3-7 旧制流田中等学校校舎

 ググってみれば、流田中央高校の旧校舎は画像つきですぐにヒットするものだった。市指定重要有形文化財として紹介している市のホームページがヒットして、センスのない写真からでも、建物として何かがほかと異なるのを感じさせた。


 旧制流田中等学校校舎第三校舎。市野谷の森の一角にたたずむ和洋混在の建築物は正式にはそう言うらしい。


 深田教諭以下図書部部員の三人は飴色の木造建築を前に降り立った。図書部と校舎を遮るのは黄緑色にコーティングされた金網フェンス。校舎とは全く馴染むことのないフェンスが表すように普段は入れない、しかし教諭の引率の上で中にはいることができるとのこと。旧校舎について深田に相談した時にそんな制度があると聞かされて、利用しない手はなかった。


 深田が持ちだした鍵で門を開ける。手前に引く形で門を開けば蝶番がきしんで金切り音が森に響いた。


 教諭の引率が必要、とはいえ、フェンスを眺める分には意味があるようには思えなかった。有刺鉄線で攻撃性を高めているわけではないから、フェンスをよじ登りさえすれば簡単に侵入できそうだった。


「クラスによっては年に一回はここを使うらしいけれど、みんなは来たことないの?」


 深田はそうは言うものの、高畑には門をくぐる記憶がなかった。石田は一年生の時に来たことがあると答えていた。


「多分俺が一年の時が最後じゃないですか、女王」


「だから女王はやめなさいって」


 深田について行く。コの字状の校舎の奥まったところに向かっていた。両側に校舎がそびえる作りがために、正面昇降口へ進めば進むほど圧迫感を覚えるのである。両側から監視されているかのような、何かのまなざしがあるかのような気がした。


 昇降口にかけられた鍵を開ける。深田は一足先に中に入ろうとしたが、短いうめき声を上げながら顔を背けた。


 ワンテンポ遅れて高畑もその意味を知る。むわりあふれだす異臭。面で押し寄せてくる、未だかつてかいだことのない、とにかく強烈な臭い。目が痛くなるほど、たちまち涙が溢れ出てくるのだ。校舎の中に催涙スプレーのガスが充満しているなんてありえない。


 浦に至ってはきびすを返して昇降口から距離をとった。


 一人冷静でいるのは石田孝之だった。浦が逃げ出した時、つまるところ臭いが押し寄せてきただろう時、


「ああ、そういうこと」


と腕で鼻を押さえながら言葉を漏らすのだった。


 深田が扉を閉ざして、風が臭いを散らすに任せたが、建物の形の影響で風が通らなくて異臭が淀んだままだった。一行は出入り口の門のあたりまで避難して十分以上もの間待たなければならなかった。


 一人を除いて。


 石田孝之だけは、門へと逃げる一行とは反対に、昇降口の扉に立ち向かった。昇降口を開け放って踏み込み、昇降口の他の扉も内側から開けてゆく。退避する高畑が見たのはそれまでだった。屋内に入ったらしいことは分かったが、それ以上は分からなかった。


「心霊スポットの現地取材をした時にかいだことのある臭いだった。ありゃ犬とかたぬきの死骸が腐ってるな」


 旧校舎から脱出してき勇者は服から嫌な移り香を漂わせながら告げた。


「長いこと死体が腐ったまま放置されてたから、フロア全体に臭いが充満していたのだろう。二階までは見てないが、多分二階も相当やばい」


「石田、よくあの臭いの中に入っていたわね」


「このぐらい我慢できなくて心霊スポットをめぐるなんてできないですよ。序の口です序の口」


 石田孝之は校舎に戻ろうと一人歩き始めるが、高畑も浦も脚が動かなかった。強烈な臭いと死骸というワードに脚がすくんでしまっていた。行ってはならない、理由がどうこうではなくて、人としての本能がシグナルを発していた。


 対して気持ちは手にした図面を確かめたい一心だった。石田拓朗がどこぞの筋から手に入れた旧校舎の図面。境界の扉を開ける方法として書かれていた三つの部屋には丸をつけていた。


 嫌だと思う気持ちを押し殺す。昇降口に近づくにつれて強烈な臭いを想像して、それだけで気持ち悪くなった。全開となっている昇降口を前に石田以外は全員脚を止めてしまったが、いざ息を吸ってみれば、まだ我慢できるレベルまで臭いが軽くなっていた。


 校舎の中に入るとまず目に飛び込んできたのは、石田拓朗の持っていたフロア図だった。壁を覆うほどの大きさ、天井から地面まで一面を覆うほどであるのは予想外だった。


 石田がどれだけ貢献したのかは一目瞭然だった。廊下の窓という窓が開け放たれていて、教室の窓も開け放たれていた。それでもなお意識してしまえばはっきりと臭いを感じ取れるところ、最初に突入した石田は偉大だった。想像も絶する臭いの中をかき分け、窓を開けて回ったのだ。


 一行が回るのは四つの教室で、うち三つは石田拓朗によって明らかにされていた。残り一つは分かっていなかったが、石田兄に見せれば即答だった。


「談話図書室だろう。一階には四の教室と職員室、二階に九の教室。職員室と九の教室がフロア違いで同じ場所にあることを考えれば、四の教室の上にあるのは図書室だ」


 深田教諭を先頭に、飴色の木材と真っ白な漆喰らしき建材のコントラストが美しい廊下を進んだ。部屋の一つ一つを確かめてみれば、建物としての美しさの中に境界の扉を開けるための痕跡があった。


 職員室に入れば、廊下と同じ調子の美しさの中に、水のシミのような痕跡が柱から床にかけて残されていた。


 四の教室は一面が白い粒で覆われていて、入り口から窓に向かう足跡があるだけだった。中に入るのをためらう三人に対して何食わぬ顔で石田孝之は中に入って粒を踏み荒らした。しゃがみこんで粒を拾い上げれば、


「塩の粒だ。見てみればいい。この足跡は俺がつけたやつだから気にしなくていい」


と粒を載せた指の腹を見せるのだった。


 二階に上がると、石田が言っていた通り、強烈な臭いのよどみになっていた。一階の窓を開け放ったためか、それとも一階でも漂う臭いに鼻が慣れたのか、逃げ出さなければ耐えられない程の感覚はなく、手当たりしだい窓を開けながらの探検となった。


 石田拓朗のメモでは九の教室には黒板に血をつけることになっていたが、実際その通りだった。しかし予想を遥かに超える状態だった。


「なにこれ、もしかして全部」


 どす黒い色の黒板だった。高畑たちにとっての黒板は深い緑色だ。にもかかわらず黒板が言葉が示すとおりに真っ黒となっていた。前の黒板も、後ろの黒板も。全てが均一に黒くなっているわけではなくて、むらがひどかった。同じ黒色でも明るい黒と暗い黒とが交ざっていた。浦はいつの間にか高畑の影に半身を寄せて袖口をつかんでいた。


 人が横に寝そべって二人分はゆうにある黒板、それが塗りつぶされていた。


 血まみれ黒板を後にすれば行く先は残り一つ。教諭を先頭に窓を開けながら図書室へと近づいてゆく。言葉は交わさなかった。次にあるのはネズミの死骸だと分かっていた。しかし鼻につく臭いが徐々に強くなってくれば、一度は落ち着いた本能が騒ぎ始めるのである。


 曲がり角を前に浦は足を止めてしまった。言葉こそなかったが、開け放たれた窓にぴたりと張り付いているところ、これ以上は進めない意思を示しているのは十二分に読み取れた。


 高畑が図書室のある方を指差してみれば、浦は首を横に振った。


 高畑は石田と目を合わせ、頷けば浦を置いて図書室へと向かった。異様な雰囲気をはらみ始めた空気の中では、言葉を発するのがためらわれた。


 談話図書室はほかの教室とは異なり、両開きの扉があつらえてあった。床と同様に飴色に仕上げられた扉の重厚さといったら、これだけでも文化財としてふさわしく思えた。しかし扉の隙間からただならぬ臭気が漏れ出ていた。石田拓朗が残した記録ではネズミの死骸があるはずだが、ネズミほどの大きさの動物が腐敗したところでこれほどまでの臭いが発せられるとは思えなかった。


 石田が先陣を切って扉を開けた。


 途端にこれまでの比にならない程の臭いが立ち込めた。目に染みてまともに目を開けられず、少しでも息をしようものならえずいてしまった。鼻を引きちぎりたくなる。まさに瘴気だった。


 昇降口の時と同様、石田が対処した。腕で鼻と口を多いながら中に突入する。高畑と深田は廊下の窓際に避難した。


 窓から身を乗り出してなるべく清潔な空気を体にとり込もうとする。しかしあふれ出る空気の量が遥かに多かった、いくら身を乗り出しても毒霧に覆われてしまって、毒ガスを吸ってしまうのだった。


 石田も流石にきつかったらしい、図書室から逃げ出してきた彼は高畑のいるところよりも更に離れたところまで駆けてゆき、同じように身を乗り出した。


 三人して浦が待っているところまで避難すれば、たちまち浦が顔をしかめた。


「すごい臭いなんだけど、何をしたの。何があったんですか」


「図書室を開けてきたんだ。臭いの源があるのか入れないぐらいに臭かった。たかさん、何か見つけましたか」


「さすがにあれはきつかった。窓を開けるのに必死で何があるかは全く見てなかった」


 石田はここでも身を乗り出して外の空気を求めていた。


「拓朗の残したメモだと、あの部屋には何があるはずなんだ?」


「ネズミの死骸です。ネズミの死骸を置けば境界の扉を開ける条件が揃います」


「ネズミのサイズだとあのレベルの臭いは出ないな。やっぱり犬かタヌキが死んでいるようにしか思えない」


「死骸には気がつきませんでしたか。その大きさなら」


「言ったろう、視界にはそれっぽいのはなかった」


 図書室へのリトライは何分後だったか。鼻が強烈な異臭に慣れてしまったらしい。全員が何となく大丈夫、という感覚に至ったところで、誰が言い始めるもなく、ぞろぞろと移動を始めた。臭いがために離脱していた浦も一緒についてきた。


 窓際に固まって、開け放たれた扉から中をうかがう。図書室や談話室という言葉から調べもの用の机やリラックスできる椅子などがあるように思えたものの、見えるのはつややかな床だけだった。


 先陣を切るのは再び石田だった。次いで高畑が足を踏み入れ、深田はやや遅れてから中に入る。浦は一歩踏み入れたと思ったら、


「無理これ」


と言って再び避難してしまった。


 窓を全開にして風通しをよくしたにもかかわらず、図書室だけは異様な雰囲気に包まれていた。風が振り払っている以上の臭いがどこかから発せられていた。しかしどこからなのか。


 石田が言う通り床はきれいそのものだった。ネズミの死骸はなかった。それどころか強烈な臭いを発するようなものは見当たらなかった。壁一面の書架にすっかり変色した本が残されているが、どう考えたって本が腐敗臭を発するわけがなかった。とりあえず一冊を手にとって鼻に近づけてはみたが、結局鼻が壊れてしまっていてそれが本の臭いかどうか判断できないのである。


 よく見たら、手に取った本の表紙に見慣れた言葉が記されているのに気付いた。『流田のふみ』、と書かれていた。絵の具なのか、あるいは墨で書いているのか。奥付を見る感覚で紙をめくれば、下手な手書きの文字が並んでいて、奥付らしい奥付はなかった。中身も手書きだった。


 他の冊子を手にしてみれば同じく『流田のふみ』、ただし号が異なっていた。高畑が本を取り出した段は、どうやら図書部の部誌が収められていた。ところどころ引きぬかれたかのように空きとなっている箇所がいくつかあった。


 ふと、足元のレールに気がついた。壁一面の書架を眺めてみれば、手前側と奥側とで段違いの箇所があった。床に伸びる溝が書架の下に入り込んでいる。滑らせてくれと言っているようなものだった。


 目の前にある書架、奥側に当たる書架だったが、それを動かしてみたところでびくともしなくて、図書室の後方に追いやられている手前側の書架を引っ張ってみれば、心地よいほどなめらかに滑った。


 奥は全て書架で埋め尽くされていて、手前側に二つの書架が動くようになっていた。


「これ動くみたいです」


「昔の校舎にしてはすごくしゃれてるのね」


 深田教諭は部屋を調べるつもりは全くなかったようである。部屋の隅っこ、窓際にたたずみながら遠巻きに高畑たちを眺めていた。


「先生はこの校舎には来たことないんですか」


「来たことはあるけれど、今回みたいに校舎中を歩いて回ることは初めて。使う時は一階の職員室だったところに集めて授業をするぐらいかしら」


「職員室には何もなかったと思いますが、それよりもここのほうが文化財らしくていいんじゃないですか」


「この嫌な臭いがなくなれば考えてみようか」


 高畑と深田の雑談の間、石田孝之は後側の壁一面の書架と対峙していた。合計で六つの書架からなっていて、中央二つは手前側、残りは奥側に配置されているように見えた。高畑の発見からすれば、手前の二つは可動式であるはずだった。二つの書架に手を伸ばしていたが、しかし手を引っ込めて腕を組むのだった。もう一度手を伸ばしかけるが、途中でやめて、


「高畑、フロア図を見せてくれ」


と手招きした。


 石田のもとに歩み寄れば、まるで石田が腐敗臭の源であるかのようだった。


 臭いが一層強まったのだ。


 二階のフロア図を渡せば顔に近づけて線と文字を凝視する。燃え上がってしまいそうなほどの熱い視線を向けて、そうしてから書架を見て、あたりを見回して、フロア図に戻った。もう一度書架を見た。


「この向こうに部屋の続きがある」


「じゃあ、この臭いは」


「おそらくはこの先だ。高畑、腐敗した生き物の見た目は相当グロテスクだからな、気を強く持てよ。女王も大丈夫ですか」


「私はここから動かない」


 石田が書架の棚板を掴んだ。掴んだ拍子で書架がほんの少し動いて、えづくほどの臭気が隙間からせり出してきた。


 石田はしかし動じない。高畑はえづくどころか吐いてしまいそうになるが、書架を前に逃げ出すのは許されない気がして、鼻を押さえて何とかしのいだ。もう一つの書架に手をかけた。


 意味もないのにアイコンタクトをして、開けるタイミングを見計らう。


 石田が頷くに合わせて書架を動かそうとしたら、しかし、スマートフォンに着信に高畑は気を取られてしまった。


 棚から手を離してスマートフォンを取り出せば、相手は石田拓朗、メッセージが届いていた。


「どうしてそんなところにいるんですか。嫌な予感がしたから討伐から急いで帰ってみたら。何してるんですか」


「来ないでくれって言ったじゃないですか」


 ぽこぽこと追加されるメッセージを見下ろす一方で、隣の石田兄からは言葉にならないうめきが発せられた。視界の隅にいた彼が向こう側に吸い込まれてゆく。


 石田が動くにしたがって巻き上げられる異様さ。


「どうしてだよ」


 嘆きが聞こえて画面から石田に顔を向けた。臭いが目に染みるが、石田兄の姿越しに見えるそれから目が離せなくなった。


 メモ帳とペン。何らかの液体が流れた跡の上に落ちていた。どうして茶色っぽい色になっているのか想像したくないそれ。高畑は知っている。


「お前、どうしてこんなところで」


 石田拓朗が愛用していた取材道具だ。


「パイセンは僕のことを邪魔するつもりですか」


 石田拓朗からのメッセージ。


 弟がメッセージを送れるわけがない。


「お前は誰だ」


 LINEに打ち込む指が動かなくて、しかし伝えずにはいられなかった。相手に届くわけもないのに高畑は口にした。

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