第8話 雨の間の語らい

 雨雲が一時的になりを潜め、束の間の晴天が広がった。

 なんとも清々しい一日になりそうだと官吏たちが仕事に精を出すなか、くぐもった老人の笑い声が執務室に静かに響き渡る。

「ふ、ふふ……まさか、天子たる主上がフラれる日が来ようとは……ふ、ふくく……」

「かなりの語弊があるようだね……貴方が蘇昭容なら力を貸してくれると言ったから、私は会ったんだけれど?」

 黙々と手元の書簡を仕分けしながら、時折印を押していく。これは駄目、これは許可、これは保留。

 仕事をしながらも、静月は呼びだした覚えもないのにふらりとやって来た蘇太師に毒を吐く。

「蘇太師、どうやら蘇昭容は訳有りのように見えた。何を企んでいる? 人の弱みを握って取り込むなんて、悪趣味だと思うよ」

「企むなんて畏れ多いこと」

 蘇太師はにこやかに笑うが、静月が何も信じていない顔をする。初夏だというのに執務室の温度が下がったような気がして、仕事をしている官吏たちが身震いした。

 昨夜、明が発作を起こしたときに呟いたのは泰連語ではなく伎国語だった。蘇昭容と出会った頃の彼女の語彙力を思い出して、語学がほんの少し覚束なかった理由が分かった気がした。

 蘇太師の孫娘として後宮入りした出自不明の娘。

 蘇昭容と蘇太師の間に血縁関係が無いのは確実だ。

 静月がちらりと蘇太師を見れば、老子は手入れされた髭を撫で付けて飄々とうそぶく。

「家がないと言うから衣食住付きの物件を紹介したまで」

「物件て……」

 後宮をただの貸家だと思っていないかこの爺。

 静月は内心をそのまま口にしようとして、ぐっと堪える。さすがに官吏の前で言うのは印象が悪い。

 こちらの葛藤など露知らず、蘇太師は話を戻した。

「それに申し上げた通り、彼女は必ずや主上のお力になりましょうぞ。あの娘は賢い。いずれ大局を見据えて、この国の益になる。主上が上部だけを取り繕っていたとしても、彼女がそれを見過ごしはしないでしょうなぁ」

「やる事はやっている。蘇太師、何が不満なんだ」

「全て。怠惰にかまけて長いものに巻かれる ことが、許される立場とでも?」

 室内の温度がぐっと冷え込んだ気がした。

 氷漬けになるのではと官吏たちは内心ひやひやしながら、事の成り行きを見守る。

 官吏達にとってはとりあえず皇帝が目の前の仕事をしてくれれば問題ない。でも、蘇太師の言うことにも一理あるのだ。

 この皇帝は確かに仕事をこなしてくれる。けれどそれは淡々としていて、事務的。宮中儀礼などは本当に必要なことだけを執り行うぐらいで、規模の小さいものだったり、宴のような催しだったりは、玉座を空けて参加をしない。

 人柄というものが掴めなく、頼りなく見えるのを常々感じていた。その頼りなさは、今、蘇太師が言ったことに直に繋がっている。

「そうそう、聞いたところでは主上が蘇昭容に戯けたことを仰ったために愛想をつかされたとか。女一人落とせず、官吏の上に立つなどそれでも皇帝なのか……気合いが足りませんな、気合いが」

「だから何を……」

 要領の得ない蘇太師の物言い。静月は適当に流したいが、この狸は執務室にいる官吏に聞こえるように話しているので無下にはできない。

 聞くだけ聞いていれば、好き放題言われるから、表情は普段通りを装っていても、よく見れば静月の額には青筋が浮きだっている。

 仕事をする手が止まりがちになる。仕事への集中力が切れ始めた。普段ならもっとさばいているのに、蘇太師と話していた分だけ作業効率が落ちる。

 完全に手が止まると、蘇太師はにやにやと目元を細めた。

「ふふふ……少し散歩を致しますか。せっかく老骨に鞭打って参内したのだし、世間話の一つや二つ、聞いても損はありますまい。それに……」

 ちらりと蘇太師は執務室の隅で固まって仕事をしている官吏達を見る。

「ここで話を続けたら、彼らの仕事の邪魔になるだろうしなぁ」

 静月もそちらを見れば、彼らは慌てて顔をそらしたり、仕事をしだしたりと不自然な行動をとった。確かにほとんど作業が進んでいないように見える。

 静月は一つため息をつくと、金印を箱に入れ鍵をかけ、厳重にしまう。

 書類には置き石をして、風で飛ばされないようにした。

「少し出てくる。各自、適度な休息を取りながら仕事を進めて。宇澄、行くよ」

「あ、はい」

 執務室を出るとき、部屋の外で番をしていた宇澄に声をかける。宇澄の他にも武官が一人いるので、執務室の警護は彼一人でも十分だ。

 宇澄が静月の後ろに着く。蘇太師は先導をかって歩きだした。

「さて、少し歩きますかな?」

 散歩したところで静月の根本の考えは変わらないだろうが、気分転換にはなるだろう。




 執務室のすぐ側の庭はとびきり景観が良いが、そこでは人の目も多いからと、外朝のどこか人気のいない場所を目指して歩いていく。

 滅多に人の寄り付かない七輪槐塔しちりんえんじゅとうのすぐ側の庭に位置するちんにまで来ると、蘇太師と静月はそこで足を休めることにした。宇澄は亭から一歩離れたところに控える。

「こんなところまで誘い出して、何を話すつもり?」

「まぁまぁ。ここは人が寄り付かん。幸い、今日は茶飲み仲間の盧の奴は羽林軍うりんぐんの訓練に行っとるし、李の奴は腰痛で来ておらぬ。内緒話をするのならここが一番もってこいだ」

「他の三槐を茶飲み仲間呼ばわりかぁ」

「老い先短いと、やれることにも限りがありますからな。長い付き合い、仕事の付き合いだけにも厭きてしまう」

 静月は呆れた。

 というか、出仕と称して三槐は茶を飲んでいるだけだと堂々と言うその神経、さすがの古狸と言ったところ。なかなか神経が図太いのではと思う。

 天高くそびえ立つ槐の樹を大黒柱に、七つの屋根を重ねた塔は数々の伝説を持つ。

 七輪槐塔はかなり特殊な場所。扉も窓も無いこの建物は、建国とともに泰連国を見渡してきた。

 どうしてここに人が寄り付かないかといえば、ここが別名「槐の裁」と呼ばれているから。初代三槐がこの塔の前で幼き皇帝に誓いを立てて裁定をした事に由来し、歴代の三槐もそのすぐそばに建てられた亭で裁定をこなす。皇帝に次いで敬うべき三槐がいるから、普通の官吏は寄り付かない。

 そんな場所で今代の三槐が茶を飲むだけの仕事をして禄を貰っていると聞いたら、禄の管理をしている戸部こぶから強い批判が上がりそうだ。

「それで、話は」

「そんなせっかちですと、せっかくのお母上譲りのかんばせが台無しですぞ」

「誰のせいだと思ってる、誰の」

 このままじゃ埒が明かない。

 さっさと話をするならして欲しい。こっちは溜まっている政務をしなければならないのだから、こんなところで時間を無駄にする訳にはいかないのだ。

「私は貴方の言う通り政務をしてやっている。邪魔をしに来ただけなら、私はこれから一切の政務をやめるけれど」

「まーたそんな事言って……主上は自分の言葉に責任を持たれた方がよろしい。昔も、今も、これからも」

 湿った風が肌を撫で付ける。

 水を含んだ風が髪にまとわりついて、鬱陶しそうに静月は髪を払った。

「舞台から降りればどうせ私の言葉など無かったことにされるんだろう? それなら何を言っても許されると思うけどね」

「ただの官吏なら無かったことにするだろうがな? 彼らは皇帝が理想からかけ離れれば自身の中に新たな皇帝を見いだす。しかし蘇昭容の前ではそういった言葉は慎んだ方がよろしいかと」

「蘇昭容?」

 静月は目を瞬く。

 ここで蘇昭容の名が出てくるとは思っていなかった。

 蘇太師は神妙な顔をして頷く。

「もしかしなくともお気づきやもしれんが、蘇昭容は伎国から渡ってきた貴族の娘だ。姓は珀、名は明。伎の珀氏といえば、何度も伎使ぎしや留学生として名が見えるから、主上も存じているのでは? 身元の照会もしたから、間違いはない」

「……伎国か」

 そうだ、と利超は髭を撫で付ける。

 蘇昭容の生い立ちがなんとなく予想ができて、静月は眉をひそめた。

「少し前、伎国で内乱が起きたと知らせが入ったね」

「その折に逃げ出した……いや、一族総出で逃がしたという娘よ。国が傾き、その影響を直に受けたという哀れな姫君」

 陽が陰る。

 雲が流れて、束の間の晴れ間が隠されてしまう。

 辺りは先行きの見えぬ薄暗さに包まれた。

 蘇太師はゆっくりと話を続ける。

「彼女は国というものが崩壊していく傍らで、愛する者達を見殺しにしなくてはならなくなった。それでもたった一人、預かり知らぬ所に残った縁者のために、はるばる海を渡ってきたのだ。そんな健気な娘を突き放すなんて、主上も惨いことを……」

 およよと袖で顔を隠しながら大袈裟に言ってはいるが、蘇太師が嘘をついているようには見えない。静月は思わず目をそらしてしまった。

 昨夜、蘇昭容に向かって放った言葉を思い出す。

 ───国を滅ぼした方が良いくらいだとさえ思っている。

 あの言葉。

 国を逃げ出さねばならないほどに追い詰められた蘇昭容にとって、一番聞きたくない言葉だったのかもしれない。

 でも、と静月は反論する。

「まさか彼女がそんな風にして伎国から来たなんて思わないだろう? 不可抗力だとは思わないか?」

「確かに、主上の本心を見抜けなかった私が甘かった。だが、まさか主上の腹の内がそんなだとは思わなかったからの……私からの差し金だと知れば突き返すくらいはしようものかとは思ったが……」

 ちら、と蘇太師は静月に視線を投げやった。

「突き返すどころか、あの娘の古傷を抉って泣かせるとまでは予想外だったわい」

 さすがの静月もむっとする。

 確かに自分の配慮が足りなかったとは思うけれど、そんな言われ方をする謂れはない。

「そもそも、私は皇帝位などには興味がなかったのを、貴方が引き留めたんだ。お膳立てするのは構わないけれど、私の意思ではないのは明白じゃないか」

「だが貴方が選んだ道でもある。私はこういう道があると示しただけだ。それこそ、先皇帝の願った通りに」

 蘇利超は先皇帝の最大の敵で、最大の理解者。

 いつ、誰が言ったのかは分からないが、蘇利超という男を語るときに必ず口にされる評価。

 先皇帝が健在だった頃、何度も衝突しながらも、その手腕は忠誠に値するものだったと聞く。

 今なお彼が動くのは、先皇帝の遺志ということ。

 知ってはいたが、こうやって面と向かって言われると腹が立つのは否めない。

 目の前にいる老体は、静月に忠誠など誓ってはいない。己の最大の理解者など本当はいないのだと、この身は先皇帝の遺志を全うするための人形なのだと錯覚してしまう。

 死した父は母を守らなかった。だから父が為し得なかったことをすれば、この虚しさは満たされると思ったのに。

 人望厚く、数々の政治的改革を成し遂げた父が死した後、なおその遺志を全うしようとした蘇太師でさえ変えられなかった後宮の悪習。それを変えるなど、静月には到底できないのかもしれない。

 雲が次第に厚くなる。

 遠くから流れてきて、雲架うんかの空でわだかまる。

 ああ、今日も雨が降るのかと、静月は亭の外を見やった。

「……まぁ、蘇昭容はきっと主上のお力になりますぞ。仲直りするなら早めにすることですな」

 静月が黙ってしまい、ぽつりと蘇太師は呟いた。

 静月は彼から目をそらしたまま返す。

「私ではなく、貴方と……父上の遺志にとって、だろう? 私には関係ない」

「いやいや、蘇昭容は泰連国の貴族の娘より素直で愛らしい。主上の妃に間違いはないのですから、自信を持ちなされ。まぁ、もし私が後五十は若かったら口説いてみせたでしょうなぁ」

「助平爺」

「これは心外」

 明らかに引いたような顔になる静月に、蘇太師はわざとらしくおどけてみせた。

「そうそう、蘇昭容の発作ですがな。その責任も取れないのはさすがに情けないとは思いませぬか」

 思い出したように付け加えると、蘇太師は立ち上がった。老体などと嘯きながらも、その姿勢は正されていて僅かの隙もない。

「発作のことだって、知っていたらもう少し気を遣っていたよ」

「今さら言っても後の祭りというもの」

 静月はため息混じりに蘇太師に反論した。どうせ適当に流されるだろうとは思ったが、言わないで悶々とするよりは良い。

 蘇太師が亭から出る。

 静月も腰をあげる。

「雨が降りそうだのう。せっかくの散歩もここまでか」

「待て、話は終わってな……」

「主上、最後に一つだけ」

 去り際、静月の言葉を遮って、蘇太師が一度振り返る。

「蘇昭容は国が揺らぐ時の痛みを知る娘。泰連にとって益を生むとこちらの世界へ引きずり込んだのは確かにこの私だ。だがな、彼女が一人の娘として抱えるモノの本質はそこではない。ゆめ、その扱いをお間違いなきよう……」

 漠然とした言葉を投げて、自由な老人は去っていく。

 静月は肩の力を抜いた。

 即位してしばらく経つが、未だに蘇太師と対峙する時は緊張する。腹の内が読めないことが多く、言葉を交わせば交わすほど、丸め込まれてしまうから。

 静月も亭から出ると、ふと控えていた宇澄に声をかける。

「宇澄、君も確か蘇太師が引き抜いてきたんだったよね」

「えと、はい。それがどうかしました?」

「君の忠誠って、今どこにある?」

 宇澄は大きく目を見開く。

 唐突な質問に、言葉がつまった。

 即答で答えてくれるのだと期待していたが……一瞬、間が空いてしまっただけで、気を逃してしまったのか、宇澄は答えられなくなる。

 戸惑ったように視線をあちこちにやる宇澄に、静月は微笑んだ。

「冗談だよ。こんな人形に忠誠を誓われても困る」

 自分は人形。

 先皇帝の遺志を全うするために据えられた形だけの器。

 自分で言うとなんとも虚しい響きか。

 利害が一致したから蘇太師に賛同した。そうして据えられたこの地位には静月のために供えられるものは、何もなく。

 きっと、蘇昭容だってその一部。

 月は常に満天の星空に囲まれてはいても、隣り合うその距離は手を伸ばしてもほど遠い。

 期待するだけ無駄ならば、期待しなければいい。最初から見ないふりをすればいい。

 そうしたいのに、苦しそうに自身の首を締め付ける蘇昭容の姿が頭の片隅から離れない。

『どうして貴方は死なないの?』

 彼女は死にたがっているのだろうか。

 死にたいのに死ねない理由があるから、彼女は生きているだけ。

 それは、惰性で生きる静月には理解できない痛みと苦しみを孕んでいるのだろう。

 幼さの残る華奢で細い体は、抱きすくめただけで折れてしまいそう。そんな脆い体で、海を越えて旅をしてきた。

 その果てで辿り着いた国がここだっただけの話。

「……見舞いくらいはしに行こうか」

 言葉の撤回はしない。別に彼女のために自分のあり方変えようとも思わないから。

 ただ、月影として過ごした時間に、楽しそうに笑いかけてくれたあの笑顔だけは自分のもの。

 あの一瞬は、間違いなく静月に向けられていたものだったから。

 その分だけは、彼女に心を許してあげられる気がする。

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