第13話 お忍びで行く雲架城下

 朝露が芍薬の葉を濡らす。

 夜の間に雨が降ったのか、後宮の植物はどれも瑞々しく葉を広げ、花を咲かせている。

 いつもより早く目覚めて出掛ける準備を済ませた明は、貌佳宮の入り口で見送りをする彼女に声をかけるため振り向いた。

 貌華宮の庭先まで出てきた江春が、不安そうにこちらを見ている。

「行ってきます」

「道中、お気をつけて。知らない人に着いていってはなりませんよ」

「そんな子供みたいなこと言わなくても大丈夫よ。だって私、泰連に来るまで旅をしていたのだから」

 これでも立派な大人の部類に入っているのだ。体が小さいために幼く見られがちだが、十七歳は立派な成人。子供扱いしないで欲しい。

 それでも江春は心配なようで、つらつらと外出に関する注意事項を何度でも繰り返す。

「しかし今の明様は妃という身分です。何かあったら大事です。事故なんてもってのほか、怪我一つ作るだけでも大問題になります。風邪を拾ってきてもなりませんからね。また医師を呼ぶことになりますからね」

 聞き飽きたそれらの注意事項に言いたいことは沢山あるが、江春があんまりにも不安な面持ちをしているので、明はそれらをぐっと飲み込む。

 江春は彼女なりに明を心配しているのだ。それが分かるから、明は安心させるために微笑んでみせる。

「大丈夫、怪我もしないし、病気も拾ってこない。兄様のお祝いに行くだけなのに大袈裟よ」

「いいえ、いつ何時、何があるか分かりませんから。後宮でさえ目の届かない事がありますのに、ましてや城下など。ああ、なぜ後宮内から馬車を出す許可を頂けなかったのか」

 江春は嘆くように袖で顔を隠した。

 馬車が後宮から出せないのは、これがお忍びだからだ。

 蘇家が留学生のための催しをすることは大々的に知られているようで、そんなところに身内とはいえ妃が堂々と行く訳にはいかない。本来、妃は皇帝の所有物として人前には出てこないのだから。

 身分を隠しての参加。後宮から馬車が出てきたら、噂好きな城下の人たちの口にのぼって、瞬く間に城下に広がってしまう。

 明はその辺りの事情を直接静月から聞いていたから納得しているのだけれど、江春は納得していなかったらしい。

「そもそも妃が自ら徒歩で赴くこと事態、異例なのです。妃という身分を思えばお忍びであろうと馬車の手配くらい当然です」

「いや、馬車の手配はあるってば」

 どうしたら安心して送り出してもらえるのだろうか。江春はなかなか明を行かせてくれない。

 昨日まで散々聞かされた不平不満を聞いていると、明の隣に護衛をしてくれる武官が並んだ。

 彼をちらりと見れば、武官は屈託なく笑う。

「大丈夫だってば。宇澄様が馬車まで送ってくれるもの。心配いらないわ」

 視線で武官へと江春の意識を向けさせる。

 明を馬車まで送ってくれるために朝早くから登城してくれた宇澄が、胸を張って誇らしげにする。

「そうです、そうです。俺がいます。安心して任せてください」

「貴方みたいに間の抜けている人だからこそ、安心できないのですよ」

「え、もしかして信用ない?」

 肩を落として宇澄が言うけれど、明は苦笑いだ。江春はどういうわけか、宇澄に対して厳し過ぎるほどに厳しいから。

 仮にも主上付きの武官なのだから、これ以上信用に足る人物などいない。これを信用できないなら誰を信用すれば良いのだろうか。

 もう自分から言えることは何もないと明が思っていると、宇澄が助け船を出してくれる。

「さ、蘇昭容様。早くしないと遅れますよ」

「そうですね。先方を待たせてはなりませんから」

 宇澄の言葉で、江春もため息をつきながらも送り出す姿勢になる。

「それじゃ江春、夜には戻るからね」

「はい。いってらっしゃいませ」

 明は江春に手を振って、先に歩き出そうとしていた宇澄の背を追いかけた。




 鳳仙花だけではなく、白い芙蓉や連なる玉簾も見頃のようだ。後宮の花を眺めながら、明は宇澄に連れられ西虎門さいこもんを目指す。

 馬車は、後宮から一番近い西虎門を出て真っ直ぐに進み、三つ先の辻で待っているらしい。

 明は初めて後宮に上がったときの事を思い出しながら、道をたどっていく。後宮は散々歩き回ったけれど後宮の外を見るのは後宮に入った時以来だ。

 後宮の敷地から出れば、花は姿を消し、高い塀ばかりが視界を圧迫する。

 まるで迷路のよう。勝手を知らないと迷子になってしまう。

 黙々と歩いていると、気を利かせてくれたのか、宇澄が話しかけたくれた。

「もう四ヶ月が経つんですね」

 明は一瞬何のことかと思ったけれど、明が後宮に来てからの月日のことかと思い至る。

「残念、もうすぐ五ヶ月です」

「ええっ、そんなにっ?」

 おどけたように宇澄が言うので、明は思わずくすくすと笑ってしまった。

「そんなに驚かないでください。自分でも驚いてるの。故郷を出て、そんなに経ってるなんて。生きているし、こんな贅沢もしてる」

 明は自分の着ている衣装を見下ろした。裾をつまんで、歩きながらくるりと一回転。朱鷺色の裳が風を孕んで膨らんだ。

「こんな可愛らしい衣装、伎国でも着なかった」

「そうなんですね。伎国の女性ってどんな衣装を着るんですか?」

 宇澄が何気なく尋ねる。

 うーん、と明は言葉を探した。

「泰連みたいに何枚も衣を重ねたりはしないの。体にぴったりとしてるわ。回っても、裳はこうやって広がらないの」

 明はもう一回くるんと回る。

「やっぱり国が違うと、衣装も違うんですねぇ」

「国じゃないわ。民族よ。泰連も北と南では衣装が違うと聞きました」

 明はお妃様修行で江春から聞いたことを思い出しながら言う。

 けれどその付け焼き刃な知識は、あっさりと宇澄に覆されてしまう。

「あぁ。あの辺りは遠い昔に皇帝が国土を拡大して取り込んだところですからね。今では民族と言われますが、元々別の国だったんですよ」

「そう、なの?」

 今は民族と言われる集団は、昔は国を持っていた。

 その感覚がピンと来なくて、明は少しだけ戸惑った。まだまだ勉強が足りないことを思い知らされて、意気消沈する。

 肩を落とした明を気遣って、宇澄はそれとなく話題を変えた。

「衣を重ねると言えば、春原国すのはらこくがすごいらしいですね。なんでも貴族の女性は何十枚も衣を重ねるのだとか」

 明は顔をあげて、記憶を掘り起こす。春原国の衣装については、伎国にいた頃によく話を聞いていた。

「そうね。あの国は色にこだわる国だそうで、私たちが赤だと思っている色でも、沢山の名前があるらしいわ。だから些細な違いの色も綺麗に出すために、布の染めにこだわるからこそできる技みたいです」

 勉強になりますね~と宇澄がうなずく。明もこれを知ったとき、職人のこだわりってすごいなと思ったくらいだ。

 伎国は芸術に関して妥協はしない。舞の一つとっても、国内で発展したものだけではなく、春原国の衣装や道具の良さを取り入れたりしていたのを思い出した。

 それは泰連国も同じで、春原国が国を閉じる前に取り入れた技術があちこちに反映されている。

 それは食事に使われている調味料の精製だったり、色もちの妃に与えられる色であったり。

 伎国と泰連国の共通点をこんなところで見つけて、明は少しだけ嬉しくなった。

 そうやって会話をしながら歩いていれば、決して短い時間では無かったけれど、西虎門にたどり着く。

 宇澄が門番と一言二言交わすと、明にも通って良いと許可がおりた。

「こっちの、小さい方を潜ってください」

 門番が城門のすぐ傍らにある、小さな戸を開く。

 大きな城門は滅多なことでは開く許可は降りないので、普段出入りする者はこちらの通行用の門を使うらしい。

「馬車が通るとなると、あっちの大きい門を開くんですよ」

 後宮に入ったときは馬車を使ってこの大きな城門をくぐった。今さらながらに「滅多なこと」だったんだなぁと思い知った。

 城門を潜っても、城内のような静けさが続く。

 ちらほらと人通りはあるが、紫雲城のすぐそばには貴族の邸宅が多いので城下らしい喧騒は届いてこない。

 待ち合わせは三つ目の辻。区画整備のための塀が長いので、もう少しだけ歩かなければならない。

 二人で話をしながら歩く。宇澄はかなりお喋りな方らしく、間がないくらいに次から次へと話の種を思い付く。話題に富んでいて、退屈はしなかった。

 東の市は西よりも活気づいていて、歩くだけでも楽しいとか。

 老舗・逍遙堂の饅頭は数ヵ月先まで予約がいっぱいだとか。

 江春とは主上付きになった時からの知り合いで、なぜか自分は怒られてばかりだとか。

 短い道のりでも話すことは沢山あった。

 ただ一言もの申すとしたら、宇澄はお喋りな上に早口なので、明には少し聞き取りづらいことくらいか。




 二人でお喋りを楽しみながら歩く。

 城門から数えて三つ目の辻に差し掛かった時、角に立っていた人物から声をかけられた。

「蘇昭容様、お迎えに上がりました」

「はい?」

 明と宇澄は足を止める。

 見慣れない男に、明は怪訝な顔をする。

「……ええっと、どちら様?」

「蘇家より参りました。こうしてお話しするのは初めてですね。許荀きょ じゅんと申します。蘇家のお屋敷で何度かすれ違っておりますよ」

 声をかけてきた人物は頭に被っていた外套を払った。片眼鏡をかけていて、利発そうな雰囲気をしている。

 彼はゆっくりと歩み寄ると、にこやかに笑いながら後方に待機している馬車を指した。

「馬車のご用意ができております。こちらへどうぞ」

 話しているうちに三つ目の辻を越えようとしていたらしい。

 宇澄を見てみれば、彼は不思議そうな顔をして首を捻った。彼の数え間違いでなければここは二つ目の辻な気がするのだけれど……いやでも城門から数えれば三つ目か?

 明が荀に近づこうとする。宇澄がちょっと待って下さいと静止した。

「迎えには方学智ほう がくち殿が来るというお話でしたが、彼はどういたしましたか」

 宇澄が本来迎えに来ているはずの人物の姿を探す。

 学智は蘇家の家人の一人で、仕事などの面においても利超の補佐をこなす人物だ。外朝に来ることもしばしばあるので、宇澄とも面識がある。予定ではその人と落ち合うことになっていたのだけれど……。

「学智殿は利超様の補佐をしております。催しの準備が順調には行かないようで、家人筆頭として利超様の手足となって指示を出していらっしゃいますよ」

「しかしあの学智殿が約束を反故にするのは考えられません」

 すっぱりと切り捨てる宇澄に、荀がへらっと笑った。

「そんなに信用ないですか、私」

「一応これでも護衛なので」

 宇澄はにこりと愛嬌のある笑顔で返す。

 笑顔で膠着状態に入ってしまった二人の間に割って入ると、心配ないわと明は宇澄に言い募った。

「宇澄様、大丈夫よ。正直、すれ違っただけで覚えは無いのだけれど……蘇家には許岳きょ がくさんっていう家人さんがいるの。この方はそのお子さんよ。ね?」

「父の事をご存知でしたか」

「ええ。兄様がお世話になったと聞いてるわ」

「そうでしたか」

 目元を細めて笑う荀はすっと手を差し出した。

「私の疑いも晴れましたし、行きましょうか」

「はい。宇澄様、お疲れさまでした。連れてきてくれてありがとうございます。」

「いえ……」

 明は荀に自分の手を差し出す。

 宇澄は明が馬車に入るのを見届けると、彼は馬車に近づいて御者に声をかける。

「くれぐれも安全運転でお願いしますね」

「……」

 外套を目深に被った体躯の良い御者はどうやら無口な質のようで、ちらりと宇澄に視線を向けたが、すぐに前へと戻してしまった。

「よろしいですか。出発しても」

「あ、はい。それでは蘇昭容様。いってらっしゃい」

「はい。行ってきます」

 明が窓から顔を出して、宇澄に挨拶をする。馬車はゆっくりと走り出した。

 明は見送る宇澄に手を振った。

 宇澄の姿が見えなくなると、明は荀に視線を移す。

「お迎えありがとうございます。ふふ、久しぶりに蘇家に行くからとても楽しみなの」

「左様ですか」

「ええ。それに兄様のお祝いのために贈り物を選んだの。喜んでくれるかしら」

 明は膝に乗せた巾着に手を当てた。

 巾着の中には、最近こつこつと縫っていた刺繍入りの手巾が入っている。江春に「お妃様の手習いのお一つですよ」と言われて覚えたものだけれど、こうやって贈り物を作れるようになれたので、お妃様修行も馬鹿に出来ないんだなぁとしみじみ思った。

「兄君に会われるのが待ち遠しいですか」

「もちろん。六年会わなかったはずなのに、たった四ヶ月……もうそろそろ五ヶ月だけれど、それ以上に寂しかったわ」

 荀がにこやかに笑って相槌を打つので、明もつられて微笑んだ。

「早く兄様に会いたいわ。この五ヶ月のこと、話してあげたいの」

 明は通りすぎていく城下の町並みへ視線を移す。

 色々なことがあった。心配させてしまうようなこともあったけれど、やる事や覚える事が沢山で、充実した日々だと教えてあげたい。

 後宮に入るという選択肢を選んだことを後悔していないと教えてあげたいのだ。

 轍を刻んで馬車は行く。

 馬の足取りはゆっくりと。

 余裕をもって彼らは目的地を目指す。

 通りすぎていく風景を眺めながら、明はたった一人の肉親へと思いを馳せた。

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