第16話 里江の畔で待つ

 雲架より北東、馬で早駆けして半日程度。なだらかな丘陵地帯を越えれば、その場所は見えてくる。

 里江りこう

 一里先に対岸の見える、泰連随一の河川。

 なだらかな流れでありながら、あまりにも深く幅が広いために橋を架けることが難しい川である。

 雲架の北に流れる歎河たんがの流れを組み、泰連に流れる幾つもの河川が合流することによって里江はさらに広く長くなる。海まで続き、風向きによっては大型の船が川を上ることも可能なため、物資の運搬などにも一役買っている。

 静月は里江沿いに建ち並ぶ宿の一室で、果てなく続く里江を眺める。

 三日が経っていた。彼女が連れ去られてから丸三日。

 利超と怜央に従って里江沿いの港街に来たのに、犯人の手がかりが何も掴めていない。本当にこれで良いのかという不安ばかりが思考を占める。

 もしあてが外れたら。

 刻々と過ぎていく時間が静月の不安を募らせる。

 静月が物思いに耽っていると、部屋の入り口から声がかかる。

 入室を許可すると、入ってきたのは怜央と、同じく留学生の曹揚凱そう ようがいだった。

「泰連王、報告です。後発組の到着を確認しました。南へ向かわせる留学生も滞りなく出発したそうです」

「そう……」

 静月は静かに目を伏せる。

 怜央と利超が当たりをつけたのは、泰連国の東南部にある伎国に一番近い港ではなく、雲架の北東にある運搬用の港だった。

 雲架と海の間を貨物船が里江を使って行き来するということはよくあることだった。それに紛れて明を連れ去るという手は十分有効。何しろ陸路で行けば何ヵ月もかかる旅路も、水路で行けば遠回りとはいえ時間の短縮ができるというもの。

 さらにいえば、あえて東南の港までかかる道程期間をとった文でこちらの目を東南の港の方に向けさせ、そちらに吊られてしまうことを狙ったのかもしれない。上手くかかれば、犯人はまんまと明の身柄と留学生の両方を伎国に持ち帰ることが可能だ。

 ただ、それは明が伎人だと知られていた場合だと怜央は言う。

 伎人だと知られていないならば、この一手は前提から間違っていることになる。

 なので念には念をいれ、主力となる留学生の大半とその護衛たちには東南の港に向かうふりをさせ、残った留学生の一部と精鋭で里江の港にやって来た。

「何か不安なことでも?」

「……本当に、蘇昭容はここに来るのかと」

 怜央が尋ねると、静月は視線を落とした。

 策を疑っていることに気づいた怜央はむっと膨れる。

「お疑いですか? 僕が妹を見殺しにするとでも?」

「そうは言ってない」

「いいえ、お疑いになるというのはそういうことです」

 怜央は窓際の椅子に座っている静月のすぐそばまで来ると、卓子に大きな音を立てて手に持っていた竹簡を置いた。

「証拠です。利超様から送られてきました。調査の結果、妹を乗せたという馬車は間違いなく雲架の南、楠豪門なんごうもんではなく、東の董立門とうりつもんから出ているようですよ。それと情報の出所は不明ですが、とある一門の商人が使う通行証を持っているようです。寝床にしていたと思われる場所の地図も送られてきたので、これから調査させます」

「本当か」

「ただし目撃証言はありません。街道においても途中から同様です」

 静月の表情は曇る。

「里江だと思わせることが犯人の狙いなのでは」

「そう思いたくなるのも分かりますが、最後まで聞いてください」

 怜央は竹簡の一つを広げる。

「あちこち聞き込みをしたところ、最近伎人の入りが多いようです。出は確認できていません。そのほとんどが雲架に入ることなく周辺でたむろしているとのこと」

「それは……」

 竹簡を見ていた静月の視線が上がる。

「入国記録は」

「分かりません。僕らはまだ官吏じゃないので。ただ、里江から上ってきていることを考えると、海から直接入ってきている可能性が高いです」

 雲架から海まで、馬で駆けても数ヶ月はかかる。さらに港も一ヶ所ではない上に、伎国から来ているのならば無事に港に着くことすら希だ。港のない浜辺に行き着いて、近くの県府に連絡をいれるのが常だ。

 さらに怜央は手に入れた情報を開示する。

「揚凱」

「あぁ」

 怜央が後ろにいた揚凱を前に出した。

 揚凱は軽く礼をとる。

「曹揚凱です。泰連王にお伝えすることがあり、参上した次第」

「何だ」

「先程の話にあった伎人の内、幾人かに見覚えがあります。あいつら、王弟の私兵にいた奴らです」

 曹揚凱の言葉に眼を見開く。

 王弟の私兵が今なぜこんな場所にいるのか。

 彼らを抑えれば、間違いなく今回の事の決定的な証拠になりうる。

「……怜央、君すごいな。どうして分かった」

 静月が怜央の読みの正確さに感嘆すれば、怜央は胸を張って見せる。

「妹に関しては有りとあらゆる可能性を常に思考していますからね」

 一瞬の沈黙。

 微妙な顔になった静月と、駄目だこいつと哀れみの目を楊凱から向けられた怜央はこほんと一つ咳払いした。

「具体的に言うと、そもそも蘇昭容という名の妃を誘拐して得をする人間など、今の泰連国にはいないのですよね。そうなると、自然と伎人の線が濃厚になってくる。今の留学生に王弟派がいないとは限りません。それでもどこで漏れたかは知りませんが、蘇昭容が僕の妹……珀家ということまで伝わってしまえば、王弟は明の事を無視できないでしょうから」

「無視できない?」

「あぁ、それは伎国の事情って奴です。説明すると長くなるからそれはおいおい」

 気になるところを聞き返せば、さり気無く横に置かれる。

 教えてくれても良いじゃないかとは思うが、本題はそこではないので食い下がることをやめる。

 とりあえずは明がどうしても伎人にとって連れ帰りたい存在、さらにはできれば不穏分子になりうる留学生も連れ戻したい。その二つを同時に手に入れようとするのならば、この回りくどい犯人の手口も納得はできる。

 これで確信ができた。明はここにいる。

 それなら、次にとらなければいけない行動は。

 静月は立ち上がると怜央に指示を出す。

「怜央、検問をかける。里江付近の関所に伝達するように宇澄に伝えて。来るもの全ての通行証を確認させる。今夜は満月、時間がもうない。すぐに伝達して実施するように」

 怜央ははい、と頷いた。



 ◇



 車輪が石を蹴飛ばすような音が聞こえた。

 揺れている。全身に振動が伝わってきた。

 明は痛む頭を抑えて起きようとして、腕が動かないことに気づく。縄の感触。後ろ手に縛られているようだった。

 身じろぎをした明に気づいたのか、上から声がかかる。

「お目覚めでしょうか、お姫様」

「子奇っ」

 驚いて咄嗟に起き上がる。

 ゴッ……と鈍い音がして明の後頭部が子奇の顎とぶつかった。

 明は子奇の膝に逆戻りし、子奇は自らの顎を抑えて、痛みに悶える。

 どうして明が子奇の膝に寝かせられているのかはこの際省くが、子奇のちょっとした戯れによる被害は想像以上に大きかったことを述べておこう。

「~っ」

「いたた……」

 痛みが通りすぎると、明はゆっくりと身体を起こす。

「何するのよ!」

「いや、今のは貴女が突然起き上がったからでしょう」

 渋い顔になって顎をさする子奇を、明は睨んだ。

「どうして私があなたの膝で寝てるのよ。馬車にいるし」

「あぁ、それは簡単です。貴女を移動させたかった。抵抗されるのも面倒だったので薬をちょちょいと盛らせていただきました」

 にこにこと笑いながら薬を盛ったと言う子奇にぞっとする。一歩間違えたら毒だった可能性だってあることに気づいた。

 出されていたものを疑わずに食べていた危険さを思い知る。

「……それで、私はこれからどこへ行くの」

「秘密です。その方が期待に胸が膨らむでしょう?」

 明は子奇の意地の悪そうな顔に期待するのはやめて、そのまま押し黙る。何を言っても人質の自分には無駄だということはこの三日で分かっていた。

 黙った明の顔を子奇は覗き込む。

「それとも、こちらに期待……しますか?」

 子奇が明の髪を掬い取る。

 既視感のあるその行為に、明は狭い馬車にも関わらず後ずさった。

「先日は邪魔が入りましたから。続きでもいかがでしょう」

 顔を近づけてくる子奇に、明は軽蔑の目を向ける。

「噛むわよ」

「甘噛みならよろこんで」

「変態」

「心外な。私をこんな風にするのは貴女のせいですよ」

 くいっと明の顎が上向けられる。

「芳しい、芳しい、血の匂い。柔らかくとろけそうな肉。その血をこの身に浴びたら……その肉を食んだら……想像するだけでたまりませんね」

「変態にも程があるでしょう!」

 快楽的な笑みを浮かべ一人で打ち震える子奇の手を逃れ、明は向かいの座席に逃げる。隣に座ることが耐えられない。

「あぁ、逃げなくても良いのに」

「逃げるわよ。今すぐに馬車から飛び出したいくらいよ」

「それは困ります。貴女は伎国以上に、私にとって必要な人。ここで逃げ出されたら計画が破綻してしまいます」

 子奇は普通の姿勢に座り直すと、足を組んで背を揺れる馬車にあずける。

「ま、時間は飽きるほどありますから、気ままに行きましょうか」

 ガタンと大きく馬車が揺れる。

 子奇の言葉を無視して、明は窓の外を見た。

 大きな川。馬車はずっとこの川沿いを走っている。

 向こう岸が見えないくらいに遠くて、まるで海のようだと感じた。時々見える向こう岸が、海ではなくて河なのだと教えてくれるけれど、この河に船を浮かべて乗ってしまったら、こちら側へ戻ってこられない。そんな気がした。

 子奇が何を考えているのか分からない。

 伎国の武官が自分をどうするのか分からない。

 明は不安に思いながらも、まだ大丈夫だと自分を励ます。

 きっと誰かが、誰かが助けてくれる。

 船に乗ってしまう前なら、まだ間に合う。

 根拠のない自信と淡い期待、それだけを自分を支える柱にする。

 希望があれば、絶望はしない。

 絶望しなければ、小さな好機も見逃さないと信じて。

「……子奇、検問だ」

 峰維が御者台と繋がる小窓から声をかける。

「では、失礼」

 子奇はそう言うと、懐から懐剣を抜く。息をのんだ明の隣に腰かけると、懐剣を持ったまま、明を縛り付けていた縄をほどいた。

「ほどきましたが、おかしな動きはしないように。この剣には毒を塗ってありますので、少しのかすり傷でも致命傷ですよ」

 脇に隠すように懐剣が添えられる。

 揺れる馬車の中で、明は身体を固くする。

 馬車がゆっくりと止まった。

 外で一言、二言、峰維が誰かと話す声がする。

 扉が開けられ、外から警吏の格好をした男が中を覗いた。

「三人か?」

「ええ、そうです」

「何者だ」

「しがない商人ですよ。川沿いに行ったところにある村の特産品の買い付け交渉をした帰りです」

「通行証の確認をしても?」

「はい、こちらです」

 子奇は懐から手形を取り出す。

 警吏は受け取った木簡を隅から隅へと読み込み、納得したように頷いた。

「李家一門の……これは失礼しました。どうぞお通りください」

「ありがとう。ところで、この検問は何のためなのか聞いても? 以前通ったときはこんな検問は無かった気がするのですが」

「あぁ、勅命ですよ。理由は知らされていません。なんでも女性と伎人の組み合わせには気を付けろとの事でして。ただ伎人の区別が難しく、身分証明をしていただいている次第です」

「勅命……」

 子奇がぼそっと呟いた。

 けれどすぐに笑顔になって、礼を言うと、峰維に先を急がせる。

「峰維殿、船の手はずは済んでいるのでしたっけ」

「あぁ。仲間いる。夜、出発できる」

「それならいいです。ふふ、きちんと蘇利超はこちらの望む通りに動いてくれたようだ」

「どういうこと?」

 明は声を抑えて尋ねる。動くと懐剣が刺さりそうで、下手に動けない。

 子奇は峰維に聞こえないくらいにまで声を落とす。

「そのままの意味ですよ。蘇利超が私の動きを読んで手を打ったということ。たぶん、船着き場には留学生がいるでしょうね。そして貴女と交換しろという交渉が始まるはずだ」

「私一人に留学生と同等の価値なんて」

「ありますよ。そうじゃなきゃ、彼は手を打つことをしない。彼は貴女の特異性に気づいている。そして私の事にも気づいているに違いない……そうでないと困る」

 子奇は肩を震わせた。

「あぁ楽しみだ! 交渉のために彼は現場に来ているだろうね。勅命が降りているようだけれど、王の関与も最低限のはずだ。それに私がいると気づいているなら、きっと私の望むものを携えてやって来るに違いない! そしてその上で私は利超を出し抜くのだ!」

 一人で笑う子奇に、明は困惑する。

 この人は、どうして、ここまで。

「……あなたは、利超様に恨みがあるの?」

 明の静かな言葉に、子奇は懐剣を腰から彼女の首もとに添え直す。鈍く光を反射する懐剣にすくみそうになるが、明は子奇から視線を逸らさない。

 子奇は明の腕をつかむ。

「彼は私の首を切ったんですよ。それはもうすっぱりとね。それを恨まずにいられるとでも?」

 首を切る。

 泰連では解雇されることを「首を切る」といったようなと、読んでいた草紙での使い回しを思い出す。

 子奇……いや、許荀は利超のせいで職を失ったのだろうかと明は考える。職を奪われた恨みで、利超を困らせるために伎国に就職することにしたとか?

「ま、これは私の事情です。しかし蘇利超が動いたとなりますと、峰維殿の計画は何かしらの手で崩されていると考えた方が良さそうですねぇ。その方が私にとっては都合が良いのですが」

 最後、小声でうまく聞き取れなかったが、ぼやいた後、子奇は御者台と繋がる窓に向かって話しかける。

「まぁ、どちらにせよやることは変わりません。さっさと船に乗り込んでしまいましょう。後どれくらいですか」

「もう船着き場だ」

 船、と聞いて明は子奇を見た。

「船?」

「そうですよ」

 子奇が頷くと、馬車が板橋に差し掛かる。

 どこに向かっているのかと見れば、どの窓の景色も青くて。

「っ!」

「暴れないでください。貴女は人質なのですから」

 明は動きを止める。自分の首に据えられた懐剣を思い出す。

「さ、座り直して……おっと」

 ガタンと大きく揺れて、馬車は大きな貨物船へ上がっていく。

 今すぐにでも逃げ出したい。

 今ならまだ、声をあげれば誰かに気づいてもらえるかも。

 けれど懐剣が恐ろしくて声がでない。

 ここがどこか分からないからこそ、今動かなければ、本当に、海に。

「……子奇」

「なんです?」

「気づかれる、可能性あると言った」

「はい。蘇利超が動いているなら確実です」

 子奇が小窓を覗く。

 船上には、ずらりと並ぶ者たちがいた。

 その最前列に、彼がいる。

「さて……私の妃を返してくれるかな?」

 静月が、凄絶な微笑をもって出迎えた。

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