第3話
香りは言葉よりも雄弁にその世界を語る。日本なら醤油、インドなら芳醇なスパイス、ベトナムならニョクマムと催涙ガス。アトラムの市場に近付く時、私はイヌのように鼻を鳴らしながら歩いていた。
市場の周りには着飾った獣が珍しそうに私を見る。そして多くの獣がタムリやバナに目が合うと林家三平の「どうもすいません」の手を額の中心に持ってくる挨拶をしている。
タムリが気の良さそうなイタチから一本の串焼きを貰い、それをかじりながら歩く。驚くほどベトナムの市場と似た香りがする。大きな違いは獣が闊歩する街で獣の肉が焼かれている異様さ。そんなタムリに大きな角を持つウシが前述した挨拶をする。
肉を食うオオカミに向かって挨拶。それは服従なのかと考えたが、和やかに話す様子からは恐怖や畏怖は感じない。タムリがウシから革袋を受け取り口に当てる。一言話すとウシは嬉しそうに去っていく。
「何を話していたんだい?」
「ああ、彼は農業の他に乳から酒を作っているのですが、味見を頼まれました」
「その乳は……ウシの?」
「妻が5頭いるらしいですし、そのどれかのでしょう。美味しいですよ」
「その肉は?」
「ああ、これはトリですよ。家畜と言って食べるトリや獣は専用の場所で育てています。あなたの国には無いのですか?」
「ウシと話していたからドキっとしたよ。ウシを食べながらウシと話すのは勇気がいると思って」
「割と喜んでくれますよ? 普通はそうじゃないですか?」
またしても「何を言ってるのですか?」の思いを感じる言葉。漁師が獲ってきた魚を褒めるのと同じなのだろうか。食う獣と食われる獣が同居する不思議な世界は多くの夢想家が描いたユートピアなのかもしれない。そう思案しながら歩いていると1軒の屋台に着いた。ヤギが器用に大ぶりなナイフと物差し定規のような木の板を使い肉をジュウジュウと焼いている。
「ここにしましょう。肉は食べられますよね?」
「何の肉だい?」
「ウシ、ブタ、ウサギ、イタチ…食っていいのならなんでもある。なあ!」
バナがそう言うとヤギの大将がヒヒヒと笑って返す。タムリが聞きなれない注文をし、薄い皮と小さな歯を幾つか渡す。アトラムの貨幣のようだ。このような世界でも貨幣が流通し、商売が行われている事にギョっとした。ここまで高度な文明を持っているのなら当然かもしれない。しかし、金を払い物を手に入れるといったニンゲン的な日常がある事に驚いてしまった。
「それはお金かい?」
「オカネ? ああ、アトラミゲゲシュンバルラですか?」
「アトラミ……?」
「アトラミゲゲシュンバルラ」
「舌を噛みそうだ」
「私もです。今のは正式名称で、皆はアルラと呼んでいます。労働の対価として貰えます」
「近い物はあるね」
「言うと思った」
タムリはクスクスと笑いながらアルラを腰に付けた小袋にしまう。何を注文したのか。ある程度のゲテモノは食べてきたが獣と同じ食事ができるとは思えない。バナに促され粗末な椅子に座るが不安は高まる。
「何を注文したんだ?」
「ウシとウサギのシャ、ブタのテテト。それにウシのンググと」
「ちょっと待って、わからない」
「ええと……調理法がって意味ですよね?『シャ』が…火を近づけて焼く料理です。『テテト』が味を付けた水の中に肉を入れて煮ます。『ンググ』は生です。切っただけの肉をそのまま食べます」
「お前さんの所には面白い調理法があるか?」
「油で揚げるとか……」
「油? ありゃ明かりを点けたりの燃料だろ? 前時代的な物を食ってるから毛が抜けてんだよ」
土で作られた『ぐい呑』を傾け、赤い顔が更に赤くなるバナ。油を前時代的と言うのは部屋の照明にも使われていた赤く光る石があるからなのか?聞いてみた所、光る石は安価で取引されていると言う。火は料理に必要なので薪、炭、乾燥させた糞を使うが、照明は石で十分らしい。環境への配慮も完璧だ。スモッグ、酸性雨、森林破壊。それらが社会問題となる我が世界にもこの石があれば無駄な争いも起きないだろう。
「はいどうぞ。シャはもう少し待ってくれ」
目の前に並べられた肉の香りを鼻腔に収めた途端に腹の虫が労使交渉をはじめた。訴えに応えるためにも口に運びたいが躊躇してしまう。異国どころか違う世界の料理だ。
目の前の獣2頭は興味深げに私を見ている。視線を落とすと大きな丼。中には皮付きの豚肉、足、耳、鼻などが見たことがない野菜とごった煮になっている。直接手で掴むと煮物独特の温もりと程よい弾力を感じた。魅力に抗えず口に運ぶ。豚肉独特のしっかりした繊維が小気味良く弾け、肉汁が歯の隙間から口腔に広がり味蕾に味を伝える。薄い。野菜から出る甘みは感じるが薄い。2頭は目を輝かせ感想を待っている。
「美味しいです」
「でしょう!? 私達は王宮でも食事が支給されるのですが、ここが美味しいので今日みたいに訪れるのです」
「やっぱり俺たちゃ肉を食わなきゃな」
「あと……食事の際はこの道具を使ってください。王宮の食事会で手掴みだと…馬鹿にされますよ…文化の違いで困らせて申し訳ないです……」
タムリとバナも食事に手を伸ばす。きちんとフォークやスプーンを使って。彼らからすると野蛮な獣は私のようだ。ウシのンググにも手を伸ばす。生肉はアジアでも好んで食べられる。紫色の木の実を絞ってから食べる。これは美味い。ウシの血がソースのようにまろやかな塩味を作る。一つ抵抗があるのはこれらを食べているすぐ側をウシやブタが歩いて行くことだ。そしてウサギの夜鷹が色目を使って近付いてくる。2頭は軽くあしらい、ウサギは笑顔で立ち去る。その後、テーブルにはウサギの串焼きが並べられた。
食欲が満たされ椅子に背中を預けながら市場を見渡す。アトラムやこの世界のルールを聞こうとしたが、目の前に食べ物があるとどうも食事のことばかり聞いてしまう。
「ウシやブタが歩く前で食べるのは中々勇気が必要だったな」
「そうですか?まあ、そう考えて肉を食わなくなったイヌもいますよ」
「ウシやブタも普通に生活をしているのに……」
「トリを含め、ヌヌテンの獣は食って良いんだ。食われる為に育てられる獣もいる」
「ヌヌテン……お話しもあった……アトラリムでしたっけ?」
「そうだ。獣が増え過ぎたらすぐにメシも住む所も無くなる。だから信仰しているテンが弱い獣は生まれるとすぐに食われるのと育てられるのに分けられる。だから何の問題もない」
「どうやって決めているのですか?」
「生まれてから産声をあげるのが遅いやつとか立つまでが遅かったりとかさ」
「出産管理なんて……自由に生きられないのですか?」
「自由に生きてるじゃないですか」
タムリが笑いながら口を挟む。
「でも食われる獣もいる」
「それがそんなに不思議ですか?全部生きると全部死にますよ」
大抵の部分は理解できる。例えば正義。自分の種族や国が危険な時、オスは我先に装備を整え敵と戦う。そんな部分は共感もできる。だが、今回のように共感できない部分も彼らと過ごす内に増えていくだろう。
談笑しながらバナが勧めるハチミツ酒や乳酒を飲む。アルコールは好きなのでこれはグイグイいけた。2頭とも異民族が自分たちと同じ料理や酒を楽しみ、喜んでくれるのが嬉しいのだろう。タムリは尻尾を振りながら笑顔で私を見つめている。そんなタムリの耳が明後日の方向を捉え、顔を両手で覆い深い溜め息を吐く。
「いつものです……すぐ戻ります」
「大変だな。またベージか?」
タムリは虚空を見つめ耳だけをクリクリと動かす。そして雑多な獣が行き交う中を掻き分けていった。私やバナには聞こえない何かを聞き分ける。やはりタムリはオオカミなのだ。動物の凄さを感じると同時に、逃げたとしてもすぐに捕まる想像が改めて浮かんだ。
「何かあったのですか?」
「お前さんもそのうち見かけるだろうから説明してやる。ベージだよ」
「ベージ?」
「肉を食うのをやめろ! 獣は団結し農耕に勤しむのだ! アトラリムなんて必要ない! すべては平等なのだ! ってな…」
「コミュニストですか」
「なんだそりゃ?」
「似たようなのがいますよ」
ヒッヒッヒと笑い酒を一口飲む。そして真面目な顔で話しはじめた。
「俺も学者の端くれだ。お前さんを見た時にすげえ事が起きたと思った。でもよ、結局似てるんだな。何もかもが」
「大きな所では全く違いますよ」
「不満とかじゃねえんだ。ただ……不思議だなって思ったんだよな」
ニンゲンとサル。似た者同士だからこそ、似た事を考えるのかもしれない。ぐい呑の両端を指でつかみ、軽く回すその姿は新橋や新宿で良く見た酒飲みの生き写しだ。似た世界で私は何を探すのか。もしかするとそれは激烈な差異かもしれない。
「見に行って大丈夫ですか?」
「面白いモノじゃねえぞ?」
「見物がてら行ってみます」
「やっぱりカーシミッドじゃねえか」
またしてもホッホッホと笑うバナは机の上の焼きウサギを手に取り立ち上がった。人混みを掻き分け進むと広場に出る。怒声が近付いてくるのが分かる。
「我々は! 肉食をやめ! 共生すべきだ! 私は仲間を食べない!」
ベトナムのあちこち、日本なら大学のあちこちで見られた光景の焼き増しだ。若いイヌを諌めるタムリ。タムリを無視して叫ぶ若いイヌ。それに呼応して声をあげるウシやブタ。王宮で見た武装したイヌやオオカミはまだ集まっていない。困った顔で非暴力的に止めようとしているタムリが一番手のようだ
「落ち着いてくださいよ。あなたを衛兵に引き渡したくない」
「落ち着いていられるか!」
困った顔で説得するタムリ。問答無用で催涙ガスを撒く兵隊とは大違いだ。会話や優しさが通用する世界。久しく離れていた世界。周りに集まるイヌはベージなのか、タムリに「肉食い、アトラムの奴隷」などの罵詈雑言が飛ぶ。タムリは一切耳を貸さず説得しようとしている。多くの獣が集まり、その獣を目当てに物売りが歩き食べ物を売る。その商品に肉は無く、飲み物や果物なのは獣たちの気遣いなのだろうか。
大声をあげる獣が増え周りが盛り上がってきた。その時、ふくよかな胸を持つメスウシとぴょんぴょん飛びながら様子をみていたウサギがぶつかった。体の大きなウシは倒れなかったが、ウサギはたまらない。もんどりうって倒れ、手にしていたカゴから果物が落ちる。そこに落ちた果実を掠め取る黒い影。
「ああ嫌だ! 1アルラも払えないのかい!?」
聴衆はタムリとイヌのやり取りに夢中になっている。落ちた果実は多分5個、それが数瞬後には消えている。すべて黒い影が奪っていった。ウサギは追いかけるでもなく、また声を張り上げて売り歩く。私が目で追っているのに気が付いたのか、バナが話しかける。
「気にするな。ありゃネズミさ」
「ネズミ? 毛むくじゃらで動きが早い?」
「毛がねえのはお前さんとポウポウだけさ。おお、あのイヌ、噛もうとしてるぜ」
バナはネズミには興味を持たず、イヌとタムリを見ている。なるほど、獣同士の戦いだと、手より先に口が出る。流血を伴う口喧嘩だ。その光景も楽しいが私は妙にネズミが気になり探してしまう。よくよく目を凝らすと、誰かが食べこぼした物があると黒い影が走り出て掠め取っていく。フナムシのような速さがあり、多くの足の間を駆け抜けていく。
「怖いので離れていて良いですか? もちろん王宮には戻ります」
「これからがおもしれえのに。適当にブラついてきな。これを持ってけ。無駄遣いするなよ」
どれほどの価値があるのかは分からないがアルラが詰まった小袋を渡してくれた。バナは焼きウサギを齧りながら事の成り行きを見守っている。私はその場を離れ適当な屋台で木の実を少し購入した。値段はわからなかったが、小さな歯を1つ出すとくるみサイズの実を3つ手渡してくれた。イタチの店主は不思議そうに私の顔を見つめている。
喧騒から離れ椅子やテーブルが置かれている小さな公園に腰を落ち着けた。木の実をテーブルにぶつけると簡単にヒビが入った。中には茶色い実が5個詰まっている。恐る恐る口に入れてみると干した昆布に近い味とうっすらと塩味を感じる。もう1つ手に取り、テーブルの下に落としてみる。すると瞬時に小さな影が木の実を奪い消えていった。大きさは私の膝あたり。2本の足で立ち上がったとして、標準的日本人体型の私の腰あたりまでの大きさだろう。
もう一つ投げる。今度は先程より早く影が近づく。もう一つ。さっきより早い。今度は実を2つ掌に乗せて待つ。影が近付いてくるのが分かるが取りには来ない。体を折り机の下を覗くと灰色のネズミが私の様子を伺っている。目が合うと数歩後ずさる。それに合わせて1欠片を小さく投げると少し逡巡した後に実を飛びついて走り去る。もう1つの実を割り、今度は隣の椅子に1つ乗せる。ネズミはしばらく私の周りをゆっくりと回った後に意を決して素早く取りにくる。
上手くいっている。ハトを手懐ける時と同じだ。今度は木の実を掌に置いて椅子の上にセット。コツはその掌を見ない事だ。小さな足音と何かが触れる感触。もうすぐ食いつく。もう一度同じ事をする。小さな足音が近付いてきた時に今だ!と手を握りしめる。小さな温もりが手に触れる。温もりの先を見ると小さなネズミが私の握りこぶしを両手で挟み固まっている。ゆっくりと顔をあげるネズミ。その顔には微かな怯えが見て取れる。私は表情を変えずにゆっくりと手を開く。ネズミが実と私を交互に何度も見る。私は小さく頷き、掌をゆっくりと傾ける。実が椅子に落ち、掌が膝の上に戻る時、ネズミは嬉しそうに実を掴んでコリコリと小気味良い音を立ててかじりつく。そのネズミはニンゲンの子供みたいな微笑ましさだ。灰色の体にゴワゴワの毛が生え、大きく丸い瞳に小さな手、汚らしさと可愛さ。両極端な個性が作る魅力がある。食べ終わると両の手を見てため息一つ。そして椅子に落ちている小さな小さな欠片を見つけ大事そうに食べる。それも食べ終わると笑顔で私の顔を見上げる。
まだ割っていない実をつまみ、ネズミの鼻先に持っていく。ニンゲンの数十倍もあるであろうその嗅覚を誇示するように鼻を鳴らす。一呼吸置いて体が膨らむのが分かるくらいに香りを吸い込む。そして私の顔を見ながら小さな手で実を掴む。私が手を離すと実に口を近づけて小さく噛む。私を見る目は「食べても良いのかい?」と言わんばかりに輝いている。頷くと歯を器用に使い殻を剥いていく。半分ほど殻を剥いた所でネズミが急に振り返る。その目線の先には小さな影がいくつかウロウロしている。ネズミは実を持ったまま椅子を降り、2本足とは思えない速さで小さな影に近付いていく。
屋台や輝く石の光と漆黒の闇が溶け合う中間地点でネズミは私を再び見る。ミミズのようにも見える尻尾はゆっくりと上下している。ただでさえ良くわからない世界の闇の中、普通の状態なら行くこともなかった。ベトナムですら裏通りは避けて歩こうとした。そんな私が立ち上がり、ネズミに付いて歩きはじめた。
草を踏みしめる音、風の音、木々の鳴る音。光が無く、音だけの世界。ここにはいつライフルで頭を撃ち抜かれるか、どこで地雷を踏むかの恐怖はない。自由に森を歩けるだけで幸せを感じる。もしかしたら凶暴なネズミに殺されるかもしれない。ペストなどの伝染病をうつされるかもしれない。のんびりと歩く私は一歩ずつ鈍感になっていく。生命を狙われていない場所を歩く。それだけで気持ちが良かった。水の流れる音がする。そしてうっすらとした明かり。王宮や市場で見た石の光ではない、炎だ。水の音が近づくとそこには大きな橋があり、その橋を渡らずに坂道をおりると薄ぼんやりした闇に溶け込んでいく。腐臭や糞尿臭。典型的貧民街の香りだ。考えてみれば広場、通路あちこちに水が流れる細い水路があった。それらの終着点なのかもしれない。
あちらこちらで火が焚かれ、小さな椅子や机、そしてぼろぼろのテントや盛り土の穴。大量のゴミが目につく。ここはアトラムのゴミ捨て場であり、ネズミの住処なのだろう。光に照らされると走り回っていた影の正体が明らかになった。やはりすべてネズミだ。甲高い鳴き声が聞こえる。私を先導した小さなネズミはキョロキョロと住処の様子を探る。「チュチュ」と良く響く声を一つ。ゴミや穴、物陰、前方、後方、全ての方向から私を射抜く視線。
動くと殺される。どこからかはわからない。絡みつくような熱気、突き刺さる殺気、唯一できる事は唇を噛みながら目を大きく開くことだけだ。
「違うよ! 兵隊じゃない! 僕にデデググをくれたんだ! 悪い獣じゃないよ!」
デデググ、先程の実はそういう名前なのか。しかしこの時はまだそれを認識できていなかった。数日後、また屋台であの実を見かけた時にこの時の記憶と共に名前も思い出した。
「大丈夫だよ!」
もう一つ大きく叫ぶと突き刺さる殺気は消えていた。インドの田舎などに行った時、遠巻きに現地人が私を見つめていたあの時の感覚だ。若干下着が冷たくなっている。また忘れそうになっていた。この世界は私がいた世界じゃない。私は外国人だなんて甘い立場じゃない。異物なのだ。
声を出したネズミが大きなテーブルに昇り座りながら実を食べる。食べ終わると私を見つめて両手を振る。手を振り返すともっと勢い良く振り返す。負けじと振り返すとさらに早くなる。
いつまで手を振り合っていてもしょうがない。足元に気をつけながらネズミに近づく。アトラムの街には多くの獣が押し合いへし合い過ごしている。タムリやバナから教えてもらったアトラリムにもネズミは含まれていなかった。市場でもネズミは足元を駆け回る彼らしか見なかった。まだ知らない獣も多くいるのだろうか。そんな事を考えながらテーブルに腰掛ける。
「ここが……君の住処……家なのかい?」
「うん!」
何を話せば良いのかわからない。ネズミは、尻尾を大きく動かし私を見ている。とりあえずポケットに入れっぱなしになっていた実を取り出す。すると幾つかの黒い影が机の上に集合した。すべてネズミだ。所々毛が抜けているネズミもいれば片目がないネズミもいる。すべてのネズミが鼻をスンスン鳴らしている。机に実をぶつけてカラを割る。あっという間に実は奪われ、机の上には私と先ほどのネズミが1頭。気が付かなかったがいつのまにかゴミや穴から多くのネズミが這い出し、遠巻きに私を見つめている。好意を持った目ではない。どこの世界にもこんな貧民街は存在する。我々はそこに興味を持ち、生活を覗いてみたいとは考えるがどうせ他人だ。この貧民街と共に生きている訳ではない。住人たちはそれに気が付いている。『よそ者がやってきてあっちこっち見て帰っていった』毎日の中に興味を纏った侮蔑のエッセンスが一滴落とされるだけだ。私がいなければ彼らはいつも通りの毎日を過ごし、心に不安を感じることも無かったのだろう。ニコニコと私の顔を見上げるネズミを見ているとそんな気持ちが少しはマシになる。
「君はネズミなのかい?」
「そうだよ!」
「名前は……なんて呼べば良いかな?」
「名前!?」
「私は飯沼道明。名前、名前だよ。サシャ・ロボ・タムリみたいな……」
「無いよ!」
ニコニコとしながら言う。名前が無い。私が存在していた世界では名前がない獣ばかりだった。イヌはイヌ、ネコはネコ、家族として受け入れない限りは名前は無い。しかし野良とペットの違いは住む場所があるかどうかじゃなくて名前があるかどうかだ。名前があるからこそ、他の獣とは違う存在になり、死んでも悲しめる。名前がない存在と強い関係性は結べない。だから自然と名前を付けてしまう。
「友達や親からなんて呼ばれてる?」
「おい! とか、そこの! だよ!」
「そうか……」
「ねえねえ! あんたはサルなの!? サルみたいだけど匂いが違うね! サル臭くないよ!」
「私は……そうだな、遠い遠い国から来た。私もまだきちんと分かっていないのだけど…」
「そうなんだ! すごいね!」
タムリやバナはしっかりと話ができた。王やその周りの獣も私を見て顔をしかめたりと知性が高い反応をしていた。このネズミは子供だからだろうか?あまり話が通じないようにも思える。
「さっき周りにいたのは君の友達かな?」
「うん! 呼んでくるね!」
走り去るネズミ、ゴミの中に入り、1頭のネズミを連れてくる。その目には恐怖の色が見える。
「俺たちゃ……何もしてねえよ。何しにきた」
「何もしません。ただこの子に連れられて……失礼があったら申し訳ないです」
「あんた、俺たちを食うのか?」
「食べないですよ」
「じゃあ殺しに来たのか?」
「殺さないですよ」
私の発言一つ一つを噛み砕き、ゆっくりと理解している。ニコニコしている子ネズミとは対照的な反応だ。
「もう……夜も遅いし……帰ります」
「……」
じっと私を見つめる目には異物への恐怖だけがある。
「また来てね! 歓迎するよ!」
立ち上がり手を振る子ネズミの腹には三日月のハゲがあった。私はこの子ネズミに「マッチャ」と名前を付け覚えた。ベトナムで月を表す「マッ・チャン mặt trăng」から貰った。少し歩き、「この世界にも月は有るのか?」と空を見上げると3つもあった。気持ちを洗い流すにはそれで十分だった。
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