第17話 一輪の花が欲しい者達
「さて……私の妃を返してくれるかな?」
静月の言葉で、外套で顔を隠した峰維が御者台から降りる。
峰維は静月から視線を外すと、その少し後ろにいる怜央を一瞥した。その上でしらを切る。
「何の事か」
「それなら中を見せてもらっても?」
「……」
峰維は黙って、正面を見据えながら馬車の扉の位置まで移動する。小声で子奇に指示を仰いだ。
「どうする」
「ここで馬車をひっくり返すことはできませんからねぇ」
子奇はそう言って笑う。
それから何を思ったのか、明を引き連れ馬車から降りた。
「お探しのお妃様とはこちらの方のことでしょうか」
「明!」
「兄様っ」
怜央が血相を変えて叫ぶ。
明もそれに返す。
子奇は楽しそうな顔をすると、明の背中に突きつけていた懐剣を静月や怜央にも分かるように彼女の首に添えた。
明を助けに来た面々が身構える。
「人質というものはこう使うのが基本。これで貴方達は私達に手が出せなくなったわけですが……さて、交渉をしましょうか」
「そちらが望むのは彼ら留学生の帰還だろう。こうやってここまで来たのだから、彼女を解放して」
「それは『表向き』の目的ですよ。峰維殿のためにも二兎が追えればと思ったんですが、失敗に終わりましたね。私自身の目的は別です」
「それなら何が目的だというのですか、許荀」
怜央の問う言葉に、子奇は目を細める。
「この間まで君は利超様に良く仕えていたじゃないですか。何か不満でもあるのですか? 死んだふりまでして僕らを欺いて、僕の妹を人質にとって、何を望むのです」
許荀と知り合いだった怜央が、都合の言いように解釈をしてくれたと子奇は嗤う。
蘇利超の回りは馬鹿ばかりだ。
「私は利超に奪われたものを返してもらいたいだけです。その一環として、彼らと手を組んだ。本当は彼がここに来ていると踏んだのですが、貴方がいるということは今頃雲架で槐の裁でもしているのか───峰維殿」
子奇は一度静月に視線を向けた後、峰維に合図を出す。峰維が、一歩前に出る。
風をはらみ、はためく外套の下には伎王軍の
「なっ、獬豸……!」
「こいつ、姿を隠そうともしねぇってか」
怜央がその鎧に刻まれた瑞獣に動揺すると、揚凱もそのすぐ側で舌打ちする。
峰維が剣を抜く。
『退け。王子亡き今、帰ったところで祖国を見捨てた貴様らの処刑は免れん。剣の心得のない留学生が十把一絡げになったところで痛くも痒くもない。従わぬ者は今ここで切り捨てる。持ち帰るものは首だけの方が軽くて良いからな』
どこか懐かしくも感じる伎国語。
けれどその懐かしき言葉で紡がれるのは、理不尽な死刑宣告。
怜央が歯を食いしばって峰維を睨み付けていると、静月が彼の肩を叩いて注意を引いた。
静月がぼそぼそと怜央と言葉を交わす。怜央はそれに頷くと、峰維に向かって伎国語で返した。
『その言葉を今、この場で放つ事の意味を理解しているのかい?』
『当然だ』
『伎国は泰連を敵にまわすことになるぞ』
『それがどうした。所詮、伎と泰連は海を隔てた土地だ。泰連が他国の留学生のためにわざわざこちらに赴いて弾圧をするというのか?』
『留学生よりも質が悪い。君たちが人質にしている彼女は泰連王の妃だからな』
『ふん、何を言う珀家の人間が。この娘は泰連王の妃である以前に伎人であり───伎国の国母となりうる存在だ。許荀は人質と言うが、戦禍に巻き込まれ死んだと思っていたこの娘の存在の方が、よほど価値がある』
明は顔をあげた。
どうして彼が、その事を知っているのか。
『お兄様っ』
『大丈夫さ。僕に任せて』
明が声をあげれば、怜央が柔らかく微笑んだ。
それからもう一度、ぼそぼそと静月と言葉のやり取りを交わす。
怜央は、今度は子奇に向かい、泰連語で言葉を投げた。
「許荀、君の仲間……というか手駒である彼らは僕の妹を人質としてではなく、妹の身柄そのものを目的としていたみたいだけど、君はそれで目的が達成できるのですか?」
「まぁ、いいですよ。最悪、蘇利超に私の存在を知らしめさえできれば」
首元に押し当てている剣はそのままに、子奇は明に顔をすり寄せる。
明は少しでも離れようともがこうとするけれど、首に押し付けられた剣の存在が彼女の動きを封じる。
「峰維殿、あの先頭にいる者だけ生け捕りにすることは可能ですか?」
子奇は静月に視線をやる。
「……捕まえる、か?」
「そうです。それ以外は貴殿のお好きなように」
峰維がにやりと笑う。
「殺さない、が、怪我許す」
物騒な言葉を吐いて、峰維は木造船の床を蹴る。
その剣先は真っ直ぐに静月を狙う。
狭い船の上、逃げ場などどこにもない。
「───舐められたものだね」
剣先が切迫するのに、怯みもしない静月は静かに言葉をこぼす。
その言葉と共に、風のように静月の背後から躍り出る者がいた。
キィンと金属同士の悲鳴が上がる。
峰維の剣を受け止めたのは、体にぴたりと沿った伎人の衣装に身を包み、外套を目深に被った宇澄だった。
「!」
「ニ度目まして、ですね!」
宇澄が振り下ろされた剣を真上に弾き、峰維の胴を蹴り飛ばそうとする。
峰維は剣が弾かれた瞬間、本能的に体を回転させ、蹴りを回避する。それからすぐに後退した峰維を、宇澄が追随する。
「ふむ……この船に乗るはずだった者達が見当たらない時点で予想はしていましたが……まさか宮中暮らしのお綺麗な武官に、峰維殿の剣に着いてこられる者がいるとは。これは誤算でしたね」
「戦帰りの猛者達相手にか弱い兵士などぶつけるだけ無駄だからな。選りすぐりのを連れてきた」
子奇が少しだけ面白くなさそうに言えば、静月が淡々と言葉を返す。
それに続くように、怜央が言葉を引き継いだ。
「君たちの仲間は皆、泰連王の意向により捕縛されています。今後の交渉のためにも、今ここで明を解放し、皇帝の沙汰を受けるのです」
「だ、そうですが。峰維殿は如何いたします?」
船の縁まで追い詰められた峰維が剣を構える。
追い詰めた宇澄は、慎重にその間合いを図っていた。
『……珀怜央、俺の兵は全員そちらにいるのか』
宇澄が突然発された意味の通じない言葉に怯む。けれどそこに峰維は漬け込むことなく、宇澄を越えて、怜央に向かって言葉を放った。
怜央はそれに応じる。
『そうだ。既に一部の者は雲架へと輸送した。伎人であろうと、泰連にいる限りその処遇は皇帝の一存によって決まる』
『あの娘の命一つと、何十人もの兵士の命が天秤に釣り合うと思っているのか』
『当然だ。なんたって僕の妹だからね』
『お兄様!』
その言葉を聞いた明が目を見張る。
『お兄様、私は大丈夫よ。元々は死んでいたはずだもの、ここにいるのが奇跡なくらいだわ、それが元の道理に納まるだけよ』
自分一人の命が、祖国に家族を残してきたはずの兵士達たちと天秤に掛けられている。それは、明の望むところではない。
家族を残して逝くことのもどかしさは、明だって痛いほど知っているのだから。
けれど怜央は納得しない。誰か一人の犠牲で全てに決着が着くのだとしても、己の妹にこれ以上の不幸を与えるのを許さない。
『僕はそんなものが道理だなんて思わない。これ以上、君から、僕から、何も奪わせない。それが例え故郷だとしても、僕の大事なものを奪うのなら容赦はしない』
怜央は峰維を睨み付ける。
峰維はそれを受け止めると、ふっと笑った。
「子奇、終わりだ。これ以上は、伎に益ない。貴様が泰連王への貢ぎ物となる」
何の心変わりか、ゆらりと体を揺らし、剣先を宇澄ではなく、子奇の方へと向ける。
子奇は初めから分かっていたかのように、薄く笑った。
「そんな簡単に手のひらを返してもいいんですか?」
「俺は、命、欲しい。仕事、難しいを分かっている、し、な!」
峰維が泰連国との敵対が不利ということを悟り、子奇の首に狙いを変える。船の縁伝いに峰維が動いた。
「待て!」
人質のいるまま突撃されては敵わない。
宇澄が声を上げて、止めに入ろうと動く。
けれど。
「あぁ、言っておきますが、彼女は貴殿にとっても人質なんですよ」
すぅ……っと懐剣が、明の首を撫でる。
明の細い首筋が裂け、赤色が滴り落ちる。
子奇はその血を刃で掬いとると、恐怖で動けない彼女の唇に血の紅を差した。滴が垂れ、明の口に錆びたような味が広がる。
峰維がもう後数歩というところで足を止める。宇澄も足を止めた。
「明!」
怜央が青ざめる。
「取引です。蘇利超に伝えなさい。私から奪ったものを返しなさいと。そうですねぇ、またお伺いするのでその時までに用意してもらえば」
「……分かった。伝えよう。だから彼女を離すんだ」
「離すのはいいですけれど、その途端に飛びかかられても困りますからね」
子奇はちらりと峰維と宇澄の方を見る。
「……宇澄」
静月が宇澄を呼び戻す。彼は納得いかないながらも主の命と剣を納める。
「峰維殿、こっちに」
「……」
宇澄が険しい声で峰維を呼ぶ。
峰維は聞こえているのかいないのか、無言をもって返す。
梃子でも動こうとしない峰維に、静月が声をかける。
『───伎の武人よ。余に従うならば、数々の非礼を許そう』
峰維が、怜央が、楊凱が。
驚いて静月を見る。
静月はふっと唇の端をあげる。凄絶なその微笑に、誰もが息を飲む。
『驚くことなどあるまい。余は泰連を、大陸を統べる王ぞ。そなたらの声一つ理解できず何を為す。海の向こうの者よ、ここは我が領土であり、余が法である。余に従え。三度は言わぬ』
峰維は今にも射殺しそうな目で静月を睨む。静月はそれを微笑でもって返す。
殺気を放っても変わることないその微笑。だが峰維は自分の主たる者意外に従うことへの抵抗を示す。
なかやか頷く事のできない峰維に、突如もう一つの声がかけられた。
『───ふいて、よしなに、さらりと、そよげ』
この場にいる伎人全てと静月が、声の主へと視線を向ける。
明は首元の剣への怯えを少したりとも見せることはなく、姿勢を正して言葉を紡いだ。
『月をかぞえて、ひ、ふ、み。
怪訝な顔になる子奇の目を明が下から見上げた。一陣の風が吹き去って、船の埃が舞い上がり、子奇の目が細められる。
明は子奇から視線を外すと、峰維へと視線を映した。
『たとえ
数人の伎人の体が震えた。彼らは皆、怜央に手を貸した留学生達。
『餞の唄……』
その内の一人である、楊凱が同志の心を代弁するかのように呟いた。
故郷を旅立つ時、餞として贈られた歌だ。本来は舞姫が旅路の平安を祈願しながら歌う奉納舞い。
楫枕と称される祭りの歌は、留学生にとって故郷の最後の記憶だ。
凛と歌う明の姿に、六年前、幼い舞姫が懸命に異国へ旅立つ兄とその仲間達に餞の唄を奉納する姿が自然と重なった。
楊凱が突然怜央の背中を叩く。
『うわっ』
『ったく、これ聞いたら頑張るしかねぇじゃねぇか』
『え?』
『やる気出たっつってんだよ、この
伎国語でやりとりする二人の様子が留学生達の間に広がっていく。
その和やかな環は、峰維にも届く。
何かを堪えるかのように動きを止めた峰維が明を見た。
敵意から一転して何かに揺らぐ峰維の視線を、真っ直ぐに受け止める明は、青ざめながらも懸命に峰維へと話しかける。
『将軍、ここは伎国ではありません。この地の王は泰連王たる静月様です。伎国を背負う獬豸を身に纏う以上、貴方の行動一つが全て伎王の意思と見なされます。その身が正しく伎人であるとするのなら、泰連王の言葉に従いなさ──』
「そろそろ黙りましょうか?」
子奇がぐっと明の首元に懐剣を食い込ませる。明が呻くと、全員の中に緊張が走る。
峰維すら舌打ちをしながらも宇澄と同じく後退した。その視線は子奇へと移っており、ほんの僅かな隙すら見逃さないように睨み付けている。
宇澄が峰維をつれ、静月や他の者から少し距離をとった所で立ち止まった。
「貴様が、皇帝、か」
「気づいてなかった? さっき言った通り、私の言葉に従うのなら、捕まえた伎人をそのまま伎国へ送り返そう」
「俺、何をする」
「何もしないように」
静月はそう言って歩き出す。
まっすぐ、子奇の方へ。
「彼女を返してもらう条件は何だ」
「何度も言っているでしょう。奪われたものを返すことを蘇利超に伝えなさいと」
「言い方が悪かったかな。彼女を放す条件は何だ」
子奇はふむ、と頷く。この御仁は、思っている以上に頭の回転が早いらしい。
「……全員その場で臥せなさい。貴方はこちらに。もちろん、その腰にはいている武器などはそこに捨て置きなさい」
「……」
静月はため息をつくと、外套の下に隠していた剣を下に置く。それから後ろに視線をやり、連れてきた者達に臥せるよう促す。
彼らの多くは城から連れてきた武官だ。留学生もいるけれど、腕に覚えのある数名だけ。
納得はしていないようだが、楊凱を筆頭に武官や留学生は臥せっていく。峰維でさえも宇澄に促され臥せた。
その中、怜央だけが立ち続ける。
「怜央」
「……」
「珀怜央」
静月に名を呼ばれ、怜央は唇を噛み締める。明、と妹の名を呟いて、彼もとうとう臥せる。
静月はそれを見届けると、子奇に向き直る。
「これで良いかな?」
「はい。では私の指示に従ってください」
子奇がそう言って静月に指示を出す。まず馬を馬車から外させる。明を解放するまでは静月が信用できないと言うので、子奇はそのまま静月に手綱を持たせた。
子奇は片腕で明の腰を抱き、軽々と馬に股がってみせる。腕力の無さそうな雰囲気を醸し出しているわりには鍛えているらしい。
静月はちらりと明の様子も伺う。彼女はそれに従う……というより、体に力が入らず、されるがままという様子だ。さっきまで気丈に顔をあげていたのに、今はこちらを見向きもしない。
静月はその様子が引っ掛かり、明をじっくりと見る。
呼吸が浅く、唇が紫、額には露のような汗。
一瞬、発作を起こしているのかと思った。それにしては以前とどこか違うような……
手綱を握って、静月は子奇と明の乗る馬を誘導する。船から降りて、渡しを通って、川岸まで来ると、子奇は周囲を見渡す。
「建物の影に人がいますね」
子奇の言葉に、静月は舌を巻く。まさか気づかれるとは。
静月は手綱を握ったまま、近くの建物に向かって、隠れていた武官に全員武装を解除、包囲網を解くように声をかけた。声をかけられた武官は戸惑いながらも、それに従う。何人もの武官が姿を表し、その手に持つ武器を次々と下に置いていく。
「これで満足?」
静月が静かに問う。
子奇は満足そうに頷いた。
「そうですね。それに一国の皇帝を顎で使えるなどそうそう無い経験です。お礼に一つ良いことを教えてあげましょう」
子奇は馬上で不敵な笑みを浮かべる。
同時、抱えていた明を馬上から突き落とした。
「蘇昭容!」
静月が腕を伸ばす。
馬がいななき、馬上で子奇は静月に向かって言い放つ。
「解毒は三槐の手の中に」
間一髪、明が頭を打つ前に、自身の胸で受け止める。
静月がはっとして顔をあげた時には、子奇は既に馬の腹を蹴っていた。
ぐったりとした明を抱く静月の横へ、機を計らって船から降りてきた怜央が立つ。
「誰か馬を! 今なら追える! 逃がすな!」
怜央の言葉をどこか遠くで聞きながら、静月は浅い呼吸を繰り返す明の頬に触れる。うっすらと明が、目を開いた。
すり寄るように、静月の手を自分の手で包む。
「たすけて、くれたのね」
「どこが。君、毒が」
「それでも、たすけた。あなた、ちゃんとおうさまの、あなた、かお、みて……」
毒が回り、意識が朦朧としてきているのか。言葉が段々支離滅裂になり、唇の動きも鈍くなる。
言葉は、紡いでいる途中で消えた。
静月は滑り落ちた明の手を握る。
唇を噛み締めると、静月は彼女をすくい上げるように抱き上げた。
死なせない、彼女を死なせない。
彼女が死ぬ道理など、ここには、この国には、無いのだから。
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