2-8 クエスト失敗

 突如女子トイレに現れた男に対して、その場に居合わせた人が不審がるのは当然の成り行きである。救急隊員が前澤をストレッチャーに乗せて搬送されてゆくのを見送った。前澤の横には浦が付き添っている。救急隊を見送った後、高畑は事情を説明しなければならなかった。


 簡単な事情聴取を受けている際に、前澤本人が警察に連絡したことを高畑は知った。通報をしている途中で急に誰かと争っているようになったらしい。ほんの一秒足らずの出来事だったらしく、直後電話が切れてしまったという。


 女子トイレに飛び込んだ事自体は警官にたしなめられたものの、それ以上のことはなかった。関心は現場の確保と保全に移ったらしい、ショッピングセンターの人と話し合っていた。


 大仕事をやりきった後のような、嵐を何とかやり過ごしたか後のようなだるさが全身を脈打つ。だるさに心地よさは全くなくて、むしろ不快極まりなかった。前澤から助けを求められたのに高畑は助けることができなかった。悪い結果だ。


 事件現場に一人取り残されたように感じられた。野次馬は社員と警察官が散り散りに追い払ったし、当事者たる前澤は病院に搬送された。事情聴取をしていた警察官は高畑に背を向けて何かを社員と話していて、第一発見者だったのだろう見ず知らずの女性はいつの間にか姿をくらませていた。


 高畑は警官に前澤の行方を、どの病院に送られたのかを尋ねたが、情報が入ってきていないから分からないと無碍に返された。加えて、


「今日はもう大丈夫です」


と事件現場からも切り捨てられてしまった。


 行き場を失った高畑は浦以外に頼るところがなかった。


「こっちは済んだ。どの病院に搬送された?」


「おおたかの森病院。もう明ちゃんは手術室」


「分かったそっちに向かうよ」


 さて事件現場から立ち去る高畑は、病院へ向かうべくエスカレーターに乗った。


 頭の中ではストレッチャーで運ばれる前澤の顔が繰り返し再生された。一瞬のうちに高畑の横を通り過ぎていった光景だったが、真っ赤になった右下腹と、見たこともないほど歪んだ表情が痛々しくてたまらなかった。


 前澤の顔の青白さと言ったら。


 床に流れる血の多さと言ったら。


 手術室、と浦が言っていた。手術の進み具合はどうなのだろうか。何をしているのか分からないだけに想像が想像を生む。見るからにして刺されているのは間違いないけれど、それ以外に起きていることはなかろうか。手術は順調だろうか、トラブルが起きてはいまいか。


 ショッピングセンターを出て歩道を病院へと進む。地図アプリをにらめっこしながら、地図上に示された青い線をなどってゆく。大きな道路のそばをしばらく歩いてから左折すればたどり着く道のり。


 地図を眺めていれば突然、メッセージがポップアップで表示された。


「パイセン聞いてくださいよ」


 石田拓朗からの絡みだった。


「クエスト失敗しちゃいました」


「それよりもこっちに戻ってくる方法は見つけた?」


「僕の話を聞いてくださいよ、これでも僕は結構落ち込んでるんです」


 高畑の言葉はことごとく投げ捨てられてしまう。文字だけの表現では落ち込んでいるようには聞こえなくて、むしろおちゃらけるだけの余裕があるようにしか読めなかった。


 気がつけばため息をついてしまう。


「ここでは色魔って言い方をしていましたが、要はサキュバスですね、これを倒すクエストだったんですよ」


「逃げ込んだのが廃墟みたいなダンジョンで、それはもう広くて広くて。雑魚モンスターを倒しながら進んでいたから、時々見失っちゃうんですよ」


「中をさまよいながらようやく奥に隠れているサキュバスを見つけて、いざ戦うぞ、となって」


「相手は戦うよりも逃げたり隠れたりするのがうまいんですよ。だから攻撃しようにも中々当たらなくて、すぐ逃げてしまって。モンスターなのに逃げまくるんですよ? 変じゃないですか」


「で、ようやく一撃を与えることができたんですが、その時に横槍が入ってきたんですよ。何だと思います?」


「モンスターが群れになって僕の方に走ってくるんです。群れの先頭には槍を持った人がいて、僕めがけて走ってくるんです。押し付けですよ押し付け。槍の人は相手するモンスターが多くて手に負えなくなったからって、僕にそいつを押し付けてきたんです」


 血管が浮き出るスタンプを何個も連投してきた。むしろ高畑のこめかみに血管が浮き出そうだった。


「それからはサキュバスどころじゃなくて、大量のモンスターを相手に大立ち回りです。全滅させたのはいいんですけど、気付いたらサキュバスがいなくなって、体力的にも辛かったので断念するしかなかったんですよ」


 メッセージの更新がはたと止まって石田のしゃべくりが終わったことを知った。高畑としてはただただ文字を追うだけだったのにうんざりしてしまった。石田の言葉はまるで現実でない、おおたかの森で事件に巻き込まれているというのに、どうして妄想を垂れ流しているのか。


 返信を打ってやろうと入力エリアをタップするも、途端にやる気をなくして電源ボタンを押した。真っ黒になった画面に映る顔に表情はなかった。表情をあらわにするのも面倒だった。


 スマートフォンをバッグに押し込んで、残りは覚えた道に従って病院を目指す。石田のことをなるべく考えないようにして、下を向くのをやめて空を見上げた。視界の隅っこに病院の角が見えた。


 病院で見つけた浦の姿は、待合室の椅子の隅で下を向いていた。声もかけずに腰を下ろせば、浦は高畑をちらりと横目に見るだけだった。周りには患者らしい患者がいなかったものの、病院が持つ独特の空気がしゃべるのをためらわせた。


 凍てついた雰囲気、消毒液の匂い。


 しいんと静まる待合室で、


「明ちゃんのことなんだけれど」


とつぶやくように切りだすのは浦だった。


「救急車の中の話だと、命に別状はなさそうだって」


「そっか。それなら一安心だ」


「それと、高畑が来るまでの間に先生に連絡しておいた。明ちゃんのご両親にも連絡したかったんだけれど、連絡先分からなかったから、一旦先生に。多分そこから連絡がいくはずだから」


「ありがとうな、気を配ってくれて。俺は全然そこら辺のこと考えてなかった」


 浦が言葉を紡ぐことはなくて病院の空気感が高畑たちを圧し始める。浦は浦で必要なことを話したまでで何ら問題はなかった。言葉を交わす必要はなくて、静かに手術が終わるのを待っていればよかった。高畑の中では、一方で、浦が話したように何かを話す義務というか、必要性があるのではなかろうかと思えてならなかった。


 高畑はスマートフォンを取り出した。確かめるのは時間だけのつもりだった。だが、目を引いたのは時間の表示ではなくて、その下に並ぶアイコンだった。


 LINEのアイコン、右上に重ねて表示されるバッチには『20』の表示がついていた。二十件のメッセージが誰から送られてきているのかは何となく想像がついた。どうせあの男だった。


 ため息をついて、


「ここに来るまでの間に石田から連絡があった」


と口にしたことに気付いたのは、浦の全く関心のない相槌を聞いてからだった。はっとして浦を見やれば後頭部だった。廊下の奥に視線を向けているらしかった。


 浦の視線を辿って廊下の奥へ視線をずらしてゆけば、目に入るのは歩いてくる人の存在だった。


 トートバッグを脇に抱える深田先生と視線が重なった。途端に顧問は顔をほころばせて二人に歩み寄るのである。


「二人ともよく頑張ったね。大変なことになってしまったみたいだけれど、二人だけでここまでやってくれた」


 高畑と浦は深田が到着するにあわせて立ち上がろうとするが、深田の手がそれを制した。


「ある程度のことは浦から聞いているけれど、新しい情報はある?」


「いえ、ないです。手術もまだ終わっていないですし」


「手術は終わるのを待ちましょう。前澤のご両親には私から連絡しておいた。じきに到着するはず。あとは私に任せなさい」


「任せなさい、というのは」


「後のことは私でやるから、二人はもう帰りなさい。多分明日以降もいろいろとあるはずだから、そこに備えておいてほしい」

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