1-2 見たこともない表情
高畑の心の中では石田孝之の言葉がぐるぐると渦を巻いて、いつしかとぐろを巻いた蛇になって居座った。少しでも考えを彼の言葉に向ければ蛇が口を開いて鋭い牙を見せて威嚇するのだ。
境界の扉。
部活が終わってみんなで帰宅している間も、電車に乗っている間も、一人になって自宅へと向かっている最中も、高畑のみならず、部員の心の中にくすぶっているのだった。だが、石田兄弟だけは別だった。同じところに帰る者の定めか、一人になる瞬間がなかった。離れていればよいものを、ずっと隣り合っているものだから口論が収まらなかった。口調こそ激しくなることはなかったものの、一貫して扉について否定をし続ける兄と好奇心をふくらませる弟とがいた。つくばエクスプレスの乗り換えで電車を降りた二人を高畑は見送ったが、その時でさえもめていた。
さて、自宅に帰って制服をクローゼットに片付けた高畑がすることといえばパソコンの電源を入れることだった。立ち上げ画面を眺めながら腰を下ろし、ログイン画面に移れば一瞬のうちにパスワードを打ち込んだ。ログイン処理の間にキーボード横のスマートフォンに何か通知が来ていないか確かめた。
高畑は息をするようにソフトを立ち上げれば、画面いっぱいにプログラムコードが広がった。スクロールしてコードをしばらく眺めてからキーボードに手を置いた。
今日のことは一回忘れてしまおう、高畑の考えは一番の関心たるプログラムをひたすらこなして気持ちを紛らわせようというものだ。すでに書いているコードの続きを書いてみて、すっと集中力が切れればコードカタに取り組んだ。コードカタはつまりは空手の型のようなもの、太極拳のような感覚で取り組めば、高畑の目的を満たす最高のコンテンツだった。
同じコードカタを、知りうる様々なプログラム言語で取り組んだ。カタの仕様を確認してコードに落としこむ。ひたすらモニタに集中して、無心になってカタを実装するのだ。
頭をいくつものコードカタでいじめ抜いて、そしてカタを終えてから、背もたれにもたれかかって天井を仰いだ時の、頭に余韻として広がる疲労感は心地よかった。
視界の外からバイブ音がした。見やれば画面にはLINEの着信のアイコンがあった。テキストチャットのそれとは異なり、延々と高畑が反応するのを待ち続けていた。
無料通話だった。浦からの着信だった。
浦から連絡が来る内容とといって思いつくことは図書部でのひと騒動だった。他にあるとしても浦が今年の部誌ののせるネタの相談と言ったところか。
着信を受けて浦の用件を待っていると、案の定話してきたのは『境界の扉』についてだった。ただ、境界の扉そのものというよりも、今日の石田孝之の振る舞いのほうが気になっているらしかった。
「入部してから今まで、石田先輩があんなに感情をむき出しにするのは初めて見たんだけど、何だったのだろう」
「俺だって知りたいよ。石田兄弟の中の話なんじゃないの」
「でも、そんな身内の話を部活の場で話すとは思えないんだけど、やっぱり、弟くんが口にした『境界の扉』に問題があると思うんだけど」
「何か知ってる? 境界の扉って何だろう」
「聞いたことないんだよね。何だろう、オカルト系なのかな」
石田兄弟だけが知っている情報だった。高畑も浦も理解ができなかった。うわさ話だとか都市伝説的なものであれば図書部に自然と集まってくるものだが、聞いたことのない話題だった。
「しかも弟くん、この高校の最初のネタとして書きたいって言っていたよね。流中に関係する話なのかな」
「学校の七不思議、みたいな?」
「でもさ、七不思議自体聞いたことないよね」
「一般的な七不思議はよく聞くけど、流中の七不思議なんて聞いたことないよ」
いっそのことでっち上げてしまおうというアンソロジー企画なら去年にやったが、それぐらい流田中央高校の噂として七不思議がないのだった。当然、でっち上げられた七不思議の中に『境界の扉』という逸話はなかった。
ならばどこから境界の扉なんてネタを見つけてきたのだ? 部誌のネタ宣言の場でぽっと出てきたような印象だった。新入部員、それも入学したてだという石田拓朗がネタとして使おうと思えるのか疑問だった。
待て。石田拓朗の発した言葉を思い返した。『流中で初めて書くものはこれだと決めていました』。はじめから知っていたともとれる。
「もしかしたらたかさんが使おうと調べていて、結果それをお蔵入りしたけれど、それを石田弟が見つけて書こうと思ったんじゃ」
「まあ兄弟だしねえ」
「石田先輩がお蔵入りにした程のネタって、どれだけやばいんだろう」
「あの人もあの人で現場派というか脳筋というか。心霊スポットをネタにした時は本当に潜入して補導されたし」
「そう考えると相当危険な橋を渡ったのかも」
「よく分かんないや」
「話振っといてなんだけど、分かんないね」
嘘か本当かも分からない話を繰り返して、結局何がなんだか分からなくなってしまった。謎は何一つ明らかになっていないし、余計な謎が増えてしまうだけだった。わざわざ電話をしなくても分かる結果だった。
無料通話を切ってパソコンの画面を眺めた。長い時間放っておいたのでモニタの電源が落ちてしまっていた。黒い液晶画面に薄っすらと映る高畑の顔。ほんのりと笑みをたたえていることに気づくことなく、キーボードのキーを打って、ログイン画面に戻った。境界の扉の話題に再び染まった高畑はしかし、コードカタに戻ることなく、浦と話した内容をメモに整理し始めた。
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