2-6 電話

 浦の英語を面倒見ながら書くつもりだったプログラムのコードを書き進める。ファミレスの一件以来まともにソースコードに向き合うことができなかった。


 横並びに複数の言語を書いてゆく。一つのソースコードを書いて実行してそれなりに動作したら、間を置かずに次の言語で処理を記述、またもや実行してうまく動けば同じく別の言語へ。その繰り返し。何も知らない人間からすれば何か書いているとしか思わないが、分かる人が見れば、それぞれ同じ処理を違う言語で書いているのだ。


 五種類のソースコードに対する解説文をしたためていたらスマートフォンが震えた。延々とバイブレーションするところ、メールやメッセージの受信ではなかった。思い出すのは石田拓朗。彼からの連絡が再び始まったのかと思うと体の中がきゅうっと絞り上げられるような気持ち悪さが沸き起こってきた。


 キーボードから手を離した。ももの上に手を置いて、息を吸って吐いた。呼吸の機微を意識して気持ちを切り替えれば、ようやくスマートフォンを取り上げることができた。


 石田拓朗ではなかった。前澤明だった。


 全くの予想外だったが、男からの連絡でないことにはホッとした。前澤からの連絡なら技術的な相談に違いなかった。プログラムの設計か実装に相談事ができたのだろう。石田拓朗の異世界探訪記を聞くよりも気分が楽だった。


 着信に出てみれば、しかし、中々前澤は話を切りだそうとしなかった。無言の時間が続いて、


「もしもし? どうした?」


と問いかけても返事が帰ってこないのである。前澤からの連絡にしてはおかしい、違和感に気付いたのはこの時だった。


 相手を不安がらせる沈黙ののち、前澤が訴えた。声量をかなり抑えた調子で、気持ちかすれ気味な声色だった。


「助けてください」


「どうした? プログラムか何かでハマった?」


「そうじゃないんです。助けてください。何だか分からないんですけど追われてるんです」


 高畑は新しくテキストエディタを上げると同時に前澤との通話画面にあるスピーカーアイコンをタップした。これから耳にする内容は記録しなければならなかった。通話が終わった後も思い返せるようにしておかなければならなかった。直感が高畑を突き動かした。


「浦先輩にも電話したんですがつながらなくて。それで高畑先輩に繋いだんです」


「追われてる、付きまとわれてるって気付いたのはいつから」


「駅に降りてからずっと気配を感じるんです。あ、今おおたかのの森ショッピングセンターにいるんですけど、買い物の用事で来ていて。怖くなってトイレに逃げ込んだんですが、その」


 前澤からの報告がしんと静まり返って不安を煽った。前澤は何かを感じ取ったのか、聞こえるのはかすかな吐息のみだった。相手に呼びかけようとする言葉が口から出かかったものの、焦る気持ちを握りつぶして沈黙を保った。


 遠くで水の流れる音がした。ややあってから、耳障りな中低音が響いた。


「すみません、人の気配がしたもので。どうやら外は大丈夫みたいです」


 前澤の描写で右往左往する気持ちが落ち着きを取り戻したのを感じ取る。少しばかりの距離を保って前澤が陥っている状況を見渡してみれば、できるアドバイスはすぐに浮かぶものである。何かに後をつけられているような気がする。怖くなって隠れている。身動きが取れない。


「電話はできそうか?」


「多分大丈夫です、今は誰もいなさそうなので」


「警察に電話するんだ。今の状況を説明すれば、警官の一人ぐらい出してくれるかもしれない。おおたかの森のところには確か交番もあったから、もし動けるのであれば交番に駆け込んでもいい」


 デスクの片隅でUSBケーブルがささっているタブレットを引っ張った。充電ゲージが完全充電されていることを確かめてからケーブルを外した。地図アプリを起動しておおたかの森ショッピングセンターまでの経路を検索する。気にしているのは最寄り駅の発車時間、いつおおたかの森にたどり着けるか。


 乗り換え一回、駅から駅での所要時間は二十分ほど。


「とにかく警察を頼るんだ。今から俺もそっちに行くから。大体三十分ぐらいでつくから」


 手頃なバックパックにタブレットその他諸々を押し込んで席を立った。部屋を出ながらスピーカーボタンをもう一度押して、スマートフォンを耳に押し当てれば、


「いいね?」


と念押しする。


「分かりました、何とか警察のところに行ってみます」


 前澤が通話を切った時に高畑は家を出た。足早に駅へと向かう一方で浦へのコンタクトを急いだ。周りの障害物を気にしながら通話を試みてみるが、前澤が言った通り、どれだけコール音が鳴っても出ることはなかった。仕方なくメッセージとして前澤の状況を伝えるだけにした。


 よりによってこのタイミングで浦は何をしているのか。浦といえば英語の課題が思い浮かぶが、LINEの連絡を無視するほど必死に取り組んでいるわけがなかった。部誌の原稿でも書いているかも、とも思ったが、それでも腑に落ちない。何だかんだで浦にLINEで音声通話したのはお初だった。いつもとは違うことぐらい想像がつくだろうものだが。


 試しに電話番号にかけてみても同じだった。


 一旦はよい、連絡することは連絡した。気を取り直して、高畑はやるべきことに集中する。なすべきこと一つ目、おおたかの森ショッピングセンターにたどり着く。なすべきこと二つ目、後輩の様子を確かめつつ、彼女の安全を確保する。


 駅のホームで電車待ちの列に並ぶなり高畑は前澤にメッセージを送った。極めて短いメッセージ、どんな状況かを問いかけるメッセージだけだった。送信はされたが既読はつかない。駅の電光掲示板を見上げれば、六分後の時刻が表示されている下に別の路線の遅延情報が流れていた。


 着信を表すバイブレーションはなかった。


 浦からの着信を確かめる。返信を確かめる。


 前澤からの返信を確かめる。


 電光掲示板で次の電車を確かめる。


 何も動けない状況が歯がゆくてじっと電車を待っているのも嫌だった。脚が落ち着かなくてかかとだけで足踏みをして気持ちを紛らわせた。普段だったらスマートフォンをいじって時間を潰せばよいものの、異常事態にスマートフォンで遊ぶのは許されない気がした。


 浦と前澤からの連絡が来るよりも早く電車がホームに滑り込んできた。車内は座席がいっぱいになる程度には混んでいて、右手でつり革を掴みながら左手でスマートフォンを持つ。何か操作をしているわけではない、画面はすっかり黒くなっていた。通知が来て画面に色がつくのを待っていた。


 乗り継ぎ駅に到着する直前に前澤からメッセージがあって、


「ついてきているというか、完全に追いかけてきてるようです。またトイレに隠れています。すみません、まだ交番にたどり着けてないです」


とのことだった。状況は悪いことに変わりなかった。


「通報でもいい、連絡するんだ」


 状況を把握しておかなければ、と思って前澤の連絡を今か今かと待ちわびていたが、連絡が来たと思えば前澤のためにできるアドバイスが全く出てこなくて、はじめに伝えたことの繰り返ししかできなかった。現地に高畑がいない状況で、しかしできることはそれぐらいしかなかった。


「誰かの気配があって声が出せないです」


「個室にいるんだろ? 大丈夫だから連絡するんだ。追いかけてくる奴への牽制にもなるから。そうだ、マナーモードも解除しておけ。俺が前澤を探す時の手助けになる」


 乗り継ぎ駅たる柏駅はJR常磐線と東武野田線が交わる駅としていつだって人であふれている。歩きスマホをしようとすればすぐに人と衝突事故を起こしてしまうほど。高畑はしかしスマホを操作しながら、視界の隅に見える人混みを交わしながらJR側の改札から東武側の改札までのコンコースを歩く。ちょうど電車がやってきたのか、東武側から人々の塊が噴き出してきた。


 人の波が押し寄せる中をかわしつつも浦を試した。画面を見るのは危なかったから電話をかけてみる。


 コール音。


 コール音。


 コール音。


 コール音。


 コール音。


 人の波をやり過ごして東武線の改札を通り過ぎた。


 コール音。


 コール音。


 コール音。


 コール音。


 コール音。


 エスカレーターを降りておおたかの森方面のホームにたどり着いてもなお浦は応じなかった。何度もかけていても応答がないとなるといよいよ別の不安がかきたててくる。浦の身にも何かが起きて電話どころではないのではないか。前澤の問題がもたらす不安に引きづられていらぬ心配までしてしまう。


 電車はすでに到着していて、すでに数人が座席で出発を待っていた。高畑も同じよう、空いているところに腰を下ろしてスマートフォンの画面を眺めた。電光掲示板で示されている時刻は四分後。


 高畑は連絡を待った。

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