境界の扉

衣谷一

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 高畑洋にとっては答案の解説なんてどうでもよかった。ちょうど昼休みで弁当を食べた後ということもあり、眠気は心地よく、しかし夏らしい暑さとセミのけたたましい叫びに眠ることすら許されない。こうなると心地よさはむしろ苦痛だろうが、多くの生徒にとってはこの先のことを思い描きながら、苦しみを甘んじて受け入れている。面白みのない期末テストの解説はこのあとに控える夏休みの布石だった。


 高畑はしかし、夏休み直前にある浮足立った感じを全てシャットアウトして、ひたすらにノートの隅に書き込んだ言葉を見下ろしていた。人の名前、今年の四月に同じ部活動、図書部の後輩となった男の名前だった。


 石田拓朗。高畑はその名前に下線を引いた。教諭の目にとまらぬよう、机の影に隠しながらスマートフォンを開けば、LINEのチャット画面があった。彼とのやり取りが残っていた。最後の更新は数日前、それからは何もなかった。


 図書室に集められて聞かされたが脳裏を繰り返しよぎる。


「石田が行方不明になった」


 顧問から告げられた言葉に部員たちは顔を見合わせ、最後には石田拓朗の兄に視線を集中させるのだった。


 高畑たちが投げかける視線での問いかけに、石田孝之はしばしの間を置いて答えた。。


「もう数日帰ってきていない」


 発した言葉はそれだけだった。だが、高畑たちにとってはそれで十分だった。


 同じクラスの浦多佳子。


 後輩で石田拓朗と同じ一年の前澤明。


 互いに互いを見合い、そうしてから押し黙ってしまった。全員が全員、同じことを考えて、同じ問いかけをしようとして、視線を合わせただけで同じ答えをしたのだ。


 石田拓朗は『境界の扉』に触れてしまった。


 石田拓朗は、『境界の扉』に触れてしまったのか?


 実はそれ、同じことを考えていた。


 目配せをするだけで図書部の部員たちは会話をして理解してしまったのだ。


 石田拓朗は『境界の扉』に触れた。開いた。


 このことが図書部員に重くのしかかったのである。

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