第5話 後宮の悪しき慣習

 月影の宮にはまだ花が咲いていなかった。

 花が咲くのはいつだろう。青々とした葉が手を振るように風に吹かれている。

 心なしか、寂しそうな宮だった。

 月影の後をついて、明は宮に入っていく。

 招かれた部屋には宦官服を着た男が一人いた。

「帰ったよ」

「おや、お早いお帰りで……って、そちらの方は?」

 部屋の掃除をしていたらしく、窓を拭いていた如宇澄じょ うちょうは雑巾を片手にこちらを向いた。

「蘇昭容だ。火傷をしているから手当てをしてほしい」

 宇澄が驚いて明を二度見する。

「えっ、お妃様っ? て、え、俺、火傷の手当てなんて出来ませんよ!? 侍医官連れてきた方が良くないですか?」

「できないの? それなら取り敢えず、大量の水を持って来て。それから侍医官を連れてくるついでに、貌佳宮に寄って迎えを寄越すように伝えて」

「貌佳宮の者を呼んで良いんですか?」

「仕方がないだろう? それに今は、貌佳宮に江春がいるから。江春なら上手くやってくれるさ」

 いまいち要領のつかめない会話が交わされる。

 明が静かに見守っていると、話が着いたのか、宇澄は水を汲んできますね、と足元にあった桶に雑巾を放り込んで部屋を出て行った。

 月影がこっちだと明を椅子に座らせる。

「痛む?」

「少し……」

「もう少しの我慢だよ」

 口少なに一言、二言交わしていると、宇澄がたらいを二つ、両脇に抱えて戻ってきた。

「足ります?」

「一つで良かったんだけど……まぁ良いか。宇澄、侍医官を呼んで来るように。あぁ、それと睡蓮の池へ行く道中に茶壺を置いてきたからそれも拾って来て」

「はーい、行ってきます」

 盥を二つ、明の目の前にある卓子に置くと、軽い身のこなしで宇澄は部屋を出ていった。

 月影は盥の一つを床に置き直すと、卓子に残した方の盥を明に寄せた。

「袖ごと浸して。しみるだろうけど、我慢するように」

「は、はい」

 明は恐る恐る桶に腕を浸す。

「~~っ!」

 腕を撫ぜるように水が触れる。静かな波紋ですら揺れると火傷に染みる。

 涙目になりながらも、明はゆっくりと桶に腕を浸していく。

 痛みに耐えながら、ようやく水に火傷部分が全て浸かると、ほっと息をついた。月影には侍医官が来るまで動かさないようにと言われる。

「それにしても李徳妃も容赦がないな。侍医官を呼べば大事になるというのに」

「そうなの?」

「当然。侍医の世話になったということを後見に報告しなければならないからね。そうなれば妃同士の問題ではなく、家同士の問題になることもしばしばだ」

「そうなの」

「そうなの、って君なぁ……」

 あんまり事の深刻さを理解していない明に、月影は呆れた顔をする。

 宇澄が窓拭きに使っていた椅子を引き寄せると、月影は明のすぐ側に座る。

「蘇家も李家も同格だけど、蘇家は先皇帝に見いだされた新しい家であり、李家は古くからの名家だ。さらに言えば、蘇太師も李太保も利己的なところがあり、昔から反りが合わないらしい。どちらも譲らないだろうね。被害を受けるのは周囲だ」

 月影は形の良い眉をひそめる。

 明はこてん、と首を傾げた。わさっと髪に生けられた芍薬が頬をくすぐる。

「だったら大事にしなければ良いじゃない」

「だから侍医を呼べば蘇太師の耳にも……」

「私から大事にしないでと頼む?」

「そんな簡単な問題ではないからね」

 こつんっと月影は明の額を小突いた。

「同格のはずの他家に格下と思われるのは屈辱であり、その屈辱を晴らすのは当然の流れだ」

「クツジョク……」

 明が難しそうな顔になる。

 それからたっぷり数十秒頭を捻るが、分からない。

「クツジョクって何」

「ん?」

 明が突拍子もないことを言ったからか、月影が拍子抜けした顔をする。美しい顏がちょっと可愛らしくなった。

 明はすねたように口を尖らせる。

「ついでに言えば、リコテキも分かんなかった」

「言葉の意味が分からないの?」

 明はこくりと頷く。

「難しい言葉を使うのは駄目だと思う」

「そんなに難しい言葉だった……?」

 月影は意外そうに首を捻る。

 明はぷいっとそっぽを向いた。

「いいわよ、後で江春に聞くから」

「ああ、いや、馬鹿にしているわけではなくてね? ええっと、そう、そうだ、言葉の意味をどうやって説明しようかと考えていたんだ」

 馬鹿にされたと思って不機嫌になった明に、慌てて月影は弁明する。

 明にうろんな目を向けられたので、月影はこほんと一つ咳払いした。

「利己的はそうだなぁ……自分だけ良ければいいという意味。屈辱は……相手に従わねばならない時、それを恥に思ってしまう感情、といえば分かる?」

「それは……」

 つい先ほど、李徳妃達に感じた感情に近い。

 怒りによく似ているけど、怒りのように頭に血は上らない。頭の片隅は氷で冷やしたように冷えている。

 絶望は感じない。かつて感じた絶望にはほど遠い。

 でも、悔しくて、悔しくて。何もできない、何もさせてもらえない自分を恥に思った。

 この感情をこの国では屈辱と呼ぶ。

 物思いに更けるように、明は口を閉じた。

 そう、あの時も屈辱を感じた。

 伎国から逃げ出した、あの時。

 月影が心配そうに明の顔を覗く。

「どうしたの? 痛む?」

 ふるふると明は首を振って否定する。

 少しだけ悲しそうな、懐かしそうな表情になる。

「何でもない。気にしないで」

 すうっと深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。大丈夫、これくらい何ともない。少しだけ、悲しい記憶を思い出してしまっただけだから。

 空気を重たくしてしまったなと感じた明は、一転して「さっきの事だけど」と真面目な顔になる。

「国のそういうとこ、おかしいと思う。位をもらった妃なのに、どうして家が出てくるの? 家の位が大事なら、妃自身が位を貰う意味がないわ」

「それは……ん? そうだね? どうしてだろう?」

 月影は理由を述べようとして、はたと止まった。

 どうやらうまく話をすり替えられたようだ。

 月影は口元に手をやって、考える素振りをする。

「始めは後宮の予算繰りのための叙位だった。でも結局は献上という名目で妃は俸禄に見合う以上の贅沢をしている。李徳妃は特に顕著だな。身の回りに最高級の品々を置いている」

 後宮はいつだって贅沢だ。

 最初はその贅沢を制限するための叙位だった。それがいつの間にか、後見のための仕組みになった。

 妃だけならば問題ない。妃一人が贅沢をするならば。

 妃の贅沢は皇帝の贅沢に繋がる。それは一種の賄賂のようなもの。

 妃への献上は皇帝への献上。国庫の一部は妃を通しての有力者達からの献上で潤っていると言っても良い。有力者への見返りは、政で。

 限られた資金で贅を尽くすなんて出来ない。だから目立つように、皇帝に顔を向けられるように、有力者達は妃を通して皇帝をもてなす。

 それが今では慣例化してしまって、後宮の予算なんて在って無いようなものとなってしまった。

 与える側と与えられる側が混在する、矛盾のような後宮のあり方。

 それを容認してきたのは、色に溺れた歴代の皇帝達。

 そう説明した月影は明に微笑んだ。

 美しく、妖しく、不敵に。

「蘇昭容、君のおかげでこの劣悪な慣習に気がつけたよ。礼を言わせて欲しい」

「……そう? 良かったわ」

 実は明は話の三割くらいしか理解していないので、どうしてお礼を言われたのか分かっていない。でも月影の役に立ったのなら良かったと笑う。

「後で報告をまとめさせれば……いや勅でいくほうが……どちらにせよ老害共が……」

 一段と低い声でぶつぶつと呟きだす月影。ここまで声が低いとまるで男性のようだ。中性的な面立ちだから、あまり気にはならないけれど、なんだか少しだけちぐはぐ。

 月影が一人言に夢中になってしまい、明は会話の相手がいなくなってしまった。

 明は暇そうに部屋を見渡す。

 日差しを入れるための窓と、天涯付きの寝台。卓子、椅子。

 この部屋で変わったものといえば、寝台のすぐ横にかかっている、真白の布に銀の刺繍が施された豪奢な衣装くらい。

 着るつもりで出したのだろうか? 衣架いかに掛けたままにしてあって、窓から吹き込む風に揺らいでいる。

 とても上等な衣装が気になって聞いてみたくなったが、声をかけづらい。

 どうしようかなと視線をあちこちに向けていると、廊から足音が響いて、部屋の扉が強く開かれた。

「明様!」

「あ、江春」

 息せき切って駆け込んできたのは、明の負傷を聞いた江春だった。

 江春は瞳にいっぱい涙を溜めて、明に駆け寄る。

 水で冷やされている明の腕を見ると、我慢できなくなったかのようにぽろぽろと大粒の涙をこぼした。

 明はぎょっとする。

「こ、江春っ?」

「申し訳ありません、お側にいるべき時にお側におれず……!」

 江春は明のすぐ側で床に膝をつくと、深く、深く、頭を垂れる。

 明は立ち上がって声をかけようとして、月影に止められた。腕を冷やせと。

 仕方なく座ったまま、江春に声をかける。

「江春は悪くないの。私が油断していただけ」

「ですが、誰か一人でも供をつけておけばこのような事には……!」

 嗚咽を交えながら、江春は自身の失態を切に訴える。

 明は困ってしまった。いつもは怖いくらいに叱る江春が、目を泣き腫らすくらいに自分を心配している。こんな時、明はどうすれば良いのか分からない。

 声をかけたくても、上手く言葉にできない。言葉の壁が、邪魔をする。

 明が言葉につまっていると、見かねた月影が助け船を出す。

「今回は明らかに李徳妃に非があったよ。悪いのは君でも蘇昭容でもない」

 ぽたぽたと涙を流しながら、江春は顔をあげる。せっかくの美人が台無しだ。

「そう思われるのでしたら、貴方様の御力でどうにかならないのですか! 物事には限度というものがあります! これは明らかに過剰な仕打ちでございます!」

 月影は机に肘をつくと、頬杖をついた。

「してやってもいいけど、蘇昭容がそれを望んでいない。大事にするなとすら言っている。ね、蘇昭容?」

 呆れたように片目を瞑りながら視線を向けられ、明は困った顔をしながらも頷いた。

 江春は目を見開き、それからわなわなと唇を震わせる。あ、これはいけない奴だ。

「どうしてですか! これは明らかに侮辱行為! 蘇昭容様を、引いては利超様を侮辱しているのと相違ないのですよ!」

「ほら)。周囲が黙ってはいないと言っただろう?」

「あなたが言ったの、周囲が怪我をするとかじゃなかった?」

「それって周囲が被害を受けるってこと? ……ん? あ、それなら言ってないか?」

 月影が自分で言ったか言ってないか分からなくなって首を傾げる。ちなみに今のは、ちょっとズレてはいるが明の指摘の方が正しい。

 明と月影の少し間の抜けたやりとりを見た江春は、女官服の袖で目元を抑えるように涙を拭うと、いつものようにキリリと眦を決する。

「蘇昭容様、おふざけは大概に」

「ふざけ?」

「遊ぶなってことだよ」

 こそこそと小声で月影に意味を教えて貰う。

 もう二ヶ月も経って、大分言葉を覚えた気でいたが、まだまだだったようだ。長くいるつもりだった江春でも、感情的になった時に発される言葉は聞き取りづらい。

「私はいつも真面目だわ。江春、屈辱とかブジョク? とか思っても、争いは駄目。誰かが悲しいだけよ」

「ですがっ」

 さらに江春が言い募ろうとしたが、月影が手で遮る。

「言うは易く行うは難し、だね。江春、これ以上言っても蘇昭容は聞かないだろう」

「……貴方様がそれを言いますか」

 大きくため息をつくと、江春はようやく涙をこぼすのをやめた。

「利超様には明様のご意向をお伝えしておきます。どのみち侍医官を呼んだからには利超様に報告いたしませんと」

「はーい」

「本当に分かっています?」

「たぶん?」

 明が小首を傾げながら返事をする。

 江春もようやく落ち着いてきたようだ。

 いつもの江春になったと感じた明はくすりと笑った。江春はこうやって自分に対して強気でいた方が彼女らしい。

 不意に視線を感じた。そちらを見ると、月影が明を見つめていた。

 なんだろうと思っていると、ふと思い出したことがある。

「そういえば、江春は月影と知り合い?」

 さっきから互いに顔見知りなように話しているけれど。

 明の言葉に月影と江春は顔を見合わせる。

「それは……」

 江春が口を開こうとした時、扉が開かれる。

 宇澄が木箱を抱え、小さな老人を連れて来た。

「患者はどこじゃ~い」

 老人がちょこちょこと明の足元にまでやって来る。腰が曲がっているからか、座っている明よりも視線が低い。

「長官自ら来たの?」

「そりゃそうですよ、お妃様ですから」

 木箱を机に置きつつ、宇澄が月影に言葉を返す。

 そっかと頷いた月影は立ち上がると、すたすたと部屋の外に出ていこうとする。

 明は待って、と声をかけた。

「どこに行くの?」

「用事を思い出した。治療の間はここを自由に使ってくれて構わない。帰るとき、宮の戸締まりだけは忘れないように。鍵は江春に預けておくよ。宇澄」

「はい。江春殿、よろしく頼みます」

 にこやかに笑った宇澄が、白けた顔の江春の手に鍵を握らせる。彼は、振り向くことなく去っていった月影の後を追いかけていった。

 扉が閉まるまでそちらを見ていた明だったが、侍医官による治療が始まり、すぐに視線を移した。

 治療の痛みで涙目になりつつも、また会えるかなと明は颯爽と去っていった月影に思いを馳せた。

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