第6話 芙蓉宮の亡霊
明と月影の遊戯が始まった。
明は毎日の日課を、散歩ではなく
芙蓉宮。
月影に誘われたあの寂れた宮は、そう呼ばれているらしい。
実際には、月影は別の宮に住んでいるようで芙蓉宮にはなかなか来ない。江春と共に芙蓉宮に忍び込んでは、月影が来るのを待つ日々を送っている。
前に会ったのは五日前。その前は三日の間が空き、そのさらに前は十日も来なかった。
毎日毎日、明は通って何日かに一度、月影に会う。
月影に会えたらご褒美として一緒にお茶ができる、そういう遊戯。
楽しみのなかった後宮で、初めてできた楽しみは、明の毎日を潤わせた。
今日は会えるかな。
明日はどうだろう。
遊戯に興じているうちに季節は移り、鞠のような紫陽花が見頃になった。
雨の日が多くなったが、明は欠かさず芙蓉宮へと通う。
「あ、月影!」
「また君か。飽きないねぇ」
明がいつものように芙蓉宮に訪ねてみれば、今日は月影がいる日だった。
月影が芙蓉宮に来るときは、いつだって明より早くここにいるのだ。今日もまた、月影の方が早かった。
「月影って来るの早いわよね。何時に来るの?」
「秘密」
月影はふふ、と笑って誤魔化した。
同じ質問を幾度となく繰り返したが、月影は自身のことについて一切話さない。それでも気になるので、とりあえず聞いてみるのが挨拶がわりになってしまった。
誘われた部屋には宇澄もいて、ちょうどお茶を淹れている所だった。注ぐお茶は二人分。
「あ、蘇昭容様! お待ちしておりました」
朗らかに笑う宇澄に、明もつられて笑う。
「宇澄さん、お久しぶり」
「おや、蘇昭容様。お衣装が可愛らしいですね。江春殿が?」
「そうなの。いらないって言っているのに次から次へと作るのよ」
「そう仰いますが、お衣装で飾ることも妃の仕事のうちなのですよ」
明が今日着ている衣装は江春の新作だ。
紗で織られた朱鷺色の
雨の日に卸すのが悲しいくらいの衣装なのだが、雨の日こそ映えるのですよと江春に押しきられた。泥に汚れないように裾をつまんで歩けば、花を摘む娘に見えるからと。
「それでは蘇昭容様、私は別室に」
「あ、俺も」
「宇澄殿、言葉遣い直っていませんね。お仕えするものとしての嗜みですよ」
江春が宇澄に指摘しながら、二人で隣の部屋に移動する。
今ではすっかり定着した、ゆっくりお茶ができるようにという宇澄の配慮だ。最初、江春は反対していたのだが、今では不本意ながらも自ら席を外すようになった。
二人が出ていった後、月影がさてと、と頬杖をついた。
「蘇昭容、今日は何をするつもり?」
「月影は何が良い?」
「昼寝」
気のない返事に、明はむぅ、と唇を尖らせた。
「せっかく月影と会えたのに、それ?」
「会うなんて約束もしていないのに、押しかけてくるのはそっちだろう?」
それでも明を突き放さない月影は優しい。
明はうーん、となんとか欠伸を漏らす月影の眠気を覚まさせるものはないかと考える。
何か無いかと視線を巡らせれば、寝台の横にかけてある白い衣装が目についた。
明がこの衣装を見るのは二度目だ。火傷のときに初めてと、今。
「ねぇ、月影、聞いて良い?」
「何?」
「あの白い衣、どうしてかけてるの? 前の時にはなかったわ」
明が指摘すると、月影は顔を背ける。心なしか表情が陰って。
「……気分」
「衣なら着ないと。出しておくだけなの?」
「それは……」
月影は何かを言いかけて口をつぐむ。時折、何か言おうと口を開くが言葉は出てこない。
明は彼女の表情を見て、これは話題の選択として間違っていたことを悟る。
明は重たい空気を振り払うように、お茶の席についた。
「答えにくいなら答えなくて良いよ。月影、お茶冷めちゃうわ。温かいうちに飲みましょうよ」
「……そう、だね」
月影がぎこちない笑みを浮かべた。
良かれと思って言った言葉が、月影の触れられたくないところに触れてしまった。
明は話題を変えるべく、何かないかと思い付いたことを口にする。
「そういえばね、この間お菓子を作ったのよ。私の故郷のお祭りで食べるお菓子。雨が降りすぎないように神様にお願いするためのお菓子なの。江春にも美味しいって言ってもらえた。月影にもあげようと思ったのにその日は会えなかったから、日持ちしないし自分で食べちゃった」
明は領巾をくるくると手慰みに遊ばせる。口元に引っ張ってくると、袖でやるように領巾で口元を隠して笑う。
「菓子作りなんて厨の者にやらせれば良いのです、って江春に言われちゃったから、私の手作りは二度と無いかもしれない。残念だったわね月影」
ふふん、と笑って領巾から手を離すと、お茶に手をのばす。
ふんわりとほのかに香るお茶の香りを堪能して、少しだけ口をつける。白い湯気をあげるお茶はまだ熱い。
明は次から次へと話を変えていく。
故郷で見聞きした祭り行事の話、最近読んでいる草子の話、また重たいじゃらじゃらした髪飾りを拒否して江春に嘆かれた話。
月影とは毎日会えるわけではないので、会えない日々に伝えたい話は増えていく。
「それからね、一昨日だったかな? 利超様からお手紙をもらったのよ。火傷治って良かったって。それと本当に李徳妃を許すのかって。このやりとり何度もしたのにまたお手紙来たのよ」
明が一人で話しているうちに、月影もぎこちないながらも相づちを打ってくれるようになった。内心、安堵の気持ちでいっぱいだ。
とめどなく話を続けていくと、月影のお茶がなくなったので、新しいお茶を明が手ずから注ぐ。ついでに自分の茶器にも注いだ。
「確かに君の火傷、綺麗に治ったな」
月影がちらりと明の腕を見る。領巾を絡めた腕には、火傷の痕なんて残っていない。
「ふふ、治る怪我だから恨み言は言わないの。恨み言を言っても良くなるとは限らないし。もしかしたら反省してるかもしれないし。ただ、同じ事を繰り返すのなら証拠握って戦うわ」
ぐっと明は火傷をした方の手を突き上げて拳を作る。
胸を張って背筋をのばす明に、月影が柔らかな表情を浮かべた。
でも明は気づいた。
柔らかいけれど、それは決して微笑みではない。
悲しみ、切なさ、やるせない気持ち。
それらの感情を淡く溶かしこんだような表情。
月光に照らされたような静かな表情に明が見とれていると、月影がぽつりと呟いた。
「蘇昭容は、眩しいな」
「私、光ってないわ?」
「そうではなくて」
空気が重たくなるのが嫌で、明はわざとおかしな返事をする。
とんちんかんな明の返答に、月影は目元を和らげる。物憂げな表情に、少しだけ日が差した。
月影は目元を和ませると、茶器を口に運んだ。喉を潤して、一息つく。
「蘇昭容のような強さを持っていたら、母上も……」
「ははうえ?」
明が確かめるように繰り返す。
月影は小さく頷くと、衣架に掛けられた衣に視線を向ける。
「あれは母上が先皇帝より賜った七彩架の礼装だよ。月命日に飾ることにしている」
「……ツキメイニチ?」
「命日は母が亡くなった日の事。私は毎月、亡くなった日を数えては、墓参りの代わりに衣を飾っているんだ」
「……ごめんなさい」
あの白い衣は、月影の母の形見。あまりにも無神経なことを聞いてしまった。
謝る明に、月影はほのかに笑みを浮かべた。それは明を安心させるための笑み。
「気にしないでいい。後宮では誰も口にしない。口にしてはならないと、誰もが思っている。こうやって話すことができる日が来るなんて思ってもなかった」
後宮では決して上がることのない話。
明がこの芙蓉宮のことについて江春に聞くと、いつもはぐらかされる理由はここにあった。
後宮の禁忌。
そう位置付けられる何かが、確かにある。
「……ねぇ、辛いことを聞くけど、どうして母様の事を話しちゃ駄目なの? 話したいなら、話せば良いのに。そんなの、死んだ人がもう一回死んでしまうようなものよ」
明が死者への憐れみを込めて尋ねる。
「本当に、蘇昭容は何も知らないんだね。いや、わざと知らされていないのか……?」
月影は軽く瞠目した。
明の無知さは作為的なものがあると気づいたからか。
明自身も気づいている。利超が自分には最低限の事しか教えてくれていないことを。自分と兄が生きるためには、利超の力が必要だった。だから余計なことは詮索しないでおこうと思っていた。
でも、自分はあまりにもこの後宮の事を知らない。見かねた江春がお妃様修行と称してそれとなく教えてはくれるけど、それは必要最低限の事だけ。それも礼儀作法が中心。
こういった、隠されるべき事実などは決して口には上がらない。隠されるから、知ることもない。
「……蘇昭容は、どうして後宮に入ったんだっけ」
「え? えーっと……」
突然の問いに、明は口ごもる。
あんまり他言するべきではないのだろうけれど、自分だって話しづらいことを聞いてしまったのだと思い直す。
「……利超様と取引をしたの。私と兄様を助けてもらうために。私と兄様は、帰る家がなくなってしまったから。そうしたら利超様の屋敷にいるよりも、後宮はどうかと言われたの。後宮の方が過ごしやすいからって」
明は伎国の事は抜きにして、事情をそのまま話す。
利超に「蘇家の者として後宮にいれるから、赤の他人だと知られないように」と厳重に言い含められていたから。
月影は頷きながらそれを聞く。
「生きるためか……それならなおさら、君はここに相応しくない」
月影は静かに言い放つ。
「どうして?」
「後宮は緩やかに死を待つ、停滞した場所だから」
緩やかに死を待つ。
その意味を明は知らない、気づいていない。
だから彼女は「生きるために」という温かな輝きに溢れた希望を口にできる。
明が眉を潜めるのを見て、月影は明に答えへの道標を示した。
「後宮は皇帝の所有物だ。皇帝が死ぬとき、所有物はどうなると思う?」
明は考える。
伎国では皇帝が亡くなったとき、皇帝が生前大切にしていた所有物だけが墓へと埋葬される。その他は火をつけて、三日三晩、皇帝の所業を称え、冥福を祈る祭りを執り行う。その筆頭を担うのが、皇帝の妃だ。
もちろん伎国と泰連国では様式が違うことは分かっている。
泰連国の妃は一人ではないから、もっと別の儀式めいたことがあるのかもしれない。でもそれが、この話にどうやって繋がる?
皇帝が亡くなったら、妃は皇帝の冥福を祈るのではないの?
月影はいつまでも明の答えを待っている。
何か言わないと、次の言葉は返ってこない。
「大切なものならお墓に入れるだろうけど……後宮はお墓に入らないわ」
「後宮は、ね。後宮が所有物ということは、後宮に住まう妃も皇帝の所有物だということ。妃は最後の伽をともにする。その意味が分かる?」
伽。
それは床を共にするということ。
皇帝と一緒に眠るということ。
死した皇帝の床、それは。
「妃はあの世で皇帝に奉仕するために、皇帝の墓に一緒に埋められる。皇帝が死んだら、妃もそれに殉じる……死ぬんだ」
「そんな……っ」
明は言葉を失った。
皇帝が亡くなったら、妃も共に。
その衝撃は、明の後宮という華やかな世界を一気に瓦解させた。
後宮は華やかな物語の紡がれる舞台などではなかった。
泰連国の後宮は、美しい生け贄のための鳥籠。
死を待つための場所。
それは、生きたいと願った明とは相反する場所。
どうして利超は、自分をそんなところに……。
二人の間に沈黙がおりる。
自分がいる場所が本当はどんなところなのかを知って、明は落ち着かなくなる。怖い、どうしてこんな所に自分は来てしまったの。
お茶を飲んで落ち着こうと思い、茶器に触れる。
指先が震えて、茶器が小刻みに音を立てた。
震える体でゆっくりと口元にお茶を運ぶ。熱かったはずのお茶はすっかり冷めてしまっていた。
明がお茶を飲むのを見届けて、月影は言葉を繋ぐ。
「私の母も殺された。私はここから出られないから、母の眠る場所には行けない。せめてと思って、こうやって時折母に会いに来るんだ」
哀悼、愁傷、追弔。
そういった気持ちを持って月影はこの宮にやって来る。
持っていた茶器が、明の手からすり抜ける。
転がった茶器は空っぽ。
零れるものは何もない。
月影に会いたいばかりで、彼女がこの宮にどんな思いでやって来るのか考えたこともなかった。
何か言わなければと思うのに、言葉が出ない。お茶を飲んだのにこんなに喉が渇くなんて。
「……蘇昭容?」
黙ってしまった明に、月影が声をかける。
顔を歪めて、明は絞り出すように声を出した。
「月影、ごめんなさい。私は、あなたにひどいことを聞いてしまった……!」
胸いっぱいに自責の念がこみ上がる。どうして自分はこんなに無神経なのか。
あぁ、今すぐにでも月影に背を向けて逃げ出したい。
でもそれはしてはいけないと、心が叫んでいる。それは自分の罪に目を向けないことと同じ。
与えてしまった心の痛みを無くすことはできないから、向き合って許しを乞わなければならない。
明は自分の痛みのように月影の痛みを気遣う。
でもこれは、月影の痛み、悲しみだから。
「謝る必要はないよ。私は今まで、誰もいないこの宮に来るのが億劫だった。だけど、君と会ってからはこの宮に来るのが億劫ではなくなった。母も、私がずっと暗く沈んでいるよりは、そちらの方が喜ぶに違いない」
月影は立ち上がると、明の方へと回ってくる。
手を差し伸べられたので、その手を取る。明より大きく、筋張っているその手。繊手とは程遠いその手が月影の苦労を物語っているように感じた。
月影の手に引かれるまま、明は椅子から立ち上がる。
「蘇昭容、君は何も知らない。もう一度、後宮にいることを考え直すべきかもしれないね。言えば、私がここから出る手助けをしてあげよう」
確かに明は何も知らない。呆れるほどにものを知らない。
でも、彼女が自分から後宮を出ることはない。
「……ごめんなさい。気遣ってくれるのは嬉しい。でも、考え直さなくても、私の答えは一つしかないの」
明は顔を伏せた。
月影が明のことを案じているのが伝わったけれど、明には後宮を出るという選択肢はない。
「私は大事なもののために、利超様と取引をしたのよ。だから後宮に居続けるしかないの。でもすぐに死にたくはない。一生を共にするしかないのなら、私が王様を支えて、うんと長生きをしてもらうわ。怖いけど、想像できないけど、私には頼れるものが、今は無いの」
真っ直ぐに顔をあげた明の瞳には強い意思がある。
明には目的がある。
その目的とは生きること。
そのために後宮に来た。でもそれは、自分だけではなく、唯一の肉親、兄のためでもあるから。
そのためだったら頽廃的な場所でも、死を待つだけの鳥籠でも、兄に会えなくても、立派に生きて見せる。
彼女の生きたいという強い意思が、月影の中にわだかまっていた何かを溶かす。
月影がぽつりと呟いた。
「そんなにまで言うのなら……皇帝に会う覚悟はある?」
それは零れた呟き。
でも決して一人言ではなく、明に向かって放たれる。
月影はじっと明の瞳を見つめた。
「今、皇帝には世継ぎがいないから、世継ぎ問題が浮上している。だけど、後宮が改革されない限り世継ぎを作る気はない。皇帝族の、皇帝として立つものに必ず巣食う悲しい思いの怨嗟を、断ち切りたいと思っている」
静かな言葉で代弁する月影だけれど、その言葉は紛れもない月影自身の言葉にも聞こえた。
明は月影の言葉を咀嚼する。
「……どうして私なの? 王様なら、頼れる人は沢山いるでしょう」
「君ならきっと、皇帝に同調してくれると思ったからだ。もちろん皇帝にも同志は僅かながらいるよ。だけど、後宮に同志はいない」
「あなたがいるのに?」
明の言葉に、月影は困った顔をする。
どうしてそんな顔をするのかと思って、彼女はこの宮に住んでいた妃を母と呼んでいたことを思い出す。
彼女はきっと、妃ではなくて、皇族なのだ。
明は皇族ではない、妃に同志が欲しいのだと解釈する。世継ぎ問題がどうのとか言っていたから。
「……考えておくわ。それ、難しい話でしょう? 私にできるかどうか……」
「考えてくれるだけでも有難い。近いうちに、皇帝が君の宮に訪ねに行くよ。その時は温かく迎えてあげて欲しい」
「分かった。お話しをしてから、決める」
こくりと頷けば、月影は安堵した表情を見せる。
伎国を逃げだしたときから、明の心の片隅には消えない心残りが巣食っていた。
自分一人を送り出して、伎国に残った一族のみんなのこと。
二度と会うことはないだろう彼ら。その中には当然、明の両親もいて。
同じとはいえないけれど、似たような悲しみを月影は知っている。
そしてまた、皇帝もその悲しみを知っているのだろう。
後に残される者の寂しさを、明は痛いほど知っているから。
自分にできる精一杯を、誰かを救うためにしてあげたい。
それが、一族に守られた明の贖罪。
一族を犠牲に一人生き残ってしまった兄への罪悪感と共に、心に刻まれた傷痕だ。
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