4-5 閉まっている

 高畑の背中から全身にかけてひどい悪寒が駆け巡った。浦の震えが伝染したかのようにスマートフォンの画面がわなわなと震えた。


 石田が、


「逃げろ!」


と叫んだのと同時だった。


 石田がいじっていた窓ガラスから、何かが出てきていた。


 スマートフォンを向ければ明らかになるのはミミズのようにうねる何かだった。細い一つ一つが蠢きながら大きな形を作り上げていた。


 床に先端が触れる。


 高畑の目にはそれぞれのパーツが異様に長い脚のように見えた。


 窓枠に現れるのは手だろうか。


 その様子は開けられた窓から中に忍び込んでくる人間のようだった。窓枠に手をかけてまさに今校舎に入ろうというのだ。次第に明らかになる姿。手足は異様に長くて、胴体は不釣り合いに短くて、頭がなかった。


 全ての部分がミミズのような蠢きで出来上がっていた。


「走れ、ついてくるんだ」


 石田が高畑の横を抜けて昇降口へと駆けてゆく。高畑は浦を半ば引っ張るようにして石田の後を追った。石田が昇降口から外へ脱出しようとしているのは考えずともはっきりしていた。見え覚えのあるシルエット、あれから逃げなければならない。


 昇降口で高畑が目の当たりにしたのは昇降口の鍵穴に鍵を突っ込んだまま、力任せに扉を破ろうとしている石田の背中だった。


「何やってるんですか、さっきは開いたじゃないですか」


「俺だって分からねえ、俺がここに来た時から扉は開かなくなってた。鍵を開けようとしてもまるで別の鍵を挿しているように動かない」


「ちゃんと鍵を開けていないのでは」


「ならお前がやってみろ、おかしいんだ」


 言われるがまま浦と一緒になって扉を確かめてみれば、確かにびくともしなかった。鍵をいじってみれば、鍵を回せば、鍵が開くときに感じる重さが感じ取れた。そう、鍵は開くのだ。押せば開くはず。校舎に入る時は扉を手前側に開いたのだ。引き戸でもない。とっくのとうに開いていなければならないのに。


 開かない。


 浦が高畑の体を連打した。力加減のできていない全力の攻撃だった。高畑だけではなく、石田先輩にも思っきり手を打ちつけていた。引き絞るような声で、


「どうしよ、どうしよ」


と言葉が漏れ出てしまっている。


 浦の攻撃は止まらない。


 振り返れば浦の攻撃は止まる。代わりに、この上ない恐怖が高畑の足元からぞわぞわぞわっと駆け上がってくるのだ。


 下駄箱と下駄箱との間を塞ぐようにして、黒い影が立っている。表面のテリとうねる感じ。片手には何かを握りしめている。


 ライトの明かりを反射する何か。


 柏のドトールでの遭遇がフラッシュバックする。同じきらめきを見たことがある。あの時は何を持っていたか。


 答えを導くよりも先に体が動き始める。浦のみならず石田も掴んで走る。


 ナイフだ。黒い影はナイフで高畑たちを殺すつもりだ。前澤にしたのと同じように刺そうとしているのだ。


 視界の隅に立派なフロア図がちらついたところ、高畑は職員室にある方へ向かっているらしい。とにかく黒い影を避けるように走ったなりゆきである。


 走った所でどこから出られるか分からない。とにかく、黒い影から距離を置かなければならない。


「一旦落ち着くんだ」


 石田が高畑を止めたのは階段の前だった。高畑はただ逃げることだけを考えて石田を引きずろうとしたが、身体能力としては石田のほうが上だった。


「あれから逃げないと俺ら殺されますよ」


「ちゃんと判断できない状態で慌てたところで逆効果だ。俺の指示に従うんだ、いいな」


「じゃあどうするんですか。昇降口から出られないんですよ」


「逃げながら考える。拓朗が残したものを探す」


 石田はしげくあたりを見回しながら取り出すのは拓朗の臭いのする手帳である。ジップロックに開いて手を突っ込めばあれが立ち込めてきて、浦はすっと目を背ける。


「ちょうどいい、一旦俺が中を確かめるから、その間周りを見張っていてくれ。廊下、窓、どこから出てくるか分からない」


 どこから出てくるか分からない。石田の予言はまるで、かつて見たことがあるかのような物言いである。


 高畑はおもむろに顔を向ける。廊下の奥に目を向ければ無人の廊下が伸びていて、闇に溶けてゆく。闇の中からアレが這い出してくるとすれば絵に描いたような恐怖である。


 スマートフォンを向けてなるだけ照らす。


 数秒目を凝らす。


 しかし、何かが出てくる気配なかった。


 おもむろに横の窓を見る。


 窓ガラスと目があう。


 ガラスの目を見つける。高畑自身の目ではない。


 黒い影の目。


 窓ガラスの向こうでじっと黒い影が見ていた。窓に手を伸ばそうとしていて、まさに窓から出てこようとしている瞬間だった。


 心臓を鷲掴みにされたかのような感覚に支配された。すぐ近くまで迫る死。高畑は黒い影に殺される寸前だった。考えることも体を動かすことも奪われて、逃げられないことが高畑を追い詰めた。一瞬で死の淵まで追い詰めた。


「で、出た」


 高畑の声にいち早く反応したのは石田だった。高畑の声があった瞬間に指示を飛ばすのだ。


「二階に上がるぞ、急げ」


 高畑は正面から迫り来る恐怖に脚が動かない。きびすを返せばよいのに。黒い影の、絵に書いたような目から顔をそらすことができない。まるで首根っこを掴まれているかのようだった。


「高畑! 早く!」


 浦にこれほどまでの力があったろうか。高畑は浦に腕を引っ張られて転んでしまうのである。手元から転がっていってしまうスマートフォンとバッテリー。


 高畑が身動きが取れなくなっていても黒い影が止まってくれるわけはない。浦は無理だと分かっていても体を持ち上げようとしていて、


「早く! 早く!」


と必死に言葉を打ち続けるのだ。


 体勢を立て直して階段を駆け上る。途中で回収したスマートフォン、画面にヒビが入ってしまっていた。バッテリーはどこかに行ってしまったらしい。


 一足先に二階へ上がっていた石田は、高畑が間に合うまで拓朗のメモを確認していたらしい。高畑を一瞥するなり、石田は手帳を収めて移動を始めるのだ。


 歩きで。


「逃げなくていいんですか。影が出てきてるんですよ」


「今追ってきてるか? 後ろを見てみろ」


「確かに、追ってきていないです」


「俺らはもう閉じ込められてるんだ。そこら中にあいつが出現できる場所がある。あたふたすれば逆に体力を消耗して逃げられなくなる。出てきたら全力で逃げればいい」


「どうしてそんな冷静でいられるんですか」


「俺とお前じゃ経験が違うんだ」


 石田は教室の戸を確かめながら廊下を進む。どこもかしこもガタガタ抵抗するばかりで開くことを知らなかった。廊下側には鍵穴らしい鍵穴がないにもかかわらず、である。延々と扉を確かめているところ、むやみやたらに入れる教室を探しているように見えてしまう。


 窓から出てこようとする黒い影のイメージが頭からこびりついて離れない。幼児が描いたような目。ふと窓を見てしまった時には自分の姿が黒い影のように見えて、あられもない声を上げてしまう。


「出てきたか」


「すみません自分の映った姿にびっくりしてしまいました」


「一旦深呼吸して落ち着くんだ。気が動転すると分かることも分からなくなる」


 高畑の前を浦が塞いだと思ったら、


「私にあわせて息を吸って」


と一緒になって深呼吸をしてくれる。校舎の中に入る前とは役割が正反対だった。ガラスの中の黒い影に高畑は力を奪われてしまっていた。


「次はどこに向かうんですか」


 浦が高畑に変わって問いかけをする。


「図書室は一旦保留だ。拓朗が残したメモからすれば、『図書準備室』なるワードがあった」


「どこですかそれ」


「四の教室の隣。これから二階をぐるりと回って、それから一階に降りる」


「それじゃあどうして教室の扉を開けようとしているんですか」


「開かなくなっているのを確かめてるんだ。黒い影、というか境界の扉は、もしかしたら俺らをどこかに連れて行こうとしているんじゃないかと思ってな」


「どこからそんな発想が出てくるんですか」


「オカルトの世界は自由な発想で溢れてるんだ」


 石田は平然とした調子で扉を確かめてゆく。

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