1-5 流田中央高校の女王
放課後の図書室を訪れた高畑と浦の二人が向かう先は深田敦美教諭だった。
「二人してどうしたの。次期部長と編集長が一緒にやってくるってことは図書部に関することかな」
流田中央に勤続すること十年以上、あることないことに触れてきたという噂だった。流田中央のここ最近の歴史を知るのであれば深田先生へ、情報屋たるところは石田孝之をはじめとした一部生徒には『女王』とあだ名されているほどである。
高畑と浦が深田の横に立った瞬間、パソコンに向かっていた体を直して二人を正面に据えた。
「その、境界の扉について聞きたいんです」
女王が知らなければ境界の扉という事柄は存在し得ないのだ。
深田は表情を一切変えなかった。しかし正面に向けていた体をデスクに戻して腕を組むのである。まるで二人を無視することにしたかのように背もたれに体を預けパソコンのモニタを見つめるのだ。
深田が生徒を無視することなんてありえないから何か考えているのに違いない、高畑は次の言葉をその場で待っていた。一方で浦は高畑に顔を寄せて小声を放った。
「やっぱり何もないんじゃないの」
「そんなことはないでしょう」
「だってさ、普通質問に対してああする?」
深田は上半身をかがめるようにして椅子を後ろに滑らせた。椅子のコロが放つ重い音が二人の小言を抑えつけた。
「本当に教えてよいものか考えているだけよ。司書として好奇心にあふれるのは歓迎だけど、深入りしすぎて身を滅ぼすことだってあるからね」
深田は高畑らに何も告げずに奥へと歩いてゆく。司書のデスクが隣り合っているブロックの先にあるのは二人がけの革のソファが一対とその間にあるローテーブルだった。
左手側に深田が腰を下ろすと、腕も足も組んで、二人に視線を送った。お前らも座れ、と暗に命令する目だった。
「短く終わるような話にはならなそうだからね。ほら、座りな」
年季の入ったソファは思いの外柔らかくて尻が思い切り沈み込んだ。あまりに深く高畑を包み込むがために無理のある姿勢になって辛かった。高級そうなソファよりもそこら辺にある椅子のほうが座り心地がよかった。対する浦は、体重のせいだろう、さほど深く飲み込まれている様子はなく、苦ではなさそうだった。
「まずはどこまで知っているのか、っていうところから教えてもらおうかな。興味を持ったってことはそういうことでしょ」
「境界の扉に対する石田兄弟のやり取りと、あと、この部誌の作品です」
昼に高畑が読んだ部誌をテーブルに差し出した。深田はただ表紙を見下ろすだけで、
「そういうことね」
と何か納得したらしかった。
「この付箋が貼ってあるところの作品の中に境界の扉が出てきたんです。境界の扉を出現させて、その向こう側へ至れば安息の地がある。そんな逸話と共に扉が描かれています。私が気になったのはこの物語全体に根を伸ばすどうしようもない窮屈さと苦しさなんです。希望を与えるはずの扉を救いようのなさを表現するものとして使っていて、それにすごく不安を感じるんです」
「不安? どういったところかな」
「境界の扉というのは題材としてあまり触れるべきではないのではないでしょうか。どうして知ったのかは知りませんが、あの時、石田先輩はひどく怒っていました。それにこの題材の使い方。安息の象徴を苦しみの象徴に転化しているのは、ひにくれているとも思えますが、でも」
「分かった分かった、浦の気持ちは分かったから」
深田が手を伸ばして浦を制する。浦の言葉を遮った手でそのまま部誌を拾い上げれば、付箋のページを広げるのだ。
「この子ねえ」
深田は独り言を漏らしてページをめくった。
「まさかだと思うけれど、あなた達もこれをテーマにして何かやろうとしているの?」
「そんなことありませんよ。部誌のルールに反しますから」
「そうであればいいのだけれどね」
部誌をめくって最後のあとがきのページに移ると、
「この子ねえ」
と再び言葉を吐き出すのだった。どうしてだろう、遠い昔の物語を語るかのような語り口だった。
「これを書いた子ね、吉田って二年の女子だったんだよね。もともと明るい内容よりも暗い内容を書くのが得意で、明るいものを書きたいってよく言っていた」
「でもこれも暗い内容になってしまっているんですね」
「いいや、彼女はこれを『明るい物語だ』って言ってたね」
物語の主人公は結局、安息の地に至ることはできずに現実に引き戻されてしまったはずだった。どうして明るいと言い張ることができるのだろう。高畑には物語に横たわる明暗の感覚が分からなかった。
「主人公は安息の地がないことを知ることができた、現実を進むほかに道はないと覚悟を決めることができた、だって。面白いことを考える子だったよ」
「それで、境界の扉についてはそれと関係があるんですか」
高畑は境界の扉について聞きに来たのだ。別に境界の扉をモチーフに創作をした人物の背景を知ろうと思ったわけではない。少なくとも深田が話した吉田なる人物について、境界の扉に関することは内容に思えた。
「これを発表した数日後、電車にひかれて死んだのよ」
簡単な言葉ではあるが、周囲の空気を止めるには十分すぎる威力だった。司書のデスクで電話が鳴り響いても深田は動かないで居留守を決め込んだ。数コールあってからそれがおとなしくなると、深田は咳払いののちに再び口を開いた。
「文化祭の翌々日だったかねえ、うちの生徒がホームにいる中で突然線路に落ちてしまったらしいの。間髪を容れずに電車が走ってきて、電車が止まった時にはもう帰らぬ人になっていたと」
声の調子を抑えて語る。気がついたら隅の反り返った表紙を見つめていた。高畑だけではない、浦も表紙を見下ろすのだった。
「帰らぬ人って、亡くなってしまったってことですか」
「彼女だけじゃない」
思いっきり頬をぶん殴られたような衝撃が高畑を吹き飛ばした。表紙に集中していた体はソファの背中に打ち付けられてしまっていた。何が起きたか分からなかったものの、深田の言葉がじわりじわりと体を冒してその意味が心を突き刺すのだ。
すっかりのけぞった形となった高畑の目から見える浦の横顔もまた、バケモノを見たかのような引きつりようだった。
「ここ十年ぐらいの間では五人。一人は駅前のビルについていた看板の落下に巻き込まれて、二人は電車にひかれて、一人は原因不明、一人は飛び降り。吉田の年は二人だったかな。吉田と福島だったかな。大怪我も含めれば十人ぐらいかしら」
「先生待って、理解が追いついてない」
「吉田の年から自然とそれをネタにする子はいなくなって、もう廃れたんだなと思っていたんだけれどねえ」
「石田を止めないと、もしかしたら最悪」
浦がしてはならない想像をして落ち着かなくなっていた。視線が泳いで深田を見たり高畑を見たり表紙を見たり司書のデスクの向こうを見たり。
「やっぱり石田のネタは変えさせないと。先生はそのことを石田に伝えたんですか」
「伝えたさ。それでも石田は書きたいと言った」
「是が非でも止めないと」
「境界の扉を取り扱ったことと不幸に巻き込まれたことは直結しているわけじゃない。境界の扉を扱っても平気な奴だっていた。だから境界の扉イコール取り扱ってはならないもの、とは言えないんだよ」
「ですが」
「書きたいものを取り上げられた気持ちは分かるでしょう。石田にネタかぶれをされたんだって?」
「それとこれとは次元が違うと思います」
「じゃあ編集長、高畑はどう考える。高畑がノーと言えば石田はネタにできない。どうだ?」
高畑に視線が集まった。とりわけ浦からの視線が痛かった。意見を受け付けようとする深田の視線とは全く別物、意見を押し付けんとする視線だった。
高畑の考えはそれでも変わることはないが、しかし。爆弾のような話が立て続けにあったがために引きずられていったが、本来の目的はそこではないのだ。
「俺達は境界の扉のことを聞きに来たんです。浦が見つけた作品の作者のことでもなければ、境界の扉を扱った人に降りかかった不幸でもないです。境界の扉とは何か、説明してもらえませんか」
浦の眼差しは一層鋭さが増した。
対する深田はというと、笑い声を爆発させたのだ。片手を額に当てて外を眺め見て、
「そういえばそうだったね、話をそらしてごめんごめん」
と口にしながらソファから腰を上げた。
「そんな長い話にするつもりはないけれど、コーヒー飲む? 一旦リラックスしたほうがいい」
答えを求めながらすでに深田はインスタントコーヒーの瓶を取ろうとしていた。浦は相変わらず睨みつけるように高畑を見てきた。
「本題はそれなんだ。そうだろう?」
しかし浦はムスッとして視線を高畑から部誌に移すのだった。
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