4-6 最後のメモ

 石田が続々と扉の開かないことを確かめている中、浦が高畑を引っ張る格好となっている。高畑が抱えている慄きはあらゆる力を抑えこんでしまうのだ。浦の導きがなければその場から動くこともできなかった。


 不意に立ち止まって浦が高畑を心配する。黒い影を怖がっていた彼女はどこに行ったのか。


「あれ怖いよね。見られているのに気付いた瞬間って、心臓とか全部持って行かれちゃう感じというか」


「ごめん、ありがとう。こんなに動けなくなるとは思ってなくて」


「ドトールで助けてくれたんだから、私も高畑を助けて当然でしょ」


「浦は怖くないのか? 慣れたの?」


「私だって怖くてたまらないよ。でも高畑が弱っているのを見ると、助けなきゃって」


 浦を助け出すために出した勇気はどこに行ってしまったのか? 気持ちを奮い立たせて足を引っ張らないようにしたい気持ち、浦だって恐怖と戦っているのに負けていられない、思いだけはあるのだが。


「話をしているところ悪いんだが、計画変更だ。下から行くぞ」


 石田が高畑と浦の肩を叩いて階段の方へと軽く押してくる。高畑は石田越しに廊下を見て状況を理解する。ガラスから黒い影がやってきている。


 今度は脚をもたつかせることなく階段を駆け抜ける。階段を降りた所でバッテリーと再会するが回収する余裕はない。心なしか、最初の遭遇に比べれば心と体が軽かった。


「どこまで走りますか」


 高畑は石田に声を投げられるくらいだった。


「後ろからは追ってきてないみたいだ。前はどうだ?」


 揺れる視界の中でおぞましい姿を確かめる。手前の窓ガラスから。


 いない。


 いない。


 いない。


 いない。


 いない。


 どうやらガラスの向こう側に潜んでしまったように思えて、高畑はペースを落とすのである。


「いないみたいで」


 言いかけたその瞬間、


「高畑!」


と叫ぶのは浦で、高畑を思いっきり引っ張る。その勢いのまま半ば浦を教室側の壁に押しつぶすような格好となってしまう。


 二の腕が焼かれたかのような感覚。後を追うようにして痛みと濡れる感覚が広がってくる。


 窓に目を向ければそこに腕がある。黒い影の腕だけが飛び出していて、ナイフの切っ先が赤くなっている。ガラスの奥に大きな目が見つめている。


 黒い影は高畑たちを追い詰めるつもりなんてない。


 黒い影は、高畑たちを殺そうとしている。


 重くて低い、しかしけたたましい破裂音が背後から飛びかかってきて、かと思えば目の前の腕が怯む。


「今のうちに走れ、そのまま準備室に走れ」


 石田が何かを突き出しながら走ってきた。ヘッドライトの光に照らされる姿は銃のようだが、見たこともない姿をしていた。


「走れ」


 ガラスの中に戻りつつある腕を脇目に高畑は脚に力を込める。教室側に寄りながら、ガラスから距離を取りながら進むのだ。腕が出てきた時は横に飛び退いてやり過ごすか、石田が銃から何かを打ち出して攻撃するか。


 フロア図を通り過ぎる。四の教室が面する廊下にたどり着く。窓ガラスのない一角で息を整えて一気に駆け抜ける。


 黒い影は両手でパーティを殺そうとしてくるようになる。避けるだけでは間に合わなくて、しゃがんだり止まったりしてやり過ごさなければならなくなる。高畑は決まって浦をかばうようにしていたから、うまく避けられない度に切り傷が増えてゆく。石田の銃撃は激しさを増す。


 四の教室を駆け抜けていよいよ目的の部屋にたどり着く。扉が開かない可能性だってあったが、全力疾走した文化系の部員には考えが巡らないのである。


 扉は何事もなく開く。


 中に駆け込むなり浦はその場に崩れて空気をかき集めた。高畑も体が悲鳴をあげていて、空気を求めていた。立ったまま息を吸おうとすれば立ちくらみに視界がぐらぐらして、両膝に手をついてでなければ息ができなかった。


 石田が最後に駆け込むなり廊下に向けて銃を連射した。扉を閉ざして、内鍵をかけて、そうしてから石田は壁に背をこするようにしてへたり込むのだった。


「あ、まずった、か?」


 しかし肩で息をしている石田はあたりを見回して不安な一言をつぶやいた。高畑は息をするのに精一杯で石田の言葉の意味を改める方法がなかった。石田が見つけた言葉だけが高畑の中で膨れ上がって本能を煽ってくる。


「いや? 何だ、これ」


 新しい言葉がやってきた。まだ目の前がチカチカするものの、足りていない空気は徐々に体の中にめぐってゆく。とはいえ、不安の言葉だったものが疑いに変わった理由を考えるにはまだ酸素が足りなかった。


 何とか動けるぐらいに空気を取り込んだ高畑が顔を上げれば、予想だにしない光景に息をするのを忘れてしまった。


 教室の半分ぐらい、談話室兼図書室の四分の一という狭い室内。後側の壁には図書室にあった書架と同じものが設置されていたが、図書室に比べると収められている本はまばらだった。


 異様さを引き立てるのは部屋の一角に置かれている姿見の鏡だった。鏡は粉々に砕けてしまって一部の鋭いかけらがヘリに残っているのみである。散乱する鏡の破片は床に散らばっていて、いくつかはどす黒く変色していた。


 姿見の隣の机の上には紙が散乱していて、しかしその白さは現代的である。


 机上から視線を上げれば、石田が発したセリフの意味を理解するのだ。


 二枚の窓ガラス。その両方に見たこともない紋章が描かれているのだ。円と三角形と、文字らしきもの。それを組み合わせた図がそれぞれに書かれているのである。石田は紋章と手元のスマートフォンとを行ったり来たりしていた。


「これは、何ですか」


「魔法円っていうやつだな。図形と言葉の組み合わせで働きかけをする、オカルト初心者向けのしかし奥が深い世界。本来は本の中に入って防御とするものだが」


「もしかして、拓朗が書いたんでしょうか」


「おそらくはな。しっかし、この紋章には見覚えがあるんだ、多分本で見たんだが」


 石田が覗きこむスマートフォンでは電子書籍を検索したり目次を読んだりしていた。


 石田が図形の特定をしている中、高畑は机の上の紙に目を向けた。紙の大きさとしては石田拓朗が持っていたメモ帳と同じぐらい、一辺がちぎられているようになっているところ、まとめて破いたように思えた。


 一つ一つを確かめてゆけば、何も書かれていないものがほとんどだった。だが窓ガラスに書いてある図が何枚にもわたって描かれていて、何かを予期して同じものを用意していたらしいという想像に至った。


「これは封印の一種だな。効力は強くないが、いろいろなものを封じることができると信じられて来たもの。となれば、ここから黒い影が出てくる可能性はありうるな。描かれている日付が今日じゃない。七月半ばになってる」


「たかさん、メモに描かれたのと同じものがあったんですが」


「一時しのぎにはなるだろう、出入り口にもそれを置いておくんだ」


「置くだけですか? 貼ったり書いたりは」


「とりあえずは大丈夫。本か何かで重しをしておいてくれ。もとから効果は薄い。あと、これが効いたならいいニュースだ。ここから脱出でできるぞ」


 言われるがまま拓朗の魔法円を扉の前に並べる頃には浦も空気を取り戻して動けるようになっていた。メモを並べている横で書架から重たそうな本をいくつか積み上げて持ってきてくれた。


「黒い影は静かになったようね」


「たまたまかもしれないけど、窓のあれが役に立ってるのかも」


「本当に大丈夫なのかな。私には到底信じられないんだけど」


「たかさんが言っているなら間違いないと思う」


「どうでしょうね」


 その瞬間。


 扉が揺さぶられた。そのまま扉を壊そうとしているかのような激しさだった。内鍵の金具がガタガタ震えた。


「ほら言ったそばから!」


 高畑と浦は揃って尻もちをついて扉越しにいるであろう魔物を想像した。三人を殺そうとしている存在。いるのが分かっているから是が非でも扉を破りたい。


 黒い影であれば破れそうな気がした。


「二人共こっちに集まれ、時間がない」


 石田は部屋の真ん中に立っていた。浦が立ち上がるのを助けて、二人手を繋いで石田の元へ寄れば、足元には窓に描かれたもののような図形が描かれていた。


「ごく簡単で一時的な効果しかないが、瞬発力はてきめんだぞ。俺から離れるな」


 石田の言葉は高畑には分からなかった。魔法円の効果のことだろうが、どんな効果をもつのか。石田は『脱出できる』と言っていたにもかかわらず、教室の真ん中で突っ立っている状況。逃げようとしていないわけだ。


 石田の行動が理解できない。


 扉に対する乱暴が収まる。高畑の耳に入るのは石田がモゴモゴとつぶやく何かだった。スマートフォンの画面を見ながら何かを口にしているらしかった。


 高畑の手を握る浦の力が強くなった。もう一方の手で高畑の肩を叩くなり、


「ちょっと、あれ」


と扉を指差した。


 内鍵の棒状の金具がくるくる回っている。徐々にせり出してくる。


 見えない何かが鍵を開けようとしている。


「お前ら目をつぶるんだ」


 目をつぶれば耳の感覚が鋭くなる。石田がまたもや何かを口走り始めたと同時に、戸がレールを滑った。湿っぽい音が繰り返しして、気持ち徐々に大きくなっている気がした。


 石田の声は変わらず続いている。


 黒い影が目の前まで迫っている。


 逃げ場はもはやない。


 高畑にできることはただ言う通りにするだけだった。石田が考えに命を託して、魔法円の中で立っているほかにできることはないのだ。先輩の思惑が外れたら、死ぬしかない。


 震えていた。高畑が震えているのか、浦が震えているのか。考える余裕はなかった。いつ訪れるか分からない瞬間を待つほかにないのだから。


 石田の声が途絶えた。


 生臭い匂いが立ち込めてくる。


 自分の体から産まれる音が高畑の耳を支配する。黒い影が発していただろうぬめりのある音は全く聞こえなくなった。耳の他に頼るのは触覚ぐらいしかないが、手をつなぐ浦の手は温かくて、少なくとも生きているのは確かだった。


「ようしオッケー、目開けてもいいぞ」


 恐る恐る目を開ければ、扉は開け放たれていて、しかし、黒い影の姿はなかった。代わりに高畑が見ている視界一面に、何かが飛び散っていた。鼻をつく匂いは緑色の液のせいなのか。


「何をしたんですか」


「簡単な防御の魔法円だ。これで人智を超えた存在を吹き飛ばすんだ。あまり強い魔法円ではないから、そう時間はかからずに戻ってきてしまうものの、今回のシチュエーションではこれが最適解だ」


 石田は円の中から飛び出すなり窓ガラスに近寄った。窓の鍵を開けて木枠を滑らせれば、窓が開くのである。


「これで昇降口も開くようになったはず。調査はもうやめて脱出しよう。疲れた」

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