第1話 亡命した妹と留学生の兄と狸爺

 空は青く澄み、時を数えるうちに東へと雲が流れていく。

 庭の花壇は、赤、黄、白、桃と春らしい温かい色の絨毯。

 広い屋敷の庭には池もあり、でっぷりと太った錦鯉がゆったりと泳いでいる。

 雲架うんか城下、東の一画。

 そんな春爛漫の蘇家から、まだ年若い少女の声が木霊した。

「私それ聞いてないですー!」

 体にぴったりと沿った異国の衣装を纏う彼女は高らかに声を響かせる。ちょっと発音が怪しいのはご愛敬。

 突然椅子から立ち上がった異国の少女・珀明はく みんを「どうどう」と笑ってたしなめるのは彼女の兄・珀怜央はく れいおうだ。こちらは明とは違い、泰連国のほうを身に付けている。

「明、落ち着いて、僕だって驚いているんですから!」

「にいさま静か!」

「うるさい」という言葉が分からずに妙な言い回しになってしまうが、明はとりあえず怜央の口を閉じさせる。代わりに隣に座っていた怜央はひしっと抱き締めた。美しきかな兄妹愛……と言いたいが、明の顔は嫌そうに歪んでいる。

 それを、卓子を挟んだ向かいで眺めていた白髪の老人が、こほんと一つ咳払いした。にこやかな顔をしているが、本題に移れなくて非常に困っている。

「あー……悪いがもう一度言わせてもらえぬか。大切なことだかからな? な?」

 彼は、明と怜央、交互に視線を向け、大切なことをもう一度繰り返す。

「明殿、こちらも困っているのだ。その為なら手段なんぞ選んでいられん。怜央の国試の援助と引き換えに、そなたには主上の後宮に入っていただきたいのだ」

 蘇利超そ りちょうは頼むと頭を下げた。




 茶に沈んだ花の、一枚の花弁がくるくると泳ぐ。

 明は突然降ってわいた後宮入りの話に戸惑うばかり。

 かといって恩人である利超に頭を下げさせたままでもいられないので、怜央の体を押しやり「顔をあげてください」と声をかける。

「利超さまは私の恩人です。にいさまと会えました、暮らすためのお手伝いしてくれました。だから驚いたけれど、お願いされたなら、やります」

 たどたどしい言葉で、明は自分の意思を示す。

 戸惑いはしたけれど強く頷いてみせれば、利超は重々しく念を押す。

「こちらも力を尽くすが、これから先、大変なこともあるだろう。それでも良いのかのぅ……?」

「もちろん。にいさまも許しますか?」

 明が怜央の方を見ると、怜央はとんでもなく嫌そうな、まるで黒いアレを見たときのような顔をしていた。

「可愛い妹をどこの馬の骨かも分からん奴へ嫁にやるのは、思わずそいつを呪い殺さねかねないほどに嫌ですが、利超様のため、明も納得するのなら我慢します」

「一応、相手はこの国の皇帝なんだがの……」

 利超が苦笑しながら訂正すると、怜央はいいえ! と拳を握って熱弁し始める。

「皇帝だろうと神だろうと、可愛い明に手を出すならそれなりの誠意を見せてくれるまでは信用できません! 後宮に行けば数多のお妃様のうちの一人としか数えられない……うっ、可愛くて賢くて器量良しな明にはもっと素敵な旦那さんがいるはずです! 僕とか!」

「……」

「にいさま、利超さま困ってます。私も困ります」

 こうまで言われ、明は後宮に入るのは辞めた方が良いのではと考え始める。

 心配なのだ。

 自分より、自分がいなくなった後の怜央が。

 利超は明にこっそりと耳打ちをしてくる。

「そなたの前だと、昔からこんな風だったのかのぅ?」

「いえ……にいさまもっと真面目です。私をお世話してくれたけど、昔と今、少し違います。私がここに来たから、とうさまとかあさまになって心配していると思います」

 明の言葉に利超が哀れむように目を細めた。

 明が親族でもない利超の屋敷で世話になっているのは理由がある。

 それは明の祖国である伎国で起きた内乱に起因する。

 泰連国の南西、海を越えた先にある伎国では、王が亡くなり、王位争いが王太子と王弟の間で勃発した。

 内乱が本格化する前に密かに国を出た明は泰連国を目指した。王都を出て、海を渡り、怜央が留学していた雲架に辿り着いたのだ。

 明が怜央の元に到着して間もなく、伎国内乱は泰連国にも伝わった。

 泰連国の重鎮は伎人留学生の扱いを一考した結果、帰国する意思のある者は帰国させ、残留する意思のある者は国試の合格を条件に一生の滞在を許可した。

 多くの者は帰国を選んだ。

 内乱が起きたとはいえ、留学生の価値は変わらない。王弟派、王太子派、どちらが勝っても重宝してもらえるから。

 泰連国雲架から伎国の都まではだいたい一年はかかる。

 今聞く伎国の話は一年前の情報。そしてこれから一年後に伎国に戻ることを考えれば、その頃には新政権が確立し、そのお膝元で美味しい仕事にありつけるという寸法だ。

 けれど怜央は国に帰れない理由があった。

 可愛い妹が逃げてきたのもそうだし、もし万が一、王弟が国を治めてしまったら、真っ先に珀家という存在が目をつけられる。それは非常に困る。

 だから怜央は、ひょんなことから目をかけてもらっていた利超に明の事を話した。彼に、自身の残留と明の亡命をかけあったのだ。

 もちろん、利超は怜央の国試合格を望んだ。

 それがもう十日も前のこと。

 それとは別に、今日突然、利超は明の後宮入りの話を持ってきた。

 そして今に至る。

 今はまだ国試の一次試験、学舎の予試の受験申請時期。

 明と怜央の亡命は、この試験にかかっていたはずだったが……

 明は椅子から立ち上がると、卓子を回り、膝をついた。そっと利超の皺の刻まれた手を取る。

「私は後宮に入ります。にいさまが国試駄目でも、私たちは泰連にいられる。そうです?」

「……そうだ」

 深く頷く利超に、怜央がちょっと待ったと声をかける。

「僕が落ちること前提なのが解せないんですが?」

「そなたの頭脳を知ってはいるが、慢心はいけない。万が一があって困るのはお前だけではなく、妹君もなのだからな? 今回の国試で受からず、もし伎国が留学生の帰還を要請したら泰連国としてはそれを断る理由がなくなってしまうからなぁ。それは避けたいだろう?」

 怜央は納得がいかないという顔をしながらも、それ以上は食い下がらない。立場は怜央の方が下だから。

 利超は明に握られた手を、優しく包むように握り返す。

「後宮は衣食住の整った空間。こんな男所帯にそなたを置いておくよりは随分良いだろうし、珀家は数代前の王族の末裔であったな? 身分として、家格は申し分ない。一度後宮に入ってしまえば、伎国も手が出せまいよ」

 後宮にいる限りは安全なんだと利超は言外に告げるが、明は少し困ったように笑っただけだった。

 その顔を見て、怜央が助け船を出す。

「利超様、今の台詞、明には難しかったみたいですよ」

「そうか?」

 明は恥ずかしそうに視線をうろつかせてから、こくんと小さく頷く。

 明は伎国からやって来た。

 海を越えるからか、伎国と泰連国ではまるきり言葉が違う。

 怜央が留学に出る前、泰連語を習得する際に、一緒に明も勉強していた。だからある程度の泰連語を話せるが、所詮は他国の言語。

 留学していた怜央と比べ、旅路で学び直したとはいえ、渡航したばかりの明は、まだ会話が流暢にできない。

 できるだけ分かりやすいように話してくれる利超だけれど、今の長台詞は所々聞き取れない箇所が多かった。そうこうしているうちに右から左へと内容が抜けてしまったのだ。申し訳ない。

 利超は思案して、今度は子供にも理解できるような優しい言葉に言い換えてくれる。

「後宮に住めば、ご飯も寝るところもある。綺麗な衣も着られる。伎国の心配もしなくて良い」

 利超は明の手を包んでいた手を一つほどいて、彼女の頭をゆったりとした動作で撫でた。

「後宮は安全な所だと言いたかったのだ」

 明は利超の言葉を正しく理解し、こくりと頷いた。

「ありがとうございます、利超さま」

 明がふわりと微笑むと、利超もしわくちゃな顔により深く皺を刻む。

 まるで祖父と孫娘が戯れている光景なのだが、怜央がすっかり冷めた茶を口に運びながら水を差す発言をする。

「利超様、それ語弊がありますよね?」

「ごへい?」

「言い方のせいで勘違いしちゃうってことですよ。後で字も教えてあげます」

「はて?」

 明が聞きなれない言葉を繰り返せば、怜央が意味を教えてくれる。

 その横で利超はわざとらしく首を傾げた。

「間違った事は言ってない」

「間違いはないですが、大事な事が足りません」

 怜央の鋭い指摘に、利超は明後日の方を向く。

「後宮は皇帝の妃たちが住むところ。伎国は一夫一婦制ですが、泰連国は一夫多妻制です。明、この意味分かりますか?」

「王さまにはお嫁さんが沢山なのでしょう?」

 明は昔聞いた泰連国の仕組みについて思い起こした。

 泰連国の後宮の話は、巷で人気の草紙などにも多分に含まれていた。

 特に伎国で人気だったのは、お妃様が沢山いる中で、王がたった一人の妃を愛する話。寵妃は多くの妃の嫉妬や嫌がらせをはねのけて王と結ばれる。そんな愛の物語。

 明は物語の後宮を思い浮かべてうっとりする。

 豪華絢爛な調度品や極彩色の衣。国宝級の装飾品。自分だけを愛してくれる人。そのどれもが夢のような景色。

 生きている間に一度は体験してみたいと思っていた明にとって、これは好機なのだとちょこっと思ってしまったのは事実。

 けれど怜央が言いたいのはそう言うことじゃなくて。

「悪い人がいるかもしれない?」

「そうです。だから絶対に安全だとは言えないのですよ」

 物語の闇の部分。お日様の下を歩く寵妃にかかる陰。

 愛されるお妃様は、愛される分だけ嫌われる。後宮は女の園、王の見えないところで嫉妬や陰謀が渦巻き、嫌がらせが行われる。

 明は想像してちょっと複雑な顔になった。

 憧れはするが、実際になるのかどうかは悩みどころ。

 ただ言えるのは、自分みたいな人間が王様に見初められることは無いだろうということ。だからきっと大丈夫。

 物語で見たような、ご飯に虫が混ざっていたり、寝ている間に部屋に蛇が侵入したり、贈り物の中に毒針が混じってたりなんてこと、あるわけがない。

 怜央に心配は無用だと言いたいが、彼は彼なりに心配してくれているのだ。余計なことは言わないでおこう。

「そのことなら大丈夫であろう。今の皇帝は女性に興味を示さない。それはもう、世継ぎ問題が心配になるくらいにな」

「そうなんですか?」

 利超はそうだと大きく頷く。

「だから後宮の妃たちも気長に待つばかり。ちょっぴしばかり、退屈しのぎの悪戯をされることもあるだろうが、笑って許してやってほしい。度が過ぎるものは見過ごせんがな」

「全ッ然ッ安心できませんよ!?」

 怜央が利超に向かって叫ぶ。

 でも当の本人はいたって普通だった。

「にいさま、悪戯も大丈夫。悪戯したら倍で返せばいいのでしょう?」

「それは高貴な人たちにやってはいけませんからね!?」

 まさか明がそんな物騒な考え方をするとは思っていなかった怜央が、彼女の方を振り向いた。

「あぁ……僕が留学している間、僕の可愛い明が少しばかりやんちゃになってしまいました……」

「お前が留学してきたのが六年前……その頃明殿は幾つかね?」

「いくつ?」

「年齢のことです」

「えーっと……十一です。今、十七なので」

 ん? と利超は首を傾げた。

「十七?」

「伎人は泰連人と比べて幼く見えますから。特に女性は顕著ですよ」

 そうなのかと利超は不思議そうにしながらも頷く。

 背が低く、幼子のように見えてはいたが、立派な女性だったらしい。

「十一なら年頃になったばかり。六年もあれば人は変わるだろうなぁ。その頃は何をしていたのかね?」

「家のことをしていました。お嫁さんの練習と、祭りの練習」

 ほう、と利超は軽く目を開く。

「伎国名物の祭りか」

「珀家は女系の一族でしたから、長女の明が継ぐことになっていました。明、僕がいない間も、頑張っていたんだね」

 怜央がうんうんと頷くと、明はくすぐったそうに笑った。

「にいさまが頑張ってるから、私も頑張りたかったの。にいさまに成長した姿見せたくて」

 明の健気な告白は、怜央を感極まらせた。

 なんてできた妹なんだとぼたぼた大きな涙をこぼす。

 利超もまた、志が高く、自己のしっかりした彼女に改めて感心する。怜央の大袈裟な反応は黙殺した。

「にいさまは私が頑張ったこと、知らないでしょ。でも、それは私も一緒。泰連で過ごしていたにいさまを、私も知らない」

 兄が何をしていたのか明は知らない。

 でもたかが一学生が、身分が相当高い蘇利超と懇意になるなど、それなりの何かがあったと考えるのが妥当だ。最初、利超の身分を聞いたときに明は驚いて身がすくんだくらいだし。まさか兄が個人的に泰連国の重鎮の一人と交流を深めていたなんて。

「兄妹なのにこんなにも離れていると、結構知らないことも増えているものですね」

「もちろん」

「見た目が変わっていないから、中身もほとんど変わっていないと思っていましたよ」

 しみじみとする怜央に、利超が首を傾げる。

「見た目が変わっていない?」

「ええ。髪や身長は伸びていますし、体つきはより女性らしくなったとは思いますが……伎人というのを抜きにしても、もうちょっと女の子らしく成長していてもおかしくは……」

「ほう」

 怜央がちらりと明に視線を向ける。より詳しく言えば明の胸に。

 ぴったりと体に沿った伎国の衣装。泰連国の衣装だったらゆったりとして衣を何枚も重ねるので気にはならなかっただろう。

 十七という年を聞いてしまえば、泰連人女性の発育の良さを見慣れてしまった今、あまりにも成長していない部分が目についてしまう。

 明は怜央の言いたいことを察して、ぷくーっと頬を膨らませる。

「にいさま、最低」

「あ、いや、ちが……」

「ちがくないー!」

 利超の手を振りほどき、ぽかぽかぽかと明は兄を両手の拳で叩きにいく。

 怜央は痛い痛いと笑いながら逃げる。

 突然勃発してしまった兄妹喧嘩に、利超は優しい眼差しを向けた。

 しばらくはそれを見ていたけれど、収拾がつかないので、手を打ち鳴らして利超は注目を集めた。

「では明殿、後宮入りの話、進めておいてかまわないかね?」

「あ、はい」

「怜央も、明殿が後宮に入ればちょっとやそっとの事じゃ会えないのだから、今のうちに積年の話に花を咲かせるといい」

「え!?」

 あからさまに驚く怜央に、利超は呆れた顔をする。

「仮にも後宮。男が入れる場所ではない」

「そ、そうでした……」

 すっかり頭から抜けていたようで、怜央は愕然とする。

 それを聞いて明もそれもそうかと頷く。

 利超は「私は用事があるから」と遠慮して席をはずした。

 明はそれを見送って、冷めたお茶を淹れ直す。

 ぱっと茶器に沈められた花は、くるくると踊った。

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