第13話
記憶が蘇ってくる。草木の青臭い香り、飯時のニョクマムの香り、米兵のタバコの香り、戦闘の後の血と火薬の香り。鬱蒼と広がるジャングルはベトナムその物だ。
巨木が折り重なって倒れている。その隙間に身を隠す。海岸ではまだ戦闘は続いているのだろうか。タウーは私を探すのだろうか。多くの考えが頭の中を巡る。今、私は孤立してしまっている。海岸に戻る時にポウポウに出会ったら?何かあると信じて飛び出した先にあるのはいつだって後悔だ。
結果、木の下で震えている。もう数時間も。テンが恵みの光を降り注ぎはじめた。足音はしない。獣の匂いもしない。ニンゲンの耳と鼻、アトラムにきて一番役に立たなかった2つを駆使して状況を確認する。少し落ち着いて服を見ると赤黒い血で汚れている。全身をくまなく触ってみるが、傷はない。タウーが倒したポウポウの返り血だとわかり安堵すると、体はタールのように粘度を上げ動けなくなる。
「どうすれば良い?」
誰に言うでもなく自然と口から発せられた言葉。戦場に一人、これほど染み入る言葉は無い。朝から釣りに出かけて日も暮れようとするのに何も釣れていない。そんな時の一言と同じ意味合いだ。
そんな時は決まってタバコに火を付ける。香りでポウポウが近付いてくるか?知った事か。最後のタバコに火を点ける。5回程吸った時、小枝が折れる音がした。ニンゲンにも認識できる距離にいる。近い。タバコを地面に押し付けて消し、6割程残ったシケモクを箱に戻す。足音は近付いてくる。はっきり足音が認識できる所で音は止まった。飛び出して逃げるか?全力で走れば何とかなるかもしれない。しかしどこに逃げる?メチャクチャに走ったせいで海岸がどこかもわからない。
殺されるかもしれない。そう思うと体は氷水に入れられたサバみたいに固まる。
「ミチアキですか?」
聞き覚えのある声。理解が追いつかない。思い出せ。ぬくもりのある音、高くも低くもない声。この世界で一番最初に聞いた音だ。
「タムリ」
「ミチアキですね?……良かった。出てきてください。安全ですよ」
ゆっくりと這い出て顔をあげるとそこにはタムリがいた。初めて出会った時と同じ服装をしている。
「タムリ、タムリ……」
「無事で良かった。臭い匂いとポウポウの匂いがしたのですが……その血が原因ですね。と言うことは戦闘がはじまっていると。怪我はありませんか?さあ、立って」
手を引かれ立ち上がる。どうも私の腰はよっぽどの安普請だと思われる。
「どんな状況でした?ポウポウと戦っているのですね?」
「知ってるのか?ポウポウがいるって……」
「船が沈められ、必死で泳いで上陸して、ネズミやイヌや仲間を待とうとしましたが、どうしようもないので壁まで向かっていました。その時に何頭か殺しました」
「壁まで行ったのかい?」
「いえ、また白い光が見えたので……皆が近付いてきたのかと思い戻っている所でした」
「そうだ、海岸だ。戻らないと」
「ミチアキ、説明をしてください」
「タウーや皆が戦っている」
「どれだけ上陸できましたか?」
「ネズミが8000ほど……あと……イヌが50もいないくらい」
「大いにやられましたね……ミチアキはどうしてここに?」
「逃げてきた……怖かったんだ……」
「まあ、そのほうがタウーも気にせず戦えるでしょうし良かったでしょう。アウーは?」
「アウーは……一回目の光の後……タウーの遠吠えに反応しなかった。タウーたちは死んでると思っている……」
飄々とした顔で話していたタムリの顔が曇った。ぎゅっと目を閉じ、長く息を吐く、そしていつもの表情に戻り「戦争ですしね」とだけつぶやいた。タムリは目と口を半開きにして耳だけを動かす。音を聞くことに集中している。数秒その状態で虫や鳥の鳴き声が響き心地よい空気が流れている。
「もう終わっているみたいですね。戻りますか」
タムリの言葉を信じ、音を頼りに歩く。近くに敵がいたとしてもタムリの耳でなんとかしてくれるだろう。
歩いていたのは30分程だっただろうか。海岸に出ることができた。なんてことはない、混乱した私は海岸からさほど移動せずにジャングルの入り口付近をぐるぐる回っているだけだったのだ。遠くに皆が集まっているのが見える。1勝1敗。何とかアトラム国の兵士としての強さを見せつけた。
少し安心したら疲労が体を包み座り込んでしまった。タムリも歩き詰めだったのか、私の隣に腰を下ろし遠くのネズミやイヌを眺めている。腰にぶら下げた袋に口をあて、美味そうに水を飲む。私も強烈に喉が乾いていた事を思い出した。一口貰い、余りの美味さに天を仰いだ。その時だ。昼間なのでわかりにくいがテンではない白い光が空に浮かんでいた。それはそのままネズミやイヌが集まっている所に落ちていくのが予想できる。
「逃げろ!」
反射的に叫ぶ。タムリが何事かと私を見上げる。立ち上がった私を見るタムリも空を見ていただろう。突風のように駆け出し聞いたことがない声で吠える。イヌとネズミの動きが止まりタムリに気付く。久しぶりに見る上官に大興奮だ。光は迫ってくる。誰も気が付いていない。
タムリは吠える。強く強く吠える。その声は広すぎる砂浜とジャングルに飲まれ、歓喜の声をあげる仲間に打ち消されていく。天を指差し吠えるタムリ。光は一つじゃない。いくつも連なって音もなく下りてくる。それは平穏を呼ぶように。
悲鳴が聞こえる。遅すぎた。幾つもの光が砂浜に降り立ち、大きな光と共に獣の肉を巻き上げる。私とタムリは両手をだらりと下ろしてその光景を眺めていた。全ての光が砂浜に落ち、えぐれた地面が海水で満たされるまで。
先程まで多くの命が存在した場所を睨むタムリ。両手にはいつのまにか牛刀ほどの大きさの剣が握られている。
「何があったんだ……」
「攻撃でしょう」
「助けなきゃ」
駆け出そうとする私をタムリが制する。
「私が先に見てきます。手を上げて合図をしますから」
普段の歩き方とは全く違う。四本足で足音もなく素早く動く。タムリが着弾地点近くにたどり着き右手を上げた。ゼエゼエと肩で息をしながら到着すると想像すらしていない景色が広がっていた。そこには何も無かったのだ。所々不自然にネズミやイヌの体の一部が落ちてはいるが、爆発によって飛び散ったのではなく、その部分だけが切り取られたかのようにあちこちに転がっている。
「これは……」
「なんでしょうかね……もう少し探しましょう」
「また……攻撃されるんじゃ……」
「どこにいても同じですよ」
タムリは鼻をクンクンさせあちこちを嗅ぎ回り、落ちた肉片をつまみ上げる。
「妙ですね」
「何が?」
「焼けた匂いがしない。しかし体はあちこちに飛び散っている。そして全てを集めても……少ないですね。あまりにも少なすぎる」
言われてみるとそうだった。あんなにも、砂浜を埋め尽くさんとしていた大群と、森から出てきたポウポウ達がいない。助かったのは恐れをなして逃げた私だけだ。記者として、カーシミッドとして見届けようと思っていた戦場から逃げてしまった。衝動的に走り出し木の下で震えていただけだ。結局は何もできなかった。タウーの陰に隠れていた私は、今度はタムリの陰に隠れている。
記者魂はあるあると思っていた。だから戦場にも行った。好奇心はあると思っていた。だからこそ戦争の真っ只中でペンを取った。その末路がこれだ。
「ミチアキの責任じゃないですよ」
「……?」
「思い詰めた顔をしていましたから。私だって逃げたいですよ」
「………」
「ゲッカニアみたいな単純な連中じゃない。だけど……」
「だけど?」
「ミチアキは守りますよ。大切なお客さんですし……それに友達ですしね」
「……」
「……そう思ってたのは私だけですか?」
「いや、ありがとう。ありがとう」
「ゾっとしましたよ。最初に攻撃された時よりゾっとしました。最初……?そうか」
「どうした?」
タムリが海を向き鼻をピクつかせる。
「まだ匂いがしますね」
「何のだ?」
「死体です。新しい死体の匂いや残骸の匂いもしますが、古い腐った匂いがします。ミチアキ、ここでの戦闘はどんな感じでした?」
あの時のことを話す。沢山のネズミがはじけ飛んだこと、ポウポウが痙攣して死んだことなどだ。逃げ出すまでの事を話すとタムリは思案を巡らせる。
「なるほど……多分ですが、ここにはしばらく攻撃は来ないでしょうね」
私はバナに聞いた話を思い出した。多分、タムリも同じ話を聞いた事があるのだろう。
「ポウポウが力を使うには多くの贄が必要」
海底には死体が沈んでいるのか?今回の攻撃はタウーやネズミがポウポウと殺し合いをした場所だ。大量の兵士が倒れ、ポウポウが死んだ。砂浜は大量の死体で覆われたことだろう。
「タウーは……」
「ちょっと待って。匂いが……あそこです」
タムリが指差すのはもう少しでジャングルに辿り着く位置だ。特徴的な籠手がついた右手が転がっている。
「戦おうとしたのでしょう」
近付き手に取る。ずしりと重い。混乱し、恐怖によって森に駆け出した私とは違い、タウーは敵を感じて森に駆け出したはずだ。私みたいな臆病者とは違い、国や種族のために駆け出した。タムリはタウーの腕に付いていた籠手を外した。
「着けましょうか?」
「お願いするよ……」
言ってみた物のタウーと違い貧弱な腕の私には身に余る籠手だった。ブカブカでどうにも上手く着けられない。悲しみとおかしみが同時にやってきて涙を浮かべながら笑ってしまった。タムリは籠手を外して自分の右腕に着けた。
「イヌかオオカミじゃないと上手く着けられませんね」
震える声でタムリが言う。波の音と木々が揺れる音だけが耳に入る。ぎゅっと目を閉じ、再び開くと兵士の顔をしたタムリが聖壁を見上げていた。アトラムはまだ戦おうとしている。
「生き残った仲間を探しましょう」
タムリは鼻をピク付かせながら残骸を見つめる。すると残骸の隙間から音が聞こえ、ゆっくりとネズミが顔を出す。骨の代わりにバネでも入っているのか、全身が大きく震えている。
「大丈夫です。他に仲間は?」
「あ…ああ…ああ…わか、わからない…」
「…ミチアキ、その辺に座らせといてください」
ネズミに何を聞いても『わからない』と言うばかりだ。目の前でとんでもない事が起きた。本能に従って逃げた、私も同じだった。その分からなさは痛いほどに分かる。
タムリは残骸の隙間に首を突っ込み声をかけながらネズミを引っ張り出していく。濡れネズミ達がたちまち25頭。ほぼ無傷だ。全て虚ろな目でプルプルと震えている。5万近いネズミが一瞬で25頭。ネズミが言うにはいくらかは森に逃げたと言っているが、数は少ないだろう。
別の場所にも上陸した仲間いるはずだ。探しに行こうとは思うが、どこをどう動けば良いか分からない。その時、頭の上から声がした。聞き覚えのある声だ。返事をするタムリからは笑顔が読み取れた
「チート、生きていたのですね」
「あなたもね! 最初の攻撃の時に必死で飛んで逃げたの! 壁の近くまで行ったんだけど、またあの光が見えて戻ってきたのよ!」
「他のオウムは?」
「みんな…光に巻き込まれたと思う…鳴いて探したけど全く反応が無いから…」
タムリは腕を差し出すとチートはその腕に乗る。駆け足で肩まで上り、小さなくちばしでタムリの頬をつんつんと突く。対象的にネズミたちは沈んだ表情で座っている。何をしたら良いのかわからないのだろう。私もネズミ側の1頭だ。これから何をするんだ。イカダでも作って逃げ出すか?チートに力の限り飛んでもらって助けを呼ぶか?タムリは手につけた籠手を撫でている。聞きたくない言葉がすぐにでも飛び出しそうだ。
「少ししたら行きましょう」
こんな時だけ思い通りになる。いつもそうだ。
「この状況でどうにかなると思っているのか?」
「どうにもなりませんね。ここで煙を上げれば3日後には仲間は来るでしょう。そして私はアトラムに帰って新しく生まれる子供達を家畜として差し出すのでしょうね」
「生きて帰るのが第一だろう?」
「生きて帰っても何も無いですよ。作戦を失敗した獣として生きるだけです」
「私は死にたくないぞ」
「私もですよ」
「矛盾してないか?」
「ミチアキ、ここは聖域です。作戦の最後には浄化を行うと言っていました。ポウポウの圧倒的な力を見せ、それをカーシミッドに歌わせることでアトラムへの求心力も上げるのでしょう。今はその途中です」
「だからどうやって? 兵もほとんどいないじゃないか」
私は『どれだけ作戦が無謀なのか』を叫び倒した。船を作って逃げようと提案しても海に漂う死体を使ってもう一度攻撃されるかもしれないと言われ、私はイヤダイヤダと叫ぶしかできない子供になってしまった。
「やる事は3つですよ。聖壁まで行って煙を上げる。敵を全て殺す。浜辺に戻る。すごいですね、たった3つのことをすれば私たちは英雄ですよ。ネズミたち、わかりますか?やることはあと3つだけですよ。今まで生きてきた歴史があと3つで変わります。そうです。その笑顔です。家族にも笑顔をプレゼントしましょう」
ネズミを見ると震えが止まっている。骨の代わりにバネが入っているのはもはや私だけだ。チートは嬉しそうにタムリに頭を擦り付けている。
「どうやって勝つんだ……? どう戦うんだ……?」
「刺…刺せば、死ぬよ。ああああいつら。俺たちより弱い。ひ、ひひひ」
ネズミが目をギラつかせて話す。このネズミ、覚えている。アウーが橋の下で最初に槍をもたせたアイツだ。ギラギラした目、少しどもる話し方。あの橋の下で見た時より邪悪な雰囲気を纏っている。見回すとネズミたち全てに邪悪な雰囲気がある。
数頭のネズミが集まって何かを口にしている。隙間から見ると何かの肉だ。白い髪が見えた時点で正体を探るのをやめる。自らの役割と種族のために戦うオオカミ、自らの力を認識したネズミ、現実から目を背けるニンゲン。
やるしかないのか?3つ、3ステップを乗り越えれば勝てる。ベトナムではそのステップ数すらわからなかった。何をどうすれば勝ちなのかも見えなかった。しかしここではあと3ステップ。それだけやれば生き残れる。元の世界に帰れる帰れないなんてどうでも良い。まずは生き残れるかどうかだ。弱音を吐き散らし声がかすれはじめた頃、都合の良い想像で本心を埋めることにした。
「ミチアキ、どうか力を貸して欲しい」
「私はニンゲンだぞ? 何ができるんだ」
「ミチアキ、あなたはこんな密林の中で戦ってきたのでしょう? どうすれば勝てると思いますか? ベトナムでしたっけ?少人数で孤立しても戦っていたのでしょう?」
「私は兵士じゃない」
「何か覚えている事はありませんか?……戦場で何が一番怖かったですか?」
銃撃は怖かった。待ち伏せも怖かった。虫とかも怖かった。どこにいるのか分からなくなるのも怖かった。そして何より怖かったのは罠だ。罠が張り巡らされたジャングルではどんな屈強な戦士も獲物でしかない。
「罠かな……でも…君らには必要ないだろう?」
「罠ですか……なるほど。なるほどね」
タムリはクスクスと笑い、そうかそうかとしきりに納得している。ぽかんとしながら眺めていると、タムリが私の右肩に左手を置いた。
「無力な獣の悪あがきですね?」
市場の香りが蘇ってきた。そうだ。無力な獣の悪あがきだ。恥ずかしいほどに悪あがきだ。その悪あがきに思いを巡らせている強き獣が目の前にいる。
「ミチアキ、あなたの耳と鼻はどのくらい良いですか?」
「アトラムでは最低じゃないか……?それがどうした?」
「ポウポウもそうじゃないですかね?目は良いみたいですが。まあ、海にあれだけの船団が来れば悪くても分かるでしょうけど」
「確証はあるのか?」
「この任務が決まって何度かポウポウに会った時、足音を消して近づいても気が付かなかったです」
「それでどうするの!? 罠を作るの!? 罠ってどうやって作るの!?」
タムリ、チート、ネズミにベトナムでさんざん教えられた罠を伝える。木やツルを使い、ツルを蹴り飛ばすと勢い良く釘が打ち込まれた板が跳ね上がってくる罠。落とし穴。ベトコンが作っていた罠を説明するとタムリは見たことがない笑顔になった。獲物を狩る獣の顔だ。
「良いじゃないですか。しかし凄いですね」
「どういうことだ?」
「殺すことだけを考えている」
タムリやネズミに原始的な罠の作りを教えると船の廃材や木々を使って器用に作りはじめた。工具はさほど必要ない。その爪や牙が工具となり、木々が武器に変わっていく。大量のネズミが木をかじり五寸釘程度のモノを次々に作っていく。前歯や牙を使い板に穴をあける。確かにこんな威力の武器を体に潜ませているのなら罠なんて必要無かったのかもしれない。
「ネズミ達。その罠に体を擦り付けてください」
ネズミ達は遊ぶようにお互いの体に罠をこすりつけあう。タムリが言うには後から上陸する仲間が罠にかからないようにするためだと言う。罠の危険性をすでに認識しており、仲間にしかわからない方法でどこに仕掛けられているのかを伝える。評価される訳だと納得した。
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