第15話 籠の花と妖しき人

 水の音がする。

 せらせらとせせらぐ流水の音。

 水の流れる音に混じって、誰かが「ごめんなさい」と泣きじゃくりながら謝る声が聞こえた気がした。




 泡沫の夢が弾けて、明はむくりと体を起こす。体の節々が痛んだ。固い寝台に寝かせられていたようで、痛む体に納得する。最近は後宮のふかふかな寝台で寝ていたから、きっと贅沢に慣れすぎた弊害に違いない。

 どれだけ眠っていたのか分からないけれど、寝すぎてしまったときのように頭が痛む。

 ぼんやりとする頭をふるふると振った。結われていた髪はほどかれていて、烏の翼のように広がった。

 顔にかかった髪を払いながら、自分が今いる場所を見渡す。

 小さな部屋。扉は二つ。壁際にある寝台の他には卓子が一つ。その上に水差しと杯が一つずつ。髪を止めていた簪の類いや、持っていたはずの巾着はどこにもない。

 窓がないのに明るいので光源を探して天井を見上げれば、寝台と接している壁の天井に近いところに窓が一つあるのを見つける。そこから光がこぼれていたのか。

 大きめの窓だけれど、手をかけるには身長が足りなかった。寝台に卓子を積めば外の様子を見られるかもしれないが、細い一本足の卓子を寝台の上に置いて、さらに自分の身体を乗せるのは至難の技な気がした。うっかり足でも痛めたら笑えない。

 足と言えば……と自分の左足を見る。先程からずっと、重たい感触が違和感となって存在していた。

 目を背けてもいられないのでそれの正体を見てみる。ジャラ……と足に絡まる鎖に目が入った。

「……」

 質感通りの足枷がある。

 明はため息をついた。

 試しに鎖を引っ張ると寝台の下に繋がっているようだった。ジャラジャラと引っ張ってみるとかなり長くて、部屋の中を十分歩き回れる長さになった。

 寝台の下をのぞいてみようにも隙間がほとんどなくて、どうやって繋ぎ止められているのか分からない。諦めて顔をあげた。

 外の様子は分からないが、部屋を見る限り蘇邸ではないことが伺える。池はあったけれど、蘇邸に流水のせせらぎが聞こえるような場所なんてなかった。それに蘇邸なら、鎖で明を繋ぎ止めるようなことはされないはず。だって、このような仕打ちを受ける謂れは無いのだから。

 記憶の糸を手繰ってみるが、馬車に乗り込んでからの記憶が途中から抜け落ちていて宛にならなかった。

 鎖を鳴らして床に降り立つ。履いていたはずの靴すらなく、裸足だ。冷たい石の感触が直に伝わってくる。

 明はそっと歩いてみる。足音を消しても、鎖の音は消せない。

 適当に一番近い扉を開けてみた。

 簡単に開いてしまったので中を覗いてみればただの水場だった。厠と湯桶だろうか。湯さえ手に入れば湯浴みができるかもしれない。使われていないのか、手入れがされているのかは分からないけれど、どちらも見た感じでは綺麗で清潔にされている感じがした。

 水場に繋がっていた扉を閉めると、もう一つの扉を開きにいく。こちらは外から鍵がかけられているようでびくともしなかった。

 こちらが外に繋がる方なのだろうと見当をつける。

 開かないことにはこちらは何もできない。硝子戸だったら割れたかもしれないけれど、木製の扉を割れるような膂力はか弱い明には持ち得なかった。

 明は寝台に戻ると鎖が外せないかと左足を見る。

 細い足首はくるぶしがくっきりと浮き出ている。くるぶしの上に来るように鉄の枷がつけられていて、すっぽりと抜けるようなものではない。枷の繋ぎ目が小さな錠前で繋げられているから、これさえ外すことができたら逃げ出せる。

 明はぐるりと部屋を見渡した。分かっていたことだが、鍵抜きをしようにもできそうな道具はない。

『はぁ……これ、どこからどう見ても誘拐よね。私なんかを誘拐して、得することなんてないのに』

 一人しかいないので、伎国語で呟く。しばらく使っていなかった言葉でも、故郷の言葉は耳によく馴染む。緊張で声が掠れていたが、声に出すことで不安と恐怖が少しだけ紛れて明の思考を澄みわたらせてくれた。

 明は枕を抱いて、寝台に横たわった。

 犯人がどうして自分を誘拐したのかを考えてみる。

 妃が一人減ったところで、泰連のような大国は慌てない。むしろ後宮なんてものは、暗殺を狙って毒を盛られたり、刺客が送られてきたりするような場所だと江春が言っていた。

 それでも誘拐となれば警吏が動いて捜索に当たる。暗殺ではなく誘拐になると、犯人は大概何らかの要求をしてくるらしいから、暗殺などよりよっぽど大事になるらしい。

 妃修行の時に、万が一誘拐されても慌てふためず、犯人の神経を逆撫ですることなく、可能な限り大人しくしているようにと言われた。嫌な指南書だなと思いながら妃修行を受けていたのでよく覚えている。

 誘拐された今、次にどう動くべきかは相手の動きを見てからが吉だ。

 そう思って退屈を紛らわせるように寝台の上でころころと転がっていると、扉の鍵が開く音がした。扉に背を向けるように止まって、息をひそめる。

「おはようございます、蘇昭容……いえ、珀明様」

 聞き覚えのある声。扉が開いてその人物が入ってくる気配がした。

 明は目をつむり、寝たふりをする。

「おや、まだ寝ているのですか。案外寝坊助さんですね」

 くすくすと笑うその人物が、ゆったりとした足どりでこちらへと近づいてくる。卓子に何かが置かれる気配がしてから、寝台がきしんだ。

 薄い夏の衣越しに指が触れ、明の腰を這う。ぞわっと明の背筋に悪寒が走った。

 思わず跳ね起きる。百足が這うような気持ち悪さ。嫌な汗が首筋を伝った。

 たぶん、触られただけ。触られただけなのに、得体の知れない気持ち悪さが触れられたところに違和感として残っている。

「嫌ですね、そこまで過敏に反応されると。───いじめたくなるではないですか」

 無害そうな顔をして笑う許荀を、明は睨み付ける。

「触らないで、嘘つきさん。蘇家に連れてきてくれなかった嘘つきなんかに触られたくない。蘇家の、裏切もの」

「裏切るなんてそんな。元々私は蘇家の者では無いのですから、裏切るも何もありません」

 明は目を見開いた。

「名前まで騙るなんて!」

「名前は騙っていませんよ。名前に関しては蘇利超すらも疑いませんから。間違いなく私は許荀です……が。しかしここは敢えて子奇しきと名乗っておいた方が、後々面白いことになりそうです」

 許荀……ではなく、子奇と名乗り直した彼は明のほどかれた髪を一房掬って口付ける。近づいた彼からは甘ったるい香りがした。

 明は顔を背ける。

「これだけで恥ずかしがるなんて。恋に恋するお年頃、ということでしょうか」

「誘拐犯に触られるのが屈辱なだけ。それに私、そんな可愛らしい年齢じゃないわ。立派な大人よ。見た目で判断しないで」

「それは失礼。女性の年齢に触れるのは野暮でしたね」

 子奇は明に体を寄せる。

 明が彼から離れようとさらに後退ると、もうそこは壁で。

 狭い寝台がきしみ、子奇の吐息が耳元にかかる。

「可愛らしい年齢ではなくとも、容姿は十分可愛らしい。言い寄ってくる方など多いでしょう」

「さぁ……どうかしら。少なくとも、愛の告白をされたことはないわ」

「それは可哀想に。後宮なんかに押し込められて、恋をすることなく一生を終えるなんて。どうです、僕と一度きりの過ちを犯してみませんか」

 吐き気がするほど甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。

 明は子奇と視線を合わせない。思考がうまくまとまらなくて、どうやって抵抗をするべきかが分からない。

 子奇の指が明の頬に触れる。夏だというのに氷のように冷たい指先が、頬から滑り落ちていく。明の輪郭をなぞるように白く細い首筋を撫で、襟から覗く鎖骨に届く。

 体が麻痺してしまったかのように、一指も動かせない。

 一番初めに感じたおぞましさは、なぞられた場所から全身へと伝わって来るのに。

 馬車に乗り込んだときも子奇の手に触れた。その時には感じなかった恐ろしさが、どこからともなく沸き上がってくる。

 背筋に冷や汗が伝った。背に張り付く衣の気持ち悪さも、触れられる肌の気持ち悪さも、ない交ぜになって自分の体ではない感覚になる。

 指先で鎖骨をなぞられる。もう片方の腕が、明の太股から這い上がって、腰を抱く。

 鎖骨を伝った指が襟を崩して、鼓動する胸の真上に触れた。

「緊張、していますね。あぁ、その顔です。その顔が見たかった」

 明は唇を噛み締めて、ねっとりと嗤う彼から視線を背ける。

 触れないで。

 そんな穢らわしい瞳で、私を見ないで。

 唯一の救いは、涙が渇れてしまっていたこと。

 ここで涙を流したら、嗜虐心を煽るだけ。

 明は耐える。震える身体を必死に抑えようとする。

「いじらしいことだ」

 子奇が笑って、壁に追い詰めた明の襟を大胆にはだけさせた。明は恐怖と羞恥で何も考えられない。

 子奇はゆっくりと、汗ばんだその細い首筋に歯を立てる───

「子奇。食事を送るだけだ。何してる……本当に何してる」

「おや、峰維ほうい殿」

 ぎこちない泰連語が聞こえると、顔を近づけようとしていた子奇がそちらを振り向いた。

 恐る恐る視線をあげる。声がかけられた方を見ると体躯の良い男が部屋の中に足を踏み入れるところだった。

 ほっとするも束の間、男の纏うものに気がついて、明は蒼白になる。

獬豸かいち……!」

 瑞獣と伝わる四つ足の一角獣。それが掘られた歴戦の傷を称える鎧。

 見覚えのあるそれは、伎王軍の将軍だけが許される特別の鎧だ。

 明の小さな悲鳴を聞いた男が、ちらりと視線を向けてくる。

 突然降り注ぐ剣のような圧。両肩にのし掛かる重圧に、明の身体は震えることすら忘れてしまう。

 峰維と呼ばれた伎王軍の鎧を纏う男は、一瞥しただけですぐに明から視線を外すと、子奇に視線を向けた。ふっと肩が軽くなり、冷や汗が吹き出た。

「子奇、早く来い。長く居るはない」

「そうですね。あまりにもいじめがいのある顔をしていたので……。では明殿、食事を置いておきますので、気が向いたらどうぞ」

 何事もなかったかのように、子奇はにこやかに笑いながら寝台から降りた。

 明は自分の身体を抱きながら、震える声で引き留める。

「待って」

「何でしょう? 先程の続きでもします?」

 明は子奇に視線を向けないようにしながら、今一番気がかりなことを聞く。

「……私を、どうするつもり」

 食事を与えるということは、今はまだ生かしておくつもりなのか。

「私の名前を知っていて、そこには伎王の将がいる。私を、どうするつもり?」

「それは当然、伎国へ連れて行くのが目下の目標でしょう。貴女を殺してしまうと色々と厄介ですし 。そういうことで、最低でもあと数日はここにいてもらうことになりますかね」

 何てことの無いように言われる。

 明は停滞しそうになる思考で必死に考える。自分の命の在りかがどう転ぶか油断ならないものの、今の段階では殺される心配はしなくて良い。伎国に連れ戻されるのも、数日の内はないとの言質もとれた。

 そのことに少しだけ安堵する。少なくとも、今日と明日の安全は確保されたに等しい。

 子奇は明の様子を振り替えることなく、部屋を出ていこうとする。子奇が部屋から出るのを待って、去り際、峰維がもう一度明を一瞥する。

 明は蛇に睨まれたかのように強張った。

 峰維が一言、吐き捨てる。

『売女め』

 泰連語ではなく、伎国語でのあからさまな罵倒。

 先程の子奇の戯れを見て言ったのだろう。

 明はかっとなって伎国語で叫んだ。

『最低っ! 貴方なんて獬豸にはらわた食いちぎられるのがお似合いだわ!』

 峰維は明の反論に耳を貸すことなく、部屋を出た。

 扉が閉められ、鍵が再び掛けられる。

 嵐が去って、明は寝台に一人取り残された。

 今さらながらに誘拐された事実を実感する。

 助けを呼んでも声は届かない。

 助けてもらえるかも分からない。

 それでも希望は持てた。

 水の音はしても、床は揺れていない。つまり、ここは水の上ではないということ。磯の香りもしないから、気を失ってから数日経っていて、海の近くにいるということもない。

 海の上でなければまだ期待はできる。

 いくら峰維でも大国である泰連に喧嘩を売ることはないだろう。

 何しろ今の明は泰連国皇帝の妃、つまりは所有物。

 皇帝の膝元で妃を殺したりなどしたら、泰連国に侵略の口実を与えてしまうだけだ。誘拐の時点でも大概だが、最悪、明の身柄を解放すれば回避はできる。だからこそ、泰連にいる間は少なくとも命の保証はされるだろう。

 なんの証拠も残さずに出国できたら伎国側の勝ち。

 泰連国が気づいて証拠を握ってしまえば泰連国側の勝ち。

 明の命はそこで左右される。

 妃になって良かったと安堵した。これが何の手も打たないで蘇邸に居候するだけの身だったら、誰にも見つからずに伎国へ連れ去られていたかもしれない。もしここにいるのが明じゃなかったら、ただの辻斬りのように殺されて、有耶無耶にされていたかもしれない。

 妃になったからこそ、明だったからこそ、生かされる猶予ができている。

 籠の鳥に約束される安寧は、籠から出てしまっても、わずかな希望になる。

 明は膝を抱えて踞った。

 兄でもいい、利超でもいい、江春でもいい。

 或いは怠惰な月の人でも。

 ───早く、私を見つけて。

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