第4話 色持ち妃と月の影

 明のお妃様修行が始まってしばらく。

 貌佳宮の庭には芍薬が満開に咲くようになった。

 明が相変わらず重たい装飾を嫌がるので、貌佳宮の庭に咲くこの芍薬を摘み取っては、江春によって髪に飾られる毎日が続いていた。

 今日の芍薬は、限りなく白に近い薄紅。ふわふわと耳元がくすぐったい。

 後宮を散策するようになって気づいた事だが、この後宮には様々な花が植えられている。後宮の別名は百花苑ひゃっかえんなのだとお妃様修行で学んだことを思い出した。

 すっかり日課になった後宮散策。今日はどこへ行こうかと気の向くままに歩いていると、会いたくなかった人達に鉢合わせてしまった。

「あーら、誰かと思ったら蘇昭容じゃない」

「うわ……」

 睡蓮が咲き初める頃だと思ったのがいけなかったのか、蓮の池の岸にある亭に来てみたら先客がいた。

 豊満な胸元を大きく開いた梔子くちなし色の衣を纏い、淡黄蘗うすきはだ色の紗の衣を羽織る盧淑妃と、孔雀緑くじゃくりょくを基調とした衣を幾重にも重ね、色の名にちなんだ鳥の羽を模した簪を差す李徳妃。

 これが二人の持っている色かぁと現実逃避をしたくなるほどに、会いたくなかった二人。

 遠くから見かけることはあったが、こうして言葉を交わすのは約一ヶ月ぶり。

 ばっちりと盧淑妃と目が合ってしまい露骨に顔をひきつらせると、盧淑妃は口の端を嬉しそうに吊り上げた。李徳妃は不快そうな顔でこちらを見る。

 石で造られた卓子の上には女官が今しがた淹れたばかりの茶器と、美味しそうな茶菓子が並んでいる。どうやら二人でお茶をしていたようだ。

 どういう状況なのか一目見て察した明は、一呼吸置いて回れ右をした。早々に立ち去った方がいい。

 何も見なかったことにして来た道を戻ろうとしたが、席を立った盧淑妃に腕を掴まれる。

 姫君らしさもなく、にやりと不敵に笑う盧淑妃。

 明は嫌な予感がした。

「良いところに来たじゃないの、蘇昭容。ちょうど熱いお茶が飲みたかったところなのよね~。あんた、ちょっと替えを持ってきてくれないかしら?」

「なんで私が……女官がいるでしょうに」

 思わずぼそりと呟いてしまった。

 それを耳聡く李徳妃が聞きとってしまう。

「四夫人のわたくし達にそんな口を聞いて言いと思っているのですか? これで二度目ですよ」

 位を笠に着た李徳妃が腰をあげ、女官から白泥の茶壺を取り上げる。裳の裾や、緑の羽細工を揺らしながら、彼女は明に近づいた。

「頭の悪い貴女でも、白湯を用意するだけなら出来るでしょう?」

 そう言いながら、李徳妃は茶壺を傾ける。

 とくとくと、湯が注がれる。

 明の、腕に。

『熱いっ!!』

 思わず伎語が飛び出した。叫んでからぐっと唇を噛みしめて、飛び出そうになる悲鳴を必死に飲み込む。

 明はもがいて逃れようとするけれど、盧淑妃がそれを許さない。しっかりと明の腕を握って離さない。

 注がれた湯は、湯気が上るほどに熱かった。熱を逃がさないように作られている茶壺の湯は、人肌を優に越えていて。

 羽織っていた紗の衣が熱い湯を吸い、ぴったりと腕に張り付く。明は顔を歪ませた。女官に助けを求めようとしたが、彼女は顔を伏せて何も見ない構えをとっている。

 誰にも助けは求められない。

 明は目を瞑って、ただひたすら熱さと痛みを耐える。

 李徳妃がくすくすと笑って茶壺をもう片方の明の手に握らせようとする。

 明は拳を握って開こうとしない。

 李徳妃はイラついたのか、明を責め立てる。

「握りなさい」

「嫌……!」

「逆らえる立場なのか、もう一度考えなさいな」

 盧淑妃が、たっぷりとお湯を含んだ衣の上から明の腕を爪紅で美しく彩られた指でなぞる。

 火傷を、爪で引っ掻くように。

「───っ!」

 ひりひりと痛む腕に、突っ張るような痛みが生じる。

 痛みで一瞬緩んだ明の拳を開かせて、李徳妃が明に白泥の茶壺を握らせる。

「ふふ。これ、伎国渡りの高価なものだから壊さないでくださいね」

「あーあー、ご自慢の朱鷺ときが濡れちゃったわねぇ。ついでに着替えてらっしゃいな。女官の衣にでも、ね」

 明への嫌がらせに満足したようで、盧淑妃は明の腕を放す。

 ふらりと痛みと怒りで視界が揺らいだが、明は何とか堪えると気丈にも二人を睨み付けた。

「最低」

 震える声で吐き捨てるが、李徳妃は気にも止めない。

「口の聞き方に気を付けなさいと言ったでしょう、蘇昭容。それとも今度は池に突き落とされたいの? さっさと白湯を持ってきてくださいまし」

 李徳妃は団扇で顔を隠すが、狐が獲物を仕留めた時の喜びが声から滲み出てくるかのようだ。盧淑妃は笑うのを隠すつもりはないようで、ホホホと笑っている。女官は何も見なかった。

 惨めな気持ちになって、明は身を翻した。




 じくじくと熱湯をかけられた腕が痛む。

 どうしてこういう時に限って一人なんだろう。

 江春はちょっとした用事があると言っていたから、一人で散歩をしようと思ったのが悪かった。

 供をつけましょうと言ってくれたのに、いらないと断った自分が悪かった。

 蓮の咲き初めだからと蓮の池に来たのが悪かった。

 あれほど念を押されていたのに、彼女達の機嫌を損ねたのが悪かった。

 江春ごめんなさい、お妃様修行は無駄だった。

 とても悲しい。

 とても悔しい。

 それなのに、涙は出ない。

 だって、枯れてしまったから。

 これくらいのこと、『あの時』に比べれば───

 明はがむしゃらに走っていたのを、息がつまって足を止める。ぺたんとそのまま膝から崩れ落ちる。

 こつんと手にあった白泥の茶壺が地面に当たる。

 白泥の茶壺。

 伎国渡りの茶壺。

 明のいた屋敷にも、似たような茶壺があった気がする。それはとても美しいもので、腕の良い職人から贈り物として頂いたのだと父が嬉しそうに語っていたのを思い出す。

 でも、今はそれと同時に、妃の皮を被った鬼が頭の片隅にちらつく。

 それが嫌で、明は茶壺を投げた。

 割れてもいい。伎国の物だけれど、自分の物ではないから。

 ごろんごろんと茶壺は地面を転がる。割れなかったのを残念に思ってその茶壺の行く先をぼんやりと見守っていると、誰かの足元で茶壺は止まった。

 のろのろと視線を上げる。

 それはまるで月のようだった。

 すらりとした体つき。幾重にも衣を重ねているように見えるのに無駄な肉のない体だと分かるくらいに細い。それでいて華奢で頼りない印象を抱かせない。

 瞳は水面のような静けさ、寂しさを称えている。

 唇は薄く、それが見る人に泡沫の夢のような儚い印象を与えた。

 ひんやりとした冷たい雰囲気だけれど、それが不思議と心地好い。

 どこの妃だろうか。

 中性的な面差しの彼女は女官ではなく、妃の着るような豪奢な衣装に身を包んでいる。たぶん、まだ見ぬ三人の妃なのだろうが……彼女もまた、明と同じく供を連れてはいなかった。

 彼女は足元に転がってきた茶壺を手に取ると、こちらに気づいた。

 明に歩み寄ると、裳に土がつくのも構わず膝を折る。月下美人のような見た目の割には、動きがかなりさばさばとしていた。

 じっと明を見つめてくる。

 たっぷり三拍ほど見つめられた明が、困ったように笑えば、ようやく彼女は口を開いた。

「君は、蘇昭容か」

「……はい」

 かけられた声は明が思っている以上に低い声だった。

 女性にしては低過ぎる気がする声も、静かながらもしっかりと自己のある響きで好ましい。一瞬どこかで聞いたことのある声に思ったけれど、どこで聞いたのかまでは思い出せなかった。

 明は心臓がとくとくといつもより少し早く脈を打っている気がした。こんなに美しい人に見つめられては、女性も男性も魅了されるに決まっている。思い出せないのは美しい人の術中にはまってしまったせいかもしれない。

 月のように美しいその人に見とれていると、彼女はひたと明に視線を合わせた。

「こんなところで何をしているの」

 問い詰めるわけでも、叱責するわけでもなく、ただ不思議に思ったことをそのまま口にしただけの言葉。

 言葉をかけられて我に返った明はその言葉に答えようとするけれど、答えが出てこない。

 今の明にとってこれほど困る言葉はないのだ。

「何って……」

 馬鹿正直に「妃にいじめられました」なんて言えるわけがない。

 明は視線を明後日の方へと向けた。

 何か言い訳を、何か言い訳を……

「……ちょっと運動を?」

「茶壺を持って?」

「そうなの、最近流行りの運動方法なんです」

 あははー、ととぼけてみせる。

 美しい人は一度目を伏せると、茶壺を軽く持ち上げて明に見せた。

「これは李徳妃の茶壺だね。以前、彼女の女官が持っているのを見た気がする。大方、彼女に茶でも入れろと言われたのかな」

 どうやらお見通しのようだ。

 でも肯定する気はないので、明はあははーと笑って誤魔化そうとする。

 彼女はそれには構わず、すいと視線を移した。

「そちらの袖が濡れているよ」

「え、あ、これは、」

「せめて絞るくらいはした方がいい。江春が見たら嘆く」

「どうして江春を───痛っ」

 茶壺を置いて、彼女は明の濡れた腕をとる。

 だが、触ったところが悪かった。

 明は呻いて、反射的に腕を振りほどく。

 それを見た彼女は厳しい顔になる。

 紗の向こうに透けて見えた腕は、赤く爛れていた。

「腕、どうしたの」

「何、も」

「何もなければ痛がらないだろう? 濡れた袖と空の茶壺……李徳妃に熱湯でもかけられたか」

 薄い唇からはぁと大きなため息が吐き出される。

 明は腕を隠すように身を捻った。

「どうして隠すの」

「だって……」

 冷静になってみれば、江春の言葉を思い出したからだ。

 他の妃は盧淑妃や李徳妃と同じくらいに明を妬んでいるかもしれない。

 どんなに美しかろうと、警戒するに越したことないのだ。

 それこそ相手にとって、手負いの獣ならぬ手負いの妃など、格好の獲物に違いないのだから。

 明は腕をかばいながらふらりと立ち上がった。

 美しい妃は明を見上げる。

「どこへ行くつもり?」

「自分の宮です。あんまり遅いと江春が心配するし」

「その前に私の宮に寄って行って。江春が卒倒しかねない。見つけたからには一人で返すわけにもいかないしね。手当てしている間に迎えを寄越すよう伝えよう」

 彼女も自身の衣装の土埃を払いながら立ち上がる。

 明と比べて頭一つ以上大きい。兄と同じような目の高さに、なぜか少しだけ安堵した。

 でもふるふると頭を振る。

「知らない人に着いて行くのは駄目って江春が」

「そんなことを言っている場合? 火傷をしているなら早く手当てをしないと痕が残るよ」

 彼女は火傷をしていない方の手を取って歩き出す。

 しっかりと握られてしまっては、精神的にも体力的にも限界を感じている今の明には振りほどけない。

 さっさと歩き出した彼女に、明は待ってと声をかけた。

「茶壺、そのままにしたら……」

「後で回収させるから大丈夫。私の名で返しておくから」

「あ、あなたの名前って……」

 自分の名前を彼女は知っているみたいだけれど、明は彼女の名前を知らない。

 どんどんと歩いていく美しい人。

 明はそれに小走りでついて行く。

 彼女は少しだけ間をあけて名乗ってくれた。

月影げつえい

 告げられた名前は月の影。

 本名なのか偽名なのか。

 妃ならば位を持っているはずだが……

「えっと、月影? あなたの位は」

「……内緒。その方が君も接しやすいだろう?」

 振り返ることなく、月影は答えた。

 いや、位を知った方が安心するんだけれど。

 明は思わず口を出そうになった言葉を飲み込む。口は災いの元。先程痛感したばかりだ。

 月影の強引で尊大な態度に、明は詮索しないで大人しくしている方が得策かと諦めた。

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