第18話 槐の裁~三槐の秘宝~
朝靄のかかる、静かな一時。
蘇利超が湿った空気の向こうをじっと見つめている。
視線の先に佇むのは、七輪槐塔を見上げる旧友。
利超は、いつの間にか数えきれないほどの皺を刻んでいた彼の表情をひたと見据える。
時の流れとは早いもの。自分も相手も、体は枯れ木のように細くなり、髪は雪を被ったように白くなった。互いに認め合うことができなかったのに、こんなにも長い間一緒にいるなんて、あの頃の自分達は考えただろうか。
利超はいつの間にか七輪槐塔を見上げるのをやめ、自分を見つめている彼に声をかけた。
「……心軒よ、早いな」
「ふん、よく言う。こんな時分に私を呼んだのは貴様だろう、利超」
李心軒は利超の顔を見て嫌そうに顔を歪める。
本当に彼は昔から変わらない。
そしてまた互いに、互いの手の内を隠すところも。
利超は心軒をひたと見据える。
「回りくどいことは言わん。お前が掴んでいる情報を全部渡せ」
何もしなかったために後手に回ったのは利超の過失だ。
しかしこの案件……珀明が何者かに連れ去られたことに、目の前の心軒が関与していることは既に分かっている。しらを切ることは許さない。
「文を寄越しただろう。ふざけた真似をしよって。自分が犯人だと言っているようなものではないか」
利超は懐から一枚の文を取り出す。その筆跡は、紛れもない心軒のもの。
普通の文であれば利超もわざわざ呼び出して問い詰めることはない。
「どうしてこの文がお前の筆跡で書かれている」
それは明が拐われたとき、宇澄に渡った文。
留学生の送還を強制させる、あの文だ。
心軒は唇の端を歪める。
「お前なら気づくと思った」
「わざとか」
利超は目を細める。
心軒の筆跡を真似た誘拐犯の仕業かとも考えられたが……どうやらそんな甘い考えは無駄だったらしい。
「何故こんなことを。大局を読めぬほど耄碌したか」
「ふん、耄碌したのは貴様の方だ、利超」
心軒は七輪槐塔の下の亭に足を寄せる。
彼の姿を朝靄で見失わぬように、利超もまた亭に歩み寄る。
「気づいていないとは言わせんぞ」
利超は一瞬、何を言われたのか分からず、眉を潜めた。
「何を言う。気づいたではないか。お前が珀明の誘拐に関与していると。お前がこんなことをする動機は無いだろう」
利超は心軒を問いただす。
対する心軒は、気づいていなさそうな利超の反応に目元の皺を深く刻む。
「……私に、耳打ちをした者がいる。あれは蘇家に仕えていると言いながら、私に情報を流してきた」
利超が顔色を変えた。
蘇家の者が、心軒に耳打ち?
利超は蘇家の者に内通者がいたことを把握していない。そのことを心軒は聞いていたのかと気付き、渋面になる。これは耄碌したかと言われても仕方ない。
「曰く、貴様は留学生を取り込むことで、歴史ある泰連を伎国に売ろうとしていると」
「何を言うと思えば。小国である伎国が泰連を取り込むことはできん。そんな荒唐無稽な話、まさか鵜呑みにするわけがあるまい」
「当たり前だ」
亭の椅子に腰かけた心軒に、利超が亭の敷居の外から声をかける。
心軒はじっと利超の顔を見た。
「だが、それを鵜呑みせねばならなかった」
心軒が亭の柱に背中を預け、瞼を閉じる。
「どういうことだ」
「腰を痛めたと言っただろう。私がそう簡単に腰を痛めると思うか」
「爺が何をいう」
沈黙が降りる。
心軒の言葉を利超が茶化す。いつもならここで心軒も言い返すものだが……きっちり三拍数えたところで、心軒は目を開き、何事もなかったように話を続けた。
「奴は許荀と名乗って李家にやって来た。上部だけは確かに蘇家の使いだった。私は奴と言い争い、手まで上げたが、結局は老骨が災いして腰を痛めた。奴はそれを笑い、私を嘲った。挙げ句の果てには、言うことを聞かねば家の者を殺すとまで言われた。だから私は奴に協力を───」
「待て」
利超は亭の敷居を跨ぐと、手をすっと上げて遮った。
「心軒よ、何を戯けたことを」
「戯けたことではないことは、お前がよく知っているだろう」
心軒が静かに言いきった。
利超が厳しい顔になる。
「……それは本当に許荀なのか」
「
利超は難しい顔をし、重々しく言葉を告げる。
「許荀は、既に死んでいる」
ぴくりと心軒の眉が上がるが、さして驚いている様子はない。
利超は続ける。
「許荀は一年も前に事故で死んでいる。実の父親から報告を受けたのだから間違いない。その者は本当に許荀か?」
「私がまやかしを見たとでも言いたげな顔だな」
「……」
利超は黙る。
もし許荀が生きているのならば、どうして蘇家に戻ってこないのか。
返答に窮した利超が何も言わず亭の外で佇んでいると、心軒が七輪槐塔を見やる。
「この際、生死など関係はない。我らは肉体の生死などあってないようなものと、とうに心得ているのだからな」
心軒が視線を七輪槐塔にやったまま、話を続ける。
「伎国の珀家……百年以上前に泰連の血を取り込み、さらに六十年前には、貴様が海に流した娘を拾った家か。そのまま当代の当主と婚姻し、子を生んだらしいな」
「……何が言いたい」
心軒はため息をついた。
「珀家の娘が来たことによって、我らが滅すことのできずにもて余していた物を、奴がいよいよ本気で取り戻そうとしているのではないか。許荀という、体の良い肉体を乗っ取って」
三槐が、もて余していたもの。
その一言で、利超は自分達が何を相手にしていたのかにようやく気づいた。
心軒が言いたかったのは死んだはずの許荀の裏切りなんかではない。
かつて神秘に触れ、利超たち三槐の手で葬り去った男が糸を引いているということか!
「まさか……奴が糸を引いていると?」
「気づいていなかったのか」
心軒が珍しく面白そうな顔をした。
利超を出し抜くと必ずその表情をするので、利超としてはあまり見たくはない顔だ。知らず青筋が浮き立つ。
心軒は気にせず、言葉を続けた。
「お前が持っているはずのそれを、あれは奪い返しに来たのだ。お前があれを持っており、珀家の娘がそれをどうこうできる術を継いでいるのならば───」
「心軒」
利超が心軒の言葉を遮った。
「そんなもの、憶測に過ぎん。奴が直接、本当の名を名乗った訳ではないのだろう。ならば所詮は机上の空論。たとえ珀明が奴をどうこうできるとして、何故奴は気づくことができる。奴の目は泰連全土ならず、伎国にまでも及ぶと? 何十年も前に死んだ者が、突然、どうして、現れる道理がある」
利超は目を細め、心軒を凝視する。
全ての前提を否定する響きが、その声にはこもっていた。
それはまやかし、お前の妄想だと、利超は断じる。
「───それはお前が奴の御霊札を奪ったからだろう」
利超でも、心軒でもない声が耳朶を打った。
利超と心軒は、不意に現れた朝靄の向こうの人物を見る。
夏の朝、さらにまた一人、七輪槐塔に姿を顕す。
その人は逞しく鍛え上げた腕で幾つかの巻物を携え、珍しくゆったりとした袍を身にまとっていた。
利超も心軒も、とっくの昔から老眼だ。
輪郭がしっかりと見えるくらいになるまで近づいて、ようやく声の主が誰か知る。
「なんだ志恒か」
「驚かせよって」
「なんだとはひどいな! わしを抜いて二人だけで内緒話とは感心せんぞ!」
朝から声を張り上げてやって来た志恒に利超は明後日の方を向いた。まためんどくさい奴がやって来た。
「なんなのだ、志恒。私はお前を呼んではおらんぞ」
「ふん、お前らの事など教えてもらわんくとも分かるわい。……と、言いたいが。実際には蘇邸に行ったらお前がここにいると教えられたのだ。ほれ、土産だ」
亭に歩み寄った志恒がぽいっと利超に向かって一つの巻物を放り投げた。
「これは?」
「うちの奴らが書いた報告書だ。伎国内の動向が書かれている。それと、うちの情報網に密入国した伎人が引っかかった。それを辿っていくうちに心軒、お前に行き当たったんだが……今の話で腑に落ちた」
「……聞いていたんだな」
志恒の言い様に、心軒は吐息を漏らす。
「この脳筋ですら気づく雑さ……手を抜くにも程があるだろう」
「ふん。事は重大だったが、私も奴に手綱を握られていたからこそ、文字通り首をかけてお前に気づいてもらおうとしたのだ。下手に動いて、一族にまで奴の手が延びてほしくはなかった。だが、老いた利超に期待するだけ無駄だったが」
心軒は最後の一言に青筋を浮かべた利超を見て鼻で笑う。
利超は何があっても、この事実を認めたくなかった。
「認めろ、利超。奴は……子奇は、生きている」
心軒が、厳かにその名を告げる。
子奇。
それは彼ら三槐が歴史から葬った名。
天に一番近かった、彼らの同胞。
───利超が、文字通り首を断った者の名前。
「……奴は死んだ。お前たちも見ただろう。私がこの手で奴の首をはねた、その瞬間を」
利超は震える声で言う。
振りかぶる剣、上がる血渋き、転がる首。
文官だった利超が、唯一殺した相手。
六十年前に死んだはずの彼が生きていると、どういうわけか姿形を変えて生きていると、認めがたいその事実を信じろというのか。
「奴は墓の下だ」
「ああ」
「奴に捕まっていた娘は伎国にやった」
「そうだな」
相づちを打つのは心軒か、志恒か、それともどちらもか。
利超は目元を覆った。その手に覆われて表情は分からなくなってしまったが、その直前の一瞬、憔悴したような表情を見せた。
「……認めろと? この私に子供の寝物語のようなことを認めろと言うのか」
「認めるもなにも、お前こそがその寝物語にすがり付いておるではないか。だから子奇が己の御霊札だと言ったそれを奪いながらも、捨てはしなんだ。炎寿仙と名乗った女を憐れんで、追放だけしよった」
炎寿仙。
お伽噺に出てくる、全ての人の魂を浄化できる天帝の御使い。
「薄情とは思うだろうが、私たちは貴様が思っているほど、子奇に執着はしていなかった。だから子奇が王に殺されようとも、お前に殺されようとも、当然の摂理とさえ思っておった」
志恒と心軒が利超に言葉をかける。
利超はその眼の裏に、在りし日のことを思い浮かべた。
子奇とはかつて不老不死を手に入れた者の名だった。
炎寿仙から自身の御霊札を奪い、天命を終えてもなお、復活し、さまよった者の名。
死んでも、彼は御霊札がある限り復活する。
彼の御霊札が利超の元にある今、彼が復活するのも道理なのかもしれない。
利超が殺したはずの子奇は既に一度生き返っている。皇帝によって処刑されてもなお、生きてさまよっていた彼を利超が殺したのだ。
ならば数十年の時を経て再び生き返ってもおかしくはないのだろう
あぁ、この歳になってもまだ、自分達はお伽噺の住人のままか。
利超は大きく息をついた。
その様子を見て、ようやく認めたととった心軒が、話を進める。
「……子奇が生き返ったとして、これをどうやって今の若者たち……実際に相対している者たちに伝える」
お伽噺を馬鹿正直に受け入れるような者などいない。
今巻き込まれている者たちは、子奇と三槐の関係を知らない。
黙って悩む利超と心軒を横目に、志恒が何も悩むことなく、思ったことを口に出した。
「仮にも炎寿仙の孫たちだ。ひょっとしたら受け入れてくれるかもしれんぞ?」
志恒の浅はかな考えを、心軒と利超はじろりと睨み付けた。
「脳筋め。珀明を狙った男は、許荀の面をした
「江春の話では、珀明は炎寿仙のお伽噺に食いついていたらしいから、案外目を輝かせるやもしれんなぁ」
「相手が自分を誘拐したやつでもか?」
「そも、心軒が子奇に怖じ気づかなければ……」
「私のせいにするのか? 安易に誘拐できるような隙を作らせたお前が?」
「……」
「……」
利超と心軒の熾烈な視線が交わった。
火花を散らす二人に、志恒が咳払いをして間に入る。彼は利超を退けて心軒の腰かける長椅子の側に座った。
「ま、話す話さないにせよ、主上がまず上手く珀明を助けなければならんがな!」
「上手く助け出しても伎国のことがある。今回、子奇は伎国から来た追手どもを利用しているしな。どうも珀明は伎国の王子の妃候補の一人だったらしく、どういう経緯か分からんが、王弟は熱心に彼女を追っているようだった」
「……だから何故お前たちは私の知らん情報を知っておるのだ。というか怜央め、そんなこと一言も言っておらんかったぞ」
珀明が伎国の王子の妃候補だと知っていれば、後宮にはいれなかった。怜央が妹の当面の安全を確保するために、故意に伏せたのだろう。まったく、可愛くないことをしてくれる。
利超がむっとすれば、心軒がふんっと鼻を鳴らす。
「潔癖なお前は嫌がるが、伎国の商船はなかなかに良い利益を李家にもたらしてくれている」
「朝貢のために禁じている私貿易を堂々と……」
「悔しかったら証拠を掴んでこい。この件みたく杜撰な扱いはしておらんから、証拠を掴むのも一苦労だろうと思うがな」
ここまで心軒が言うからには、徹底的にその辺りの証拠は隠滅しているのだろう。まぁしかし、今はそんな事はどうでもいい。
伎国と癒着している心軒がそこまでいうのだ。伎国の事は留学生の件以上に問題になるのだろう。
そんな中、珀家の生き残りにこの話を告げるのは気が引ける。
自国が大変だと分かっているのに、三槐のツケまで押し付けるのはさすがの利超も心が痛む。
でも、もし珀明や珀怜央が炎寿仙の孫の血を発揮してくれるのであれば、子奇は永眠してくれるかもしれない。その可能性があるからこそ、彼らには一度話をしておく必要がある。後世に残すわけにはいかないこの案件は、何としても三槐の寿命がつきる前につけの支払いをしておくべきなのだ。
「まぁ、子奇の事は折を見て話すことにするかなぁ。とりあえず珀明は後宮を退出させ、蘇家に匿う。その間、主上には伎国の事に専念してもらうことにしよう」
「今の主上なら珀明に関わることは進んで動くだろうからな」
「今も主上は珀明の行方を追ってるそうやないか。しばらくは真面目にやってくれるだろ」
利超の方針決定に、心軒と志恒は頷いた。
利超は亭の柱になついて、大きくため息をつく。
厄介なことが一つ二つどころか、三つも四つも絡まっているような気がしてならない。
当事者達は目の前の事に精一杯なのだろうが、大局を見ているこちらとしてはなんともやきもきする状況だ。
子奇の復活と伎国の内乱。
珀明という娘が海を渡ってもたらしたものはなんとも大きなものだった。
彼女に幾つもの運命が絡まっている。
これからも何かしら事が動くとしたら、彼女がその一端を担うのかもしれない。
これ幸いと手元に置き、手駒として扱おうとしたのは悪手だったのかもしれないが、今さら彼女を切り捨てるわけにもいかない。そうなれば怜央に刺し殺されるやも。
昔のように賢く立ち回ることのできなくなっていることを自覚した利超は、実に大きくため息をついたのであった。
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