第9話 天蓋の内に差し込むもの
しとしとと雨は降り続ける。
昨日の夕方に降りだした雨は真夜中に土砂降りになった。翌朝になっても雨が芍薬の葉を叩く音は止む気配を見せなかった。
そろそろ昼になるという頃。江春が卓子に並べられた、手のつけられていない朝餉を片付ける音が明の寝室に寂しく響く。
「占術師によればしばらく雨が続くようですよ。暖かくなってきましたが、少し冷え込むでしょうね」
「……」
「窓、開けますよ。雨ですが換気いたしませんと、気がこもって悪い気に転じてしまいますから」
「……」
「……明様、いい加減に寝台から出てきてくださいまし。ずっと寝台の上ではお体に毒ですよ」
江春が片付けの手を止めて窓を開きながら言うけれど、明は天蓋を閉じて引きこもったまま。
昨日は食事の席にすらつかないで一日中寝台に寝たきりだった。起きている気配はしていたが、何を言っても「ほっといて」の一点張り。
こういう時は一人にするのが最善だと、明の好きなおやつと水出し茶の用意だけして退出した。昨日の晩に様子を見に来たとき、そちらには手をつけていたようなので飲まず食わずと言うわけではないが、食事はきちんと摂ってもらいたい。
朝、駄目元で粥の用意をしてみたが、やっぱり手をつけた様子は無かった。江春は困ったように頬へ手をやる。
「明様、お昼はいかがされますか」
「いらない」
「では何か食べたいものは」
「……特には」
「もう……ではまた適当に見繕っておきますので、気が向いたら召し上がってくださいね」
江春はすっかり冷めてしまった朝餉を下げて、厨房に何かつまめるものを頼むべく一旦部屋を出る。
困ってはいるが、まだ二日目なのでさほど心配はしていない。これが五日、十日と続けばさすがに問題があるけれど。
蘇太師からも「発作の後、三日は蘇昭容の好きにさせてやってくれ。三日経てば元に戻るから」と言われているし、もう後一日は様子見だ。
江春が貌佳宮の厨に向かっている途中、若い女官が一人、ぱたぱたと足音を立てて後ろから追い付く。
江春は振り返って顔をしかめた。
「こら、はしたない」
「も、申し訳ありません。あの、それよりもお耳に入れたいことが」
「何です」
江春は眉を潜める。
こういう時に限って嬉しくない報告なのではと考えてしまうのは女の勘。ついつい身構えてしまう。
女官はそっと袖で口元を隠しながら、江春に顔を寄せる。江春もまた、女官に耳を傾けた。
「それが……」
声を潜める女官から報告を受けとると、江春は何も言わずに眉間の皺をほぐす。
「全く間の悪い……」
はぁ、とため息をこぼすが、ふと報告の内容を反芻する。
「ちょっと待って、お通ししたの?」
「お止めすること叶わず……」
今の明はかなり落ち込んでいる状態だ。そんな彼女の元に、事の元凶が現れては……。
江春は踵を返すと、明の部屋へと急ぎ戻る。
───食事のことなんて後、今は明様の精神衛生状態を優先です……!
ごろんと寝返りを一つうつ。
江春が窓を開けて出ていった後、明は天蓋を閉じた寝台の上で一人引きこもっていた。
引きこもる理由なんて特にない。
発作だって、薬を飲んですぐに落ち着いた。
いつもすぐ側に置いているあの水薬はただの睡眠薬。夢も見ないでぼんやりと眠れば、起きていたときのことは朧気になる。
ぐずぐずと、こうやって内に引きこもる必要は、本当はないのだ。
外に出たくないのは、周りを心配させてしまったことが恥ずかしいから。
我を忘れて取り乱すなんて、恥ずかしい。
大丈夫ですかと声をかけられるのも気恥ずかしくて、明はこうやって閉じ籠る。
それが余計に心配させているなんて明は気づいていないけれど。
また一つごろんと寝返りをうった。
この寝台は一人で使うには広すぎるけれど、のびのびできるのは良い。さすがは後宮というべきか。お金がかかっている。
明はうつ伏せから肘で体を支えて上体を起こす。寝台に持ち込んだ草紙の一つを開いた。
外に出るのも嫌だけれど、内に引きこもり続けるのも暇すぎる。
明は退屈を紛らわせるために、今まで集めてもらった草紙を読み耽る。随分と言葉が上達したから、最初の頃に読んだ本を今読むと全く別の面白さや解釈になって楽しかった。
ぱら……と草紙をめくる。
一度追ったはずの文字は、全く新しい文字列にすら見える。この国に慣れてきた証拠なのかもしれない。
草紙の文字をゆっくりと追って、物語の世界を辿っていると、何かが軋む音がした。
これは
江春が戻ってきたのだろうか。それにしては足音が重たいような。
明の部屋は二つに分かれている。居間と寝室。扉があるのは居間だけで、寝室と居間は一枚の布で仕切られている。
寝室の、さらに天蓋を閉じた寝台の上にいる明からは誰が入ってきたかは分からない。
耳をすませてみる。足音が二つ。遠いから、まだ居間の方。
明はそろりと天蓋の隙間から様子を窺う。二つということは、江春以外にも誰かいるのだろうか。
「いらっしゃいませんねー」
「おかしいなぁ。女官は部屋だと言っていたけれど……」
明は慌てて隙間を閉じる。
姿は見えないけど、居間にいるのは声からして静月と宇澄だ。今、一番会いたくない相手。
どうしよう、と明は掛布を頭から被ってとりあえず息を潜ませる。このまま居留守で通せないかしら……!
「こっちかな?」
「あー! 主上、女性の寝室に入るなんて江春殿にばれたら大目玉ですよ」
「いるかどうかなんてすぐに分かる」
居間と寝室を隔てる幕が擦れる音がした。
確実に、入ってきた。
(いやいやいや。普通に嫁入り前の女子の寝室に無許可で踏み込むなんて常識はずれも良いところよ……!)
後宮入りを果たしているので嫁入り前の娘ではないのだが、それを指摘する者はいない。
明は叫びたくなるのをぐっと堪え、寝台の上で息を潜める。
派手な動きをしなければ、もしいると知られても寝ているのかと思われるかもしれない。
掛布を被ったまま、二人の会話に耳をそば立てる。
「こっちにもいないか」
「あ、いや。寝台の方に人の気配があります。寝てるんじゃないんすか?」
人の気配って何ですか。
貴方は武官の面を被った気功の達人ですか。
宇澄の予想外の能力に明の顔はひきつる。微動だにしないで息を潜めていたのに、気づかれるとか。さすが武官というべきなのか、それとも宇澄が特殊なのか。
江春に小言を言われている印象が強かったから、あんまり大したことは無いんじゃないかとすら思っていたくらいだ。よくよく考えれば主上付きの武官。能ある鷹は爪を隠すとはよく言ったもの。
「出直しますか?」
「うーん……でもせっかく来たのだから、少しくらい顔を見ても」
鼓動が跳ねる。
これは非常によろしくない。昨日今日と寝台に引きこもって湯浴みもしていない。普段だったら寝顔を見られるくらいなら耐えられるけれど、今の状態を見られるのは女子として耐えがたい。
来ないでー! と内心祈りつつ、ぎゅっと目を閉じる。
一歩、二歩……段々と足音が近づく。
どうしてこういう時に江春はいないのか。
というか、この間とは打って変わって宮が静か。前は主上が来ただけで大騒ぎだったのに。
静月がこっそりと忍び込んだのか、はたまた人払いを命じたのか。後者だったら江春の助けは期待できないかも……
「うわっ」
ぐるぐると考えていると、静月の声と同時、ブチッと何かが千切れる音がして。
天蓋を突き破って、静月が明の寝台に倒れ込んだ。
「うきゃぁっ!」
ばふっと静月が思い切り明の腹めがけて倒れこんでくるものだから、思わず明は叫んでしまった。細い明の体が、見た目より重い静月の重さに悲鳴をあげる。
「明様!?」
そこに運悪く江春が駆け込んできて。
そこに出来上がるは布二枚を隔てて明を押し倒した静月の図。
当然、どうなるかと言えば……
「───主上」
「ぐ……な、なに」
「些末なことをお尋ねいたしますが」
静月が慌てて身を起こしつつそちらを向く。江春が微笑みながら、ゆったりと、ゆったりと、歩みを進める。
進路方向にいた宇澄はすすす……と身の危険を感じて早々に道を譲る。触らぬ神に祟りなし。
「何をしていらっしゃるのでしょうか」
「え、えーと、これはその……足を滑らしてだね……」
お茶を濁す静月に、江春の眦がつり上がる。
「私に話を通すことなく、寝ている病人の寝床に忍び込むなど主上であっても言語道断にございます! 宇澄様もなぜ御止めしなかったのか!」
「うっ……」
「え、俺もっ?」
江春が叱りつけると、静月は視線をあさっての方へとそらし、宇澄が自分にも矛先が向いて剽軽な声を出せばさらに睨まれる。
明はばしばしと自分の上にいる静月の腕を叩く。
「……王様、退いて欲しいんですけど」
「あ、いや、すまん」
静月は体勢を変えて、寝台に腰かけた。
明が上体を起こすと、江春が刺々しく静月に尋ねる。
「全く、どうしてこんな状況になってしまったのですか。他の女官が見ていたら瞬く間に広がってしまいますよ」
「何かに躓いたんだ。たぶんそれじゃないか?」
静月が指を差す。
床には幾つかの草紙が散らばっていた。昨日今日、明が読んでいた草紙達。寝台にあったはずのそれは、寝返りの時にでも床に落としてしまったのか。
「明様……あれほど寝台に草紙を持ち込まぬように申し上げたのに……」
「だ、だって、何もしないのも落ち着かなくって」
これは江春のお叱りが自分にも降ってくる……!
明はそう思って覚悟を持って待つけれど、江春の叱る気配がない。
江春は明の前までやって来ると、そっと腰を下ろす。寝台で上体を起こしている明と視線を合わせた。
「ずっと開かずの天蓋でしたからご心配しておりました。ご気分はいかがですか」
「……うん、大丈夫よ。心配かけてごめんなさい」
明が観念したように微笑む。
こんなに江春が自分のことを心配してくれる。毎日毎日、飽きずに自分の身のお世話をして、お小言を言うのも親身になってくれているから。
江春の表情から、心から心配していた事が伝わってくる。
そう思ったら、これ以上心配はかけられないと思ってしまった。
江春は安堵の表情を見せると、「それで?」と静月に視線を移す。
「いつまでいらっしゃるのですか」
「えっ」
「蘇昭容様はこれから身支度を致しますので、何かご用でしたらしばし別室にてお待ち下さい」
「いや、別に話も大したことはないし、私はこのままでも……」
「私が嫌です」
さすがに明も年頃の女の子なので、人に合うなら身支度を整えたい。
女性二人に睨まれて、観念したように静月は諸手を上げた。
「分かった、分かった。それなら夕餉を共にしよう。私はまだ政務があるから」
「……江春、いい?」
「ええ、勿論ですとも。仮にも主上のお誘いですから断ってはなりませんよ」
「なんだか私が悪者のように聞こえるんだけど……」
釈然としないと静月は呟く。
それから寝台から降りると、明の頭にぽんっと手を置いた。
「使いをやるから、それまでに支度を整えておくように。宇澄、戻るよ」
寝癖でぼさぼさの髪を撫でると、静月は宇澄を引き連れて去っていく。江春がお見送りして参りますと言って、それに続いた。
一人になった明はぐぐっと一つ伸びをすると、くたりと脱力する。
ちょっぴり欲を言えば、もう少し怠惰なお休みを満喫したかった。
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