第7話 心を乱す月下の来訪

 月影に会ったその日。

 辺りがすっかり暗くなって下弦の月が昇る頃、貌佳宮に来訪者が現れた。

 女官や宦官の慌てているような声が、明の部屋にまで届いた。

 そろそろ寝ようかという頃だったので、髪をおろして夜着一枚だけの姿。誰かが来たのなら上に何か羽織らないとな、と明は衣架に掛けられた薄い衣を手に取る。

 明が衣を肩にかけた時、部屋の外から江春の声が上がった。

「失礼致します。主上がいらっしゃいました」

「はい?」

 主上?

 明はぱちりと目を瞬いた。

 確かに月影に皇帝と会って欲しいと頼まれたけれど、早くない?

 明の驚嘆を肯定と取ったのか、江春が戸を静かに開いた。

 こつりと沓音を鳴らして、皇帝が入ってくる。

 ───それはまるで月のようだった。

 すらりとした体つき。はだけた薄い夜着の向こうに垣間見える、男性にしてはしなやかな細い体。

 瞳は水面のような静けさ、寂しさを称えている。

 唇は薄く、それが観る人に儚いながらも艶のある印象を与えた。

 ひんやりとした冷たい雰囲気だけれど、それが不思議と心地好い。

 いつか月影に感じた印象そのままのものを、明は彼に感じた。

 ……と、いうよりも。

「……月影? 何をしているの?」

 そっくりそのまま瓜二つ。

 化粧の有無や髪型が違ってはいるが、見間違えようのないくらいに彼は月影だった。

 彼はゆったりとした所作で明の部屋に歩を進めると、彼女の前に立つ。

 明は彼を見上げた。

「私の名は、静月せいげつ。蘇昭容、話をしに来たよ」

 明のよく知る声で微笑んだ月影……ではなく静月に、明はくらりと目眩を感じた。

 ───これは、嵌められたのかもしれない。




 夜も更けてしまったので、江春が茶ではなく白湯を用意した。

 卓子を挟んで明と静月が向かい合い、明の後ろには江春、静月の後ろには武官服を纏う宇澄が立つ。

「ええと、まず整理します。月影……じゃない、静月様は王様で、宇澄さんは宦官ではなく、王様付きの武官……なんですね?」

「そうだよ。騙していてすまなかった」

「それくらいは別にいいのだけれど……何故王様はあんな姿を? まさか王様のお母様の話も嘘だったの?」

 明は席に着いた途端、真っ先に浮上した疑問を静月にぶつけた。

 女装くらいは別にどうでもいい。いや、どうでもよくはないけど……その人の趣味嗜好と言われればそれまでだから。それにすごい似合っていたし。

 でも、もし真面目な話と受け取っていた話でさえ冗談と言われたら、さすがの明も騙されたと怒る権利はあると思う。

 皇帝が、泰連国の皇帝が女装。

 何がどうしてどんな経緯でそうなったのか。

 不思議に思うどころか全く脈絡が不明だ。

 苦笑しながらも、静月は明の疑問を順に紐解いていく。

「私の女装はなかなか見ごたえがあっただろう?」

「本当にね。王様だと思わなかった」

「江春に徹底指導されたからね。私の変装術は完璧だっただろう?」

 悪戯めいたように笑う静月に、明は呆れてものも言えなくなる。

 そんな明を前にして、静月は少しだけ暗い表情に変わった。

「わざわざ女装をして後宮にいたのは、私は表向き、後宮を嫌う体でいるから。後宮に来るときは自室にしか用がない皇帝として知られている。だから母の月命日の時にはああやって妃の装いをして、九嬪のえい充媛じゅうえんとして妃に紛れて芙蓉宮に行く。一部の女官や宦官の中には芙蓉宮の亡霊とも噂されているようだけど……化粧をして妃の装いをした私は、母にとてもよく似ているらしいよ」

 なるほど。つまり明が出会ったのはその芙蓉宮の亡霊らしい。

 静月とは初めて会うが、初めてではない。どうやって接すればいいのか、明は戸惑ってしまう。

 今まで友人のように接していた相手が女ですらなくて主上だったとか、滑稽にも程がある。なぜ気づかなかったのか。鈍いにも程がある。

「因みにこの事は江春と宇澄、それから三槐だけが知っているよ。江春は元々私付きの女官だったのを、蘇太師が私にきっと力を貸してくれる妃がいるからと引き抜いていったんだ」

 どうやら利超も一枚噛んでいたらしい。

 明は、悩ましげに額を抑える。

 これは明が思っていたよりも、本格的で、大掛かりな事のようで。

 静月が真面目な顔になる。

 本題はここから。

「昼にも話したけど、私は国を変えたい。特に後宮のことは早々に。古いしきたりで縛られた後宮の改革は、一世一代では難しい。後宮でなくとも、泰連国は古き遺産に縛られているから、そういった改革もしていかないとならない。そのためにも後宮の妃に一人、筆頭となる者が欲しい」

 悪いものを悪いものと認識して向き合うこと、それが大切なのだということは分かる。

 国の根幹から変えるというのだから、その規模も自然と大きくなるのだろう。

 でも明には分からない。

 静月の母の事があるとしても、今までそれが当然とされてきたものに歯向かうだけの力には足りない気がする。

「それは、王様の考え……でしょうか」

「そうだよ。信じられない?」

「……少し」

 明は素直に頷く。

「王様からは悲しみを感じても、怨みや怒りは感じられない。静かに、これはこういうものだからと受け入れているように見えます」

 静寂の中に立っているような静月に、焦がすような情熱は感じられない。

 何が、彼を動かしているのだろう。

 それが分からない。

「……蘇昭容は鋭いな。人をよく見ている」

 静月は自嘲するように笑うと、ゆったりとした動作で頬杖をついた。

「確かに私は恨んだり怒ったりはしていない。ただただ、この国の仕組みで犠牲になった母を哀れみ、悲しむだけだ。改革なんて、蘇太師に声をかけられるまで考えもしなかった。むしろ……」

 静月はそこで一度、言葉を区切る。

 明だけではなく、その後ろの江春にもちらりと視線を投げた。

「むしろ、時間をかけて改革をするのならば、国を滅ぼした方が良いくらいだとさえ思っている」

「主上!?」

 今まで黙って聞いていた江春が声をあげる。静月の本心が、初めて語られるのは彼女も同じだったようで。

 静月は艶のある笑みを浮かべる。女性の成りをしていないのに、妖しく、魅惑的。それはまるで月に棲むという妖のよう。

「何をそんなに驚いているの? 私の言葉一つで成す事は、後の皇帝の言葉一つでひっくり返される。国がある限り、ここで新たな試みをしようと、いずれかつての国を取り戻すと謳う者が現れてもおかしくないだろう?」

 改革を望む者がいれば、回帰を望む者もいる。

 負の遺産だろうとなんだろうと、全てを引っくるめて「国」を形作った者を取り戻そうという者は現れる。

 それならいっそ全てを無に帰して、一からやり直す道を。

 明は目を伏せた。

 静月の言葉には一理ある。

 中途に始まる夢物語ならばいっそ、全てを根本から破壊した方が確実に新しいものは創造される。

 その発想は目新しくて合理的にすら思えるけれど。

「……主上。国を滅ぼす、とは、どうやって」

 言葉にできない明の心の内を代弁するかのように、江春が疑問を呈する。

 明はまっすぐに静月に視線を合わせる。

 彼は頬杖をついたまま、草紙の頁を捲るような自然さで、事も無げに答えた。

「手っ取り早いのは皇帝の血を根絶やしにすることだね。皇帝でない者が改革をすればいい。私すらも殺して、国を一から建てるんだ」

「そ、そんなことをすれば民だけではなく、この土地そのものが混乱に陥ります!」

 長い歴史に終止符を打って混乱に陥るのは、民だけではない。

 国が崩壊すれば、それに乗じて色々なものが寄ってくる。

 南の海には国交を結んでいながらも、内乱で基盤を崩した伎国。

 数十年前に完全に閉鎖し、謎に包まれた東の海に浮かぶ春原国すのはらこく

 常に泰連国の稔りを狙う、巨族と呼ばれる北の騎馬民族。

 西に広がっていく大陸に存在する、大小様々の国。

 それらが黙っている保証はない。

 江春が慌てて反論するも、静月は淡々と言葉を吐き出す。

「どうでもいいよ。長いものに巻かれるのも、泰連国の支配下にある様々の民族が独立するのも、それぞれ一つの道だ。極論、回帰するための要素がなくなればいい。泰連国を滅ぼして、さらに皇帝の血が失われれば、泰連国たる所以も拠り所もなくなるからなおのこと」

 江春は青ざめ、宇澄は気まずそうに目を反らす。

 宇澄だけは静月の内心を知っていたのだろう。だから驚きもしないで、そのお喋りな口を引き結んで付き従っている。

 明は口を挟まないで静月の本心を聞いていた。

 国を滅ぼし、我が身さえも滅ぼしたい静月。

 それは正しく、彼の本心なのだろう。

 明はそんな静月に尋ねたい。

 そんなに本心がはっきりとしているなら、どうして……。

「どうして、貴方は今すぐにでも死なないの」

 吐き出された言葉は、明でさえも驚くくらい冷ややかな声。

 氷点下で燃える炎のように、冷たくも沸々と熱が生まれる。

「あなた、死にたいんでしょう。何もかもを捨てたいのでしょう。だからそんなことを言えるのよ。利超様の言うとおりに動いているのは、どうせ捨てる命と思ってるからなんでしょう」

 具体的に静月が今まで何をして来たのかは分からない。

 でもそんな本心を抱えていたのなら、いずれ彼の気分一つで利超の構想が崩壊する。

 それだけならまだいい。

 けれどその被害を、上に立つ者の被害を受けとめるのは、その周囲の人。

「あなたは言ったわ。被害を受けるのはいつだって周りの人。そんな本心を抱えたあなたが途中で投げ出して困るのは、利超様だけではなくて、泰連国の人たち皆。あなた一人が満足するだけ。きっと周りには、あなたにこそ、その先を見てもらいたいと願う人がいるわ」

 静月の本心の致命的な欠陥。

 それは不要な犠牲が確実にでること。

 それすらも「どうでもいい」と言い切ってしまうのは、自分がいないことが前提だから。自分には関わりないことと考えているから。

 思考の片隅に、自分を逃がそうとした一族の者達の影がよぎる。

 自分よりも幼い者もいた。自分よりも賢い者もいた。自分よりも強い者だって。

 その中で自分が逃がされたのは、兄を一人にしないため。必ず彼のもとに辿り着いて、寄り添うために。

 ……ぞっとした。

 もし兄を一人にしたならば、目の前にいる月の人のようになっていたのかもしれない。

 希望も未来も何もない。ただ惰性で生きるだけの、空っぽな人形に。

 明の中に、激しい感情が沸き上がる。氷を溶かすように沸々としていた感情が、堰を切ったかのように溢れだす。

「だからそんなこと、言わない。そんな、私の許すない。皆がいて、いない、私、こうやって、が、ここにいるので……っ」

 明は言葉を吐き出そうとして喉を手で押さえた。

 言葉が支離滅裂になる。泰連語の、文法が、単語が、遠ざかる。

 息を吸っているのか、吐いているのかも分からない。

 呼吸が乱れて、言葉が続かない。

「明様っ!」

 江春が血相を変えて、明の背中をさする。

「宇澄殿、寝台の側の卓子の上に巾着はありますか!? その中に薬がっ」

「え、ぇえ!? えっと、あっ! これっすか!?」

 江春の指示で宇澄が明の寝台側の、花の刺繍入りの巾着を手にする。

「明様、大丈夫です。落ち着いて、吸って、吐いて」

 江春の言葉が伝わってこない。

 過去の記憶が、静月に対する感情が、明の首を絞めている。

「彼女、どうしたんだ」

「発作だと思います! 後宮に入ってからはありませんでしたのに……!」

「発作?」

 驚いたように腰を浮かせている静月に、江春が半ば叫びながら答える。

 宇澄が江春に薬を手渡しながら聞き返す。

「明様が泰連にいらしてすぐの頃は、このような事がよく起きていたと伺っております。さ、明様。お薬です。お飲みください」

 江春が瓶に入った水薬を取り出して、飲ませようとする。

 口に含んでも飲み込めない。口の端から首筋を伝って流れていってしまう。

 嫌がるように体をよじって仰け反った明は、椅子に座っていられなくなる。椅子から崩れ落ちたのを、江春が支えた。

 明は自分の喉を抑える。薬が飲めない。呼吸をしようと喘ぐ。

 静月が目を見開いて、卓子に腰をぶつけながらも明のすぐそばに駆け寄った。茶器がひっくり返り、白湯が床に滴る。

「待って江春、腕を剥がすのが先だ。彼女、自分の首を、自分で絞めている」

「明様!」

 静月が明の細い首から、彼女の指を剥がそうとする。

 細い腕のどこにそんな力があるのかとばかりに明の指は首から離れないけれど、だんだんと力が弱まっていく。

「宇澄、そっちの腕、抑えて」

「は、はい!」

 宇澄に引き剥がした左腕が抑えられる。

 明の視線が虚ろに何処かをさ迷う。見えない何かを探すように、自身を脅かすものを探すように。その口が言葉を形作る。

『おとうさま、おかあさま、どうしてわたしなの』

 静月は明が伎国語で父と母を呼んだのを見逃さなかった。

 水薬を江春から受けとると、口に含む。苦味が口一杯に広がった。

 静月の左手で右腕を抑えられたまま、右手で明は顔を上向かせられる。

 躊躇いもなく、明の唇が奪われた。

 口の端から水薬が少し零れる。

 静月が水薬を口移しで明に含ませると、そのまま明が飲み込むまで口を塞いでしまう。

 水薬は容易に明の口内を満たした。けれど明は、呼吸を阻むものはないというのに飲み込まない。

 静月が舌を這わせて、喉を開かせる。ぞわぞわと、明の背筋を得体の知れないものが走った。

 唾液と水薬が交わる。

 開いた喉に、流れていく。

 こくん、と明は水薬を嚥下した。

「───、ん」

 静月は顔を離すと、水薬と交わった唾液が薄く糸を引いた。袖で明の口元を拭い、自身のも拭う。

 江春が引きつった顔で静月を見る。宇澄がおお……と直視していると、江春に頭を叩かれる。理不尽。

 少し蒸せたけれど、明の呼吸が落ち着いてきた。

 江春は明に白湯を飲ませる。

「ゆっくりと、ゆっくりと、飲んでくださいね」

 明は差し出された白湯を素直に飲む。発作が起きたことは理解していた。その引き金となったことも。

 心臓が早鐘を打つ。

 嫌な汗が吹き出る。

 頭がぼんやりする。

 耳鳴りがする。

 でも、そんなことよりも。

「………………って」

 かすれた声で明は囁く。

 静月がきょとんと目を瞬いた。

 きっと明が目をつり上げて静月を睨むと、はっきりとした言葉で叫ぶ。

「出て行って! 王様なんて大嫌い!!」

 明の叫びは貌佳宮に木霊した。

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