幕「こうして歴史は作られた」
「続きはどこですか!」
書を読み終えた女官が溌剌と皇帝に向かって尋ねた。
少しばかり長かったのと后があまりにも恥ずかしがるものだから、女官にはさらりと読ませつつ、皇帝が要所をまとめて話した。そして読み終えた女官は開口一番、その続きを要求したのだ。
皇帝は苦笑しながら、女官から書を受け取る。
「まだこれは下書きのようなものだよ。完成の目処は長官に聞いて」
「えええ、すごいこれから相思相愛の恋愛秘話とか、がっつり読みごたえのありそうな改革物語が始まる展開だったのにお預けですかぁ……」
目をきらきらと輝かせて続きを期待していた女官は、肩を落として残念そうにため息をつく。
その様子を見た后が顔をひきつらせた。
「そもそも、なんで私だけとか、私と貴方しか知らないところまでこんなに緻密に書かれているの。最後の方にあった二人きりの時とか、私が捕まっているときのとか」
「あぁ、私が教えた」
皇帝がこれ以上ない極上の笑みを浮かべる。
初老も近いというのに見る者を蕩けさすような笑みに普通ならときめきで胸が苦しくなるのだろうが、后はこのろくでもない笑みに頭が痛くなるばかりだ。ここにも確信犯が、と顔を覆って嘆く。
「捕まっているときのは峰維殿に聞いたのだろうね。ただもう十年以上も昔のことだったから、所々長官が辻褄のあうように書いていたりはする」
「それでもこれだけ覚えてるいの怖いわよ」
長官の記憶力は化け物だ。一度見たものは忘れないというその特技は、もはや神がかっている。その割にはくだらない部分に使われている部分が多いけれど……膨大な記憶容量の内、どれだけ后について占められているのか分からない。
后は顔を覆うのをやめると、じろりとそのくだらない記憶容量の結晶である書を見やった。
国史編纂事部が携わっていたと言うので、国史同様、歴史書や伝記みたく淡々と書かれていくのかと思っていたら、思った以上に物語性が強かった。登場人物は皆生き生きとしていて、息づかいまで聞こえてきそう。編纂室に著名な文筆家でもいたのだろうか。
后は腕に絡めている
無心で披帛をひらひらさせ始めた后から視線をはずすと、女官は手元の櫛やら化粧箱やらを片付け始めた。
「それにしても
女官がありのままの感想を述べる。
皇帝は卓について茶を煽りながら答えた。
「いたかもしれないし、いなかったのかもしれない。蘇太師は、私たちに彼は
子奇という男の名は国史にも見られる。先皇帝の御世に道士として、先の皇帝の相談役を担っていた男。調べたところ、先代皇帝の逆鱗に触れて処刑されたと史書には書かれていた。
彼が本当にその子奇なのかは分からない。何しろ長官含め、彼を知るものの多くは肉体の名である許荀という名に親しかったから。彼を子奇という魂の名で呼ぶのは、皇帝と后、三槐、それからかつて彼に荷担した丁峰維くらいだろう。
「ふーん……? それならやっぱりお伽噺なんですかねぇ」
女官は話ながらも
皇帝は箱にしまわれていく化粧道具たちを見送りながら、一人言にも聞こえる女官の呟きに返す。
「
「だからこその、渡華記ってことかしら」
披帛を弄っていた后がいつの間にか顔を上げていた。会話にはちゃんと耳を傾けていたらしい。
「国史としては認められない事実。その欠片を、渡華記で残すって考えなのかしら。兄様の行動はいつも突拍子もないけれど、それならまぁ、私の事を記録に残すのを許してあげても……」
「いや、長官は純粋に君だけの記録が作りたかっただけだと思うよ? どちらかというと子奇のことはおまけで」
「前向きに考えようとしたのに台無しじゃないのーっ」
后が羞恥に顔を染めて立ち上がる。書を后が取り上げようとしたので、皇帝は立ち上がってごく自然な動作で彼女の腰を抱いた。
興奮して「離して頂戴!」と皇帝を押し退けようとする后の腕を捉え、指を絡める。華奢な妃の体がわずかに引き上げられ、踵が浮いた。身動きがとれなくなって、后はだんだん大人しくなる。
「国史とは別に渡華記がある限り、いずれ私たちもお伽噺の住人になるだろうね。その時に泰連史一、幸せな夫婦として残るためにも、私はもう少し頑張らないと」
皇帝は后の唇を奪う。
恋をしていた頃の熱量も、伽のような激しさもない、唇と唇が触れあうだけの温かな口付け。
皇帝は后の唇に塗られた紅が自分にうつる程度の口付けを交わすと、ゆっくりと彼女を解放した。后の踵が地につく。
「君に授けた深紅の七彩架。よく似合っている」
皇帝が后の紅に染められた唇を后の耳元に近づけ、艶っぽく囁くと、彼女の頬に朱が差した。
后は拗ねるように唇を尖らせる。
「……紅が取れてしまうじゃない」
そうぼやくと、后は椅子に座り直し、一連の光景を見ていた女官に鏡を持って来させる。女官は熟年夫婦の仲の良さを見せつけられ、后以上に顔を真っ赤にしていた。
「ひゃー、このまま寝台の用意もいたします?」
「昼間から馬鹿な事言わないの」
ぱたぱたと鏡箱から布にくるんだばかりの鏡を取り出すと、女官は后の前に立ち、顔を写す。頬紅以上に肌は色づいていないし、口紅もそんなに剥がれていないのを確認して、后は鏡を下げさせた。
ほぅ……と后はため息をつく。
「全く、この子の口の軽さはいったい誰に似たのやら……」
「まぁ間違いなく、この調子の軽さは父親だろうな」
「でも仕事の出来は母にも父にも負けず劣らずですから!」
女官が胸をはって断言すると同時、「失礼いたします」と別の女官が入室してきた。
「そろそろお時間にございます」
目尻に少しだけ皺が入った初老の女性が、しずしずと入ってくる。
后がちらりと皇帝を見ると、皇帝と視線がかち合う。
皇帝は厳かに頷くと、后の手を取った。
「さぁ、行こうか。君の故郷が待っている」
「何を言っているの。とっくに私の故郷はこの場所になっているのに」
后は皇帝に誘われて立ち上がると、そう言って微笑んだ。
これから遣伎使による挨拶が始まる。今回の遣伎使は数年ぶりに留学生を連れてきているというから、彼らの前では粗相をしないようにと后は気を引き締めた。
今の后は泰連国の人間。今さら伎国に戻ろうとなんて思わない。
彼女は泰連国で生きて、泰連国の土に還ると決めているのだから。
后と皇帝は貌佳宮から歩み出る。春の温かい陽気が二人を包む。
白、黄、桃、紫……色とりどりの花たちを愛でながら、二人は後宮を歩いていく。
「ふいて、よしなに、さらりと、そよげ。月をかぞえて、ひ、ふ、み。
不意に后が歌を口ずさみながら、一歩を大きく踏み出した。前へと歩きながら天へと右手を突き上げて、裾を摘まんでくるりと回転する。
ピタリと一回転した後には、頭上に掲げた腕で地面に垂直に大きく円を描く。一、二、三、と爪先で跳び跳ねるように地を蹴って、四拍目で前屈するように手を地へと着く。
突然舞い出した后の後ろで皇帝が声を重ねる。
「
独特な足裁きで舞う后を追いかけて、后が腕を差しのべるその瞬間に皇帝はその腕をとると、その手の甲にそっと口づけを落とした。后が顔を僅かにしかめるけれど、その耳が赤く染まっていて、嫌がっているわけではないことなんてお見通しだ。
后は共に歌う皇帝からするりと手を引き抜くと、袖を広げてくるりと回転する。一歩前へと進んで、今度は跳びながら、足を大きく打ち鳴らすように振り上げ空中で半回転。翻る裳と袖が鮮やかに宙にはためく。
「
しゃん、しゃん、と鳴る歩揺が、后の歌の合いの手のよう。
裳で隠された足さばきで控えめに舞ったかと思えば、突然大胆に裳裾をはためかせて宙を舞う后。
歌が終われば、後に残るのは花の甘い香りと、そよ風のささやかな音だけ。
后が継承した、二度と表舞台では披露されることのない伎国の祭り。旅立つ者達に向けて、旅路の平安を祈願するその歌と舞いは、后が故郷へ帰る者達に向けて贈る餞。
そしてまた、人生という旅路を行く、自分と皇帝への贈る鼓舞でもある。
「ねぇ。私、貴方に幸せを運べたかしら」
舞い終えた后が、足を止めて、動きを止めて、背中越しに皇帝へと言葉をかける。気紛れで、常に皇帝と対等であろうとする異国の姫君の願いは一つだけ。
寄り添うと決めた寂しがりやの王のために、ただ一度きりの人生を幸福に導くこと。
皇帝は歩みを止めずに答える。
「君がここにいてくれるだけで、私は幸せだ」
そっと后の背中が愛しい温もりに包まれる。抱きすくめられて、そっと耳元に落とされた皇帝の言葉に、后は花が綻ぶように微笑んだ。
その言葉が聞けただけで、后がここにいる意味になる。
家族を見捨てて海を渡った。泰連に来たばかりの頃は、伎国から逃げたことが呵責の念となって后を苛んでいた。今ではそんな時のことすら懐かしく思えるようになった。
皇帝と一緒に過ごした時間が、后の心の傷を優しく癒した。自分ばかりもらっているように思っていたけれど、でも、そんなことはなくて。ちゃんともらった分だけ、后は皇帝に温かなぬくもりを返していた。
皇帝の言葉が后の心に染み渡る。
蓮の葉が水面をたゆたう池の前を通りすぎていく。
青い池を越えると、また鮮やかな花を咲かす小道になる。
その道は、いつか后が運命の月に出会った道。
二人はその道を並んで歩む。
風が春の陽気と桜の花びらを乗せて、遠く……遥か遠く、海の向こうまでも運んでいく。
后はその風に乗せて囀ずった。
「静月、愛しているわ」
百花が咲き誇る後宮で、皇帝の華は今日も艶やかに深紅の衣装を翻した。
◇
后の纏う深紅の衣装。かつて纏った
その色に含まれた意味は幸福。
渡りの華は幸福を招く。
これは遠く、遠く、お伽噺になっても語り継がれていく、幸福を咲かせる渡りの華のお話───
渡華記~祭りの国の姫と怠惰な大陸王~ 采火 @unebi
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