも平穏を取り戻し、飢えて苦しむ事が無くなったからこその問題だ」

 我が祖国でもそんな感じだ。すべてが落ち着くと不平不満が国内に向かう。そんな所も変わらないのかと少し笑ってしまう。その声を聞き漏らさず傷だらけのサイは咳払いを一つ。どうやら私も哀歌に巻き込まれたようだ。

「イイヌマ・イイヌマ・ミチアキがやって来たことも問題なのだ。ベージの中にはお前がテンの使徒で世界から肉食をなくすために現れたと言い出す奴らもいる」

 雲行きが怪しくなってきた。王を見ると私を殺すと言った時と同じ表情をしている。その無感情が獣が持つ力かもしれない。サイが長々とベージの恐怖、国家規模の問題などを話しているが何も耳に入ってこない。彼らは私の味方ではない。私はいきなり現れた異物でしかない。

 私は単身この世界に来た。それを望んでいたかはともかくとして。もし自分の世界に異物が来たらどうする?利用するに決まってる。私の世界でも多分そうだ。そして他の世界でもきっとそうだ。

「で、そこで君の出番だ」

「ここからは私が喋ろうか」

 王が鼻でサイを制しながら言う。ゆっくりと鼻を元の位置に戻し、豪奢な椅子に体を預ける。

「ちょっとね、戦争をしようと思っているんだ。そんな大きな話じゃない。ベージなんて暇だからあんな事をやっているんだ。多少でも戦闘があれば国民の思いは一方向に向かう。それにね、テンを信仰しない不届きな獣も増えているんだ。そこでイイヌマ・イイヌマ・ミチアキだ。お前はテンに導かれてアトラムにやってきた。そうだろう?」

「それはわからないですが……」

「違う。『そう』なんだ。わかるね?テンがなぜポウポウをもう1頭遣わしたか?それは戦うためだ。ポウポウが敵を討ち滅ぼし明日へ導いてくれる。今こそヌーエを取り戻す時なのだ」

「ヌーエ……」

 隣に座るバナが小さな声で呟く。

「ヌーエの断崖に描かれた聖なる壁画を取り戻し、テンの力をより強くする。そうすることでアトラムは安泰だ。戦いを嫌い、テンを疑うアホは間違った事を民衆に伝えていた。これは死罪だな?」

「おっしゃる通りで」

 サイも哀歌に巻き込まれた。

「行き着く先は恒久的な平和。テンが遣わしたポウポウの物語はカーシミッドによって永遠に歌い継がれるだろう」

 拍手の嵐。拍手と言ってもバンバンと机を叩いた時の音に近い。呆気にとられる私と満足げなゾウ。誰も異論や質問を挟まない。どの世界でもそうなのだ。王が決めた。それはもうやるしかない。だからこそ異物がお伺いをたてるべきだ。

「少しよろしいでしょうか」

「何かな?」

「王がやろうとしている事は私の世界でもあります」

「だよね。お前の話から着想を得たんだ」

 カウンターパンチは予期してないタイミングで喰らうから世界が揺れる。

「どういう事ですか?」

「お前たちは食べるための戦争をしないんだっけ?すごいね。そんな事があるんだとびっくりしたよ」

「それは……なんと言うか」

「何にしても決めたからやるよ。作戦の詳細はまた今度伝えるとして……どうしようかな」

 王が目を閉じ考えを巡らす。しばらくの沈黙。再び目を開く。

「そうだ、決めた『聖壁奪還戦争』だな。また皆には集まってもらう。イイヌマ、もちろんお前が元の場所に帰れるように研究してやる。悪い話じゃないだろ?以上だ」

 呆然と座る私をバナが突く。慌てて立ち上がり王が去るのを見送る。戦争が起きる。そして戦争に付いて行く。この世界でもやる事は結局同じだ。プロパガンダとしての戦争。この戦争は私が持ち込んだ「文化」だ。食うための戦争から一歩飛び出した。民を一方向に向かわせる戦争。その戦争を生み出したのは私だ。戦争は多くの血が流れ夥しい兵士が死ぬ。兵士は家に帰れば良き父だ。殺される側も同じだ。殺される側、それは一体どんな獣なのだろうか。

「ヌーエとはどんな所だ?」

「あまり……バナは知ってますか?」

「昔……試験勉強をした時に少し学んだ程度だな。王が言っていた通り壁画がある」

「どんな敵がいるのですか?」

「俺に言われてもわかんねえよ……」

 ヌーエ、そこはアトラムの港から船で南東に3日程の場所にある島らしい。木が生い茂り、ヌエギと呼ばれる山、シーギリヤロックみたいな巨大な山があり、そこに壁画が描かれている。後日サイに教えてもらったが、戦略的に重要でもない場所らしく数年に一度船から祈りを捧げる程度の場所らしい。ただ、昔から残る文献に「近づく者は生命を失う」と書かれているという。

 「生命を失う」と書かれてはいるが、そんな場所はアトラムには数えられない程あり、たまに洪水が起こったりする場所がそう言われる。生命を奪うような何かが住んでいるならアトラムと戦った記録も残っているはずだがそれすら無い。

「戦争とは言ってましたが、戦いはなさそうですね。ヘビやトカゲもいないでしょうし」

「だろうなあ。チート、何か知ってるか?」

「さあ……カーシミッドの歌にも壁のことしか出ないわね。王が言う通り、形だけ戦争ってことにしてベージをなんとかしたいだけじゃない?」

「こんな戦争初めてですね」

「誰も死なねえって事ならそれが一番だ」

 周りのクマ、トラ、サイも私たちと似た会話をしている。伝承として『神聖な島』と言われてきたが誰も何も分からない。この作戦は王が1頭で昔の文献やカーシミッドの歌を聞いて考えたとチートから聞いた。

 死ぬ獣はいない。私も死なないで済む。もうベトナムで経験したようなヒリヒリした毎日はごめんだ。安全圏内で紫煙と安いアルコールの香りに巻かれる部外者でいたい。他人として蚊帳の外にいたい。

 しかし、戦争を記録しろと言われた私の心は動いてしまっている。未知の世界の戦争はどんな形なのだ?銃、爆薬は無い。戦闘機も無い。さらに元の世界に戻る研究をはじめてもらえる。帰れるかはわからないが可能性が上がる。ポケットに入れたペンと手帳にそっと触れると、ベトナムに置いてきた魂がもう一度揺れるのを感じた。


 その日の夜はバナ、チートと街に出た。タムリも誘ったが断られた。「戦場に行くことを家族に話す」と言うタムリに兵士の日常を感じる。家族を守り、アトラムを守り、たまにベージに殴られる。どこの世界にもいる不運な兵士の1人だ。

 前に行った店で食事をとる。チートはどこからか買ってきた木の実を足で押さえ、鋭いくちばしで器用に殻を外していく。

「今日もベージがうるせえなあ」

「ベージはなんなのかしらね? 私たちは自然に生きているだけなのにね。あんなの不自然よ」

「あいつらはテンを蔑ろにしすぎだよ。悪いな、こっちの話ばっかりしちまって」

「いえ……大丈夫です」

 バナとチートが延々とベージ批判を続けている。街の飲み屋で政治談義。ありふれた光景だ。それがサルとオウム。周りにはイヌやイタチやウサギ。姿形は違えど一定レベルまで文明が発展してしまったら到達する場所は一つなのかもしれない。世界は可能性で満ちているはずだが多くの細い糸が撚り合わされ結局はどこにでもある縄となる。

 一際大きな声が聞こえた。悲鳴も混ざっている。飲んで良い気分になっていたバナが立ち上がり様子を伺うが、大きなウシやブタが邪魔で何も見えない。チートが「見てくるね!」と言い残し飛び上がる。私とバナは座り直しウシを焼いた『シャ』を齧りながらウシの乳で出来た酒を飲み、ネコやトラが好むバッシャを作る。柔らかい葉の上に乾燥したバッシャを散りばめ、適当な木の実を一つ絞ってから巻く。王宮の外でバッシャを吸っていたトラに教えてもらった作り方だ。水タバコみたいに甘い煙を口の中で楽しむ。ライターオイルをケチるために、アトラムでは一般的な火打ち石を使い火を点ける。見慣れない道具だが慣れるとマッチより簡単だ。甘い香りと焦げ臭い香りが鼻腔に広がるが何かおかしい。こんな焦げた香りはしない。辺りを見回すと王宮がある方角に炎が見える。

「燃えてます!」

「バッシャは燃やすもんだろうが。ネコくせえ物吸いやがって」

「違います! 王宮の近くです!」

「ああ? 本当じゃねえか! 行くぞ!」

「行ってどうするのですか!?」

「うるせえなあ! 行くんだよ! あっちは兵士の詰め所がある」

 道行く獣を避けながら王宮に向かう。王宮が近づくと獣が増えていく。周りではまた果物や肉を売る獣。混乱に乗じてあまり王宮に近づくこともないネズミがおこぼれを狙っている。ベトナムでも米軍のいるところに爆弾が仕掛けられたりした。その後はどうなったかといえば『疑わしきは罰する』だ。確実に状況は悪い方に向かっている。アトラムではなくベージにとってだ。

 バナが王宮関係者だと吠えて進んでいく。獣の波を止めている兵士やイヌの隊列に一礼し近づくと王宮の手前にあった3つの詰め所の内の1つが激しく燃えていた。

「怪我人は?」

「軽い火傷が数頭です。バナ様のお手を借りることもありません」

「そうかい……良かった。ベージが火を付けたのか?」

「はい。先程1頭捕えました」

「イヌか? イタチか? それともウシか?」

「それが……信じられないことにネズミです」

「ネズミ?」

「はい。子ネズミでした。腹に妙なハゲがあるネズミです」

 背筋がゾッとした。いや、ネズミはたくさんいる。同じようなハゲがあるネズミなんて溢れるほどいるに決まっている。

「他に何か特徴は?」

「その特徴だって必死に見つけた物でして……」

「そのネズミは……今どこにいますか?」

「連行したのはさっきです。今は尋問中で明日には処刑です」

「おい、お前さん。まさか助けるつもりか?」

「当たり前じゃないですか。まだ子供ですよ? ベージに上手く担がれたに決まってる」

「子供である前にネズミだろ? 生かしておく理由も特に無いだろ?」

 バナは冷淡に言った訳じゃない。「どうしてそんなつまらない事をするんだ?」と困った顔で私に話しかけている。彼らの中ではネズミはその程度なのだ。ネズミと会うごとに、ネズミの話をするごとに溝が深まる。

 ほんの少しだけ触れ合ったネズミを守りたいと考えているのだろうか。私が助けてもそのネズミはほんの少しの事で死ぬ。酔っ払ったウシに蹴られるとか腹の減ったイタチに食われるか。私が何かをした所で何も変わらない。犠牲になるのはいつも何もわかっていない子供だ。そんな最低なことも私の住んでいる世界と変わらないのだろうか?

「ネズミを見せてもらえませんか?」

「あなたには関係ないでしょう?」

「あります」

「どうして?」

「……カーシミッドだからです。だから……ネズミやベージがどれだけ愚かなのかを知り、それを歌にするのです」

「カーシミッド? あなたが? ……少し待っていてください」

 スラスラと思ってもいない言葉が流れる。心の中で思っているのはマッチャをどうにかできないかだけだ。心の中でくすぶっている「元の世界に帰りたい」思いも霧散していた。木が焼け焦げた匂い、橋の下を流れる水の匂い、周りにいる動物の匂い、青臭い私の心の匂い、それらが混ざり合って熟成され芳醇な香りを醸し出す。


 暗くジメジメした細い廊下を歩く。通路の細さはサイやゾウがこんな所には来ないことを表している。血の匂い、悲鳴、鳴き声。この調子だと鉄仮面を付けた双子の弟も出てきそうだ。

「ここです。妙な真似はしないでくださいね?何かあれば報告しなければいけないので」

 言葉を投げかけるイヌの目からは「頼むから余計なことはしてくれるな」とすがりつく思いをが見える。最下層の兵士はどの世界でもキビシイらしい。鍵が開けられたドアを押すと、この場にふさわしい鈍い音を立ててドアが開く。闇から小さな声が聞こえ、影が近付いてきた。

「久しぶり! 元気!?」

 私の足元をクルクル周り、短い足を立てて私の太もも辺りを両手でポコポコと叩く。顔を見ると目を背けたくなるほど腫れ上がり、左目は開かなくなっている。そんな状態で駆け寄ってくるマッチャを思い切り抱きしめてしまった。

「なんで火を点けた」

「ごはんをね! 貰ったんだ! 兄弟の分もだよ!」

「ごはんをくれたのはどんな奴だった」

「イヌだと思う! 怪我をしていたみたいだった! 包帯を巻いてたよ!」

「ごはんだけで火を点けたのか」

「違うよ!」

 壁にもたれていたイヌがこっちを向くほど大きな声を出す。

「じゃあどうしてだ」

「あんたに会いたい! って言ったら連れて行ってやるって言われたんだ! 嬉しいなあ! 会えたね!」

 子供の乞食に小銭をあげるのと同じだ。この子ネズミをどうにかしても何も変わらない。インドでもベトナムでも乞食は無視した。強引な乞食は蹴り飛ばしもした。これも同じだ。同じはずなんだ。

「なんで会いたいと思ったんだ。何度も行ってたじゃないか」

「なんでだろう! 他の獣と違うからかなあ!」

「ちゃんと反省するんだ。何とか……何とかしてやる」

「うれしいなあ! 本当に会えた! また会おうね!」

「ああ。ちゃんと反省するんだぞ」

 重い扉が閉まり、狭く臭い廊下をまた歩く。王にどんな説明をすれば良いのか。ネズミは獣として認識されていない。ある種の道具。我々ニンゲンが機械を作ったのは楽をするためだ。アトラムの獣はその代わりにネズミを使った。道具に愛着を持つ者もいるだろう。しかしそれは少数だ。少なくともこの王宮にはいないだろう。だったらベージと話すか?時間がない。それに話せるのか?話してどうなる?兵士にバレたら殺されるかもしれない。


 私が選んだのは、促された通り自室に戻り、残り4本となったタバコの1本に火を点ける行為。どこまでも純粋な怠惰。紫煙に包まれどうすれば良いのかを考える。

 明日どうするのか。それだけを考えてタバコを強く吸う。久しぶりの毒素は体を痺れさせる。バッシャも悪くないがやはりタバコだ。そしてマッチャだ……とりあえず今は何もできない。ベッドに入り、石の冷たさを感じて眠るマッチャを思い浮かべ、毛布の柔らかさを感ながら目を閉じた。


 爽やかな朝。窓を開けると市場から活気ある声。気合を入れながら服を着ているとタムリからマッチャの処刑が終わったことを知らされた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます