第2話 はじめての後宮生活

 桃の花が散って、桜の花が咲く頃。

 ようやく後宮の生活にも慣れてきた明は、寝台でむくりと体を起こすと、ぐぐっと体を伸ばして脱力させる。まだ眠い。

 もう一寝入りしようかどうかと、ごろんと寝台に寝転べば「まぁ!」と明が起きた気配に気づいた女官が、大きく声をあげる。

 女官は卓子に昼餉を並べている最中だったのを一時取り止め、明の掛布を剥ぎ取りに来る。

 天蓋のとばりを捲った彼女は、明の横たわる寝台の惨状を目にして唖然とする。

「な、何をしているのですか! 寝台に草紙をこんなにも持ち込んで!」

「うー、江春もうちょっと小さく話して」

 寝起きの頭によく響く。

 うめく明を無視して、苗江春びょう こうしゅんは明の周囲に散乱している草紙を手早く集める。

「本を読むのはお昼の間だけと申し上げたではないですか。油の無駄ですよ」

「う、面白くて……」

 江春は草紙を集めると、とりあえず床へと下ろす。

 寝台の上の草紙を全て下ろすと、明がふぁぁと大きな欠伸を漏らした。

「これ全部読んでしまわれたのですか?」

「読んだけど、全部少しずつ分からない字、多くて……」

「この量の草紙に一通り目を通されただけでもすごいですよ。午後からはこれを教材にお勉強しましょうか」

 明はこくりと頷いた。

 後宮に来て早一ヶ月。

 明は宛がわれた宮に籠って、ひたすら草紙を読んでいた。

 江春に頼み、利超経由で城下の草紙を手に入れてきてもらってはそれを読み、分からない言葉を江春に教えてもらう。その繰り返し。

「よくもまぁ一ヶ月も籠っていらっしゃるとは思っていましたが、まさか昨日入手した草紙十巻を一日で読んでしまわれるとは思っておりませんでした」

 江春が呆れたように言えば、明は寝台から下りて積まれた草紙の前でしゃがむ。指で草紙の背をなぞる。

「だって面白いの。一番面白いのは、この四巻の話。西の女性が公子様をゆうわく? しちゃったのを、女の子が口付けて昔のに戻すの。普通逆よ? 眠る姫を公子様が目覚めさせるの」

「はいはい、分かりましたから。早く昼餉をお召し上がりください。せっかくのお料理が覚めてしまいます」

「はーい」

 少しだけ要領のえない明の言葉に江春が頷く。適当に返事をして江春が食事を促せば、明は立ち上がって、支度された卓子についた。

 明の言葉の習熟度は目覚ましいものがあった。

 幼い頃に兄について学んでいたのと、一年近くの船旅で基礎ができていたからか、大概のことは理解できていたし、読み書きも日常生活には十分にできるようになった。

 不安のあった会話も江春を話し相手に練習して、泰連人と遜色ないくらいには上達した。夢中で話すと、たまにおかしな言葉にはなるけれど。

 ここまで上達すれば、訛りのある田舎貴族と遜色ないので、伎人と疑われることはないだろう。

 江春は草紙を拾って、棚の方へと移動する。

「今日はお天気もよろしいですから、午後からはお散歩にでも行きましょうか。見頃の花も多いですよ。お話も上手になられましたし、他のお妃様に会っても世間話程度に困ることは無いでしょう」

 粥を匙で口に運びながら、明は思案する。

「お散歩より草紙が気になる」

「そういうと思いました」

 本音を言えば、江春は草紙を本棚へとしまいながらそう返す。

「でもよく考えてみてください。引きこもっているから気づいていないでしょうが、ここは後宮です。貴女が草紙で読むようなお姫様の世界なのですよ。引きこもってばかりでは体にも悪いですし」

「……はっ、確かにっ」

 匙からぼたっと粥が落ちる。

 明はせっせと粥を口に運んで食事を終えると、食後のお茶を淹れる江春に「散歩に行きます」と告げた。

 江春はにっこりと微笑むと、ささっと食器を下げる。

 明が食後のお茶を楽しんでいると、一度下がった江春が、いつものような過ごしやすい衣装ではなく、めいっぱい華やかさを盛り込んだ装飾品と、凝った刺繍があちこちに施されている衣装を持って戻ってきた。

「嫌」

「駄目です。他のお妃様に劣っては見下されてしまいますよ」

「嫌ぁ~! 似合わない~!」

 一目見て真顔で拒否すると、応援を呼んでいたのか、江春の合図で女官が一斉に明の部屋へと入ってくる。女官は嫌がる明を無理矢理立たせ、腕や胴を固定し早業で江春が選んだ衣装を着付けていく。

 朱鷺色ときいろが基調の衣は首から胸元にかけて開いており、腰でぐるりと帯が結ばれる。帯には緻密な刺繍が施されており、刺繍のない衣装との調和が取れている。袖がないので、上から襟元に刺繍の施された衣を羽織らされる。

 ささっとそれだけ着付けると、女官は退出していった。

 明がその早業に呆気にとられていると、江春は明の手を引き、化粧台の前に座らせた。普段は隠されている鏡から布を取る。

「さ、お顔を拝借いたします」

 明は観念して、江春にされるがままになる。

 髪は高く結い上げられ、複雑に編み込まれる。化粧は白粉をはたき、眉を描き、頬紅をして紅を差した後、額に花のしるしを施される。

 大輪の花の簪と小粒の耳環、豪奢な首飾り。

 それらを順に着けていけば、王の華の出来上がり。

 満足そうな江春を横目に、明は重たい頭と冷たい首元にため息が出る。あぁ、散歩に行くなんて言わなければ良かった。こんな豪奢な衣装は、伎国の祭りの時にくらいしか着ないから、着心地が悪すぎる。

 あれよあれよと言っているうちに見た目だけは完璧な妃に仕立てあげられた明は、最後の抵抗とばかりに、えいっと簪を外した。

 放り投げてやろうと思ったが、高価なものだと思い直す。化粧箱を片付けていた江春の前にずいっと簪が差し出された。

 ほどかれた髪を見て、江春が短い叫びをあげる。

「明様!」

「衣装は着るけれど、頭重たいのは嫌」

 散歩に行くだけなのに頭が思いと無駄に疲れそう。

 くしゃくしゃにされた髪を見て、江春はがくりと項垂れた。




 結局、乱れた髪をもう一度櫛梳り、二つに分けて耳元でゆるく結んだ。江春がせめてとばかりに早咲きの牡丹の花を差し入れる。

 衣装の薄い赤と相まって可憐になりすぎてしまったと思うけれど、江春には「明様は幼く見えますので」と言われた。たぶんどころか確実に嫌みだ。

 二輪もの大輪の花が両耳のすぐ横にあると、歩くたびに花の香りがくすぐるし、簪以上に邪魔だ。慣れればそうではないのかもしれないけれど、視界の端にちらちらと映るので気になってしょうがない。

 ただの散歩なのに必要以上に仕立てられた衣装を引きずって明は花の道を歩いていく。

 桜の花だけではなく、あちこちに春らしい温かい色の花が咲いていて、少しだけ気分が晴れ晴れした。

 足が裳の内側で一、二、三、と拍子を刻む。頭の中には慣れ親しんだ伎国の楽が響いて、拍を取りながら明はあちらへこちらへと歩いた。

 早く言葉の不自由を解消しなければと勉強ばかりしていたけれど、たまには気分転換にこういった衣装に身を包み、外を歩くのも良い。ただ、衣装の好みはかなり違うが。

「ほら明様、ふらふらしていると転んでしまわれます。あちらのちんで一度お休みしましょうか」

 後宮の庭園を歩いていると、江春が池の岸にぽつりと建つ亭を差した。

 四つの柱に支えられただけの休憩所。腰掛けと石の卓子が備え付けられている。

 薦められるまま、花の道を通って亭の敷居をくぐる。腰を下ろして一息ついた。背中越しに池を覗けば、池には大きな蓮の葉が浮かんでいる。

「広いね」

「後宮ですもの。最盛期には百人もの妃が住まわっていたと伝えられていますから」

 百人。

 その規模を想像してくらりとする。

 高位の妃は一人に一宮与えられる。

 最盛期には百人の妃。宮の数を考えるだけでも相当な規模だったはず。その広大さはおして知るべし。

「どうです、久しぶりに外に出てみて」

「太陽は眩しいし、お花は満開。でもお姫様がいなーい」

 あまりにも広すぎるゆえか、道中着飾った妃とは一度も会うことがなかった。

 気分転換にはなったけど、そのことが少し残念。

「仕方ないですよ。百もの妃がいたこの後宮も、今では七人しかおりませんから。宮も離されて少し遠出をしなければ他のお妃様と会うことなどほぼないでしょう」

「えー、お姫様がいるって言ったじゃない!」

「言っていません。お姫様の世界とは申し上げましたが」

 綺麗なお姫様……もといお妃様を遠目に見てみたかったのに。後宮にいるということはさぞかし美姫なのだろうと楽しみだったのに。

 明は会えないならもういいやと思い、立ち上がる。

 この亭はなかなかに居心地がいい。ふかふかな枕とお茶、草紙を持ち込んだらとても有意義な時間が過ごせそうだ。

 明日からここで読書と洒落込もうかと考えていると、亭に続く一本道の向こうに人影が見えた。

「あれ、人?」

「はい?」

 江春が亭から出て誰が来るのか確かめようとする。

 ぞろぞろと十人くらいの集団のようだ。

 一本道ですれ違うのも大変そうなので、向こうがこちらに来るのを待つとする。

 亭から数歩出ていた江春が、慌てて明の側に戻ってくる。

「どうしたの?」

「明様、良いですか、心の準備をしてください、何があっても妃らしく振る舞うのですよ」

「え、あの、江春?」

盧淑妃ろ しゅくひ様と李徳妃り とくひ様です」

 江春が言い終わるか否か、盧淑妃・李徳妃の一行が亭に踏みいった。

 二人は亭に入ると、明を一瞥する。

 黄を基調とした衣装を纏った盧淑妃が一歩前に進んだ。一瞥どころではなく、じろじろと明を見てくる。彼女は明よりも頭二つ分背が高く、自然と見下される姿勢になる。

 じろじろと見て満足したのか、手元の団扇うちわでホホホと口元を隠して笑った。

「最後の一人がようやく引きこもるのをやめたって聞いたから来てみたけれど、また随分とお子ちゃまじゃない~」

蘇太師そ たいしが送り込んだと言うので期待していましたが……とんだ茶番ですこと」

 盧淑妃の影で、緑を基調とした衣装を纏う李徳妃が冷めた目でこちらを見た。

 何を言っているのかは分からないが、何を言われたのかは分かる。

 馬鹿にされたのだ。

 初対面の人に馬鹿にされる謂れはない。だから明はお返しとばかりにたっぷりと毒を含んで返してやる。

「なるほど、これが後宮の挨拶作法なんですね。知りませんでした。それにしてもすごく背が高いです。北の巨族きょぞくの方ですか?」

 二人の妃達の顔が凍りつく。

 ついでに江春も凍りついた表情になる。

 もっと言えば、妃二人が引き連れていた女官の空気も凍りつく。

 凍てついた空気の中、明だけが一人でにこにこと笑っていた。

 数秒の間の後、凍結から解けた李徳妃が盧淑妃の前に出る。

「それが四夫人しふじんであるわたくし達に対する話し方ですか、九嬪きゅうひん蘇昭容そ しょうよう?」

 団扇でどんな表情をしているのかは見えないが、その声には迫力がこもる。

 それは絶対的な自信。

 明が李徳妃に逆らえないはずの絶対的な理由。

 それを知らしめてやろうという優越感。

 でも明はそれを突き崩す。

「はい、そうですけど」

 明には悪気がなかった。

 もっと言えば半分くらいしか李徳妃の言葉を理解していなかった。

 だからこてんと小首を傾げて答えた。

 明の返答に、返す言葉が見当たらない李徳妃の顔が引きつる。

 盧淑妃が李徳妃の後ろでふんっと品なく鼻をならした。

「さすがお子ちゃま、教養がなってないわね。蘇太師も焼きが回ったのかしら。相手にしても無駄だわ、行きましょう」

 李徳妃がこくりと頷くと、二人で明に背を向けた。

 去り際、ちらりと李徳妃が明に目線をやる。

 それは狐が獲物を見つけた目によく似ていた。

「朱鷺の衣、身の丈に合っておりませんよ。蘇太師に違う衣をおねだりすることですね。次にお会いするのが楽しみです」

 嫌な台詞を残して盧淑妃と李徳妃は亭から去っていった。

 残ったのは明と江春と元の静けさだけ。

 去った二人を見送ると、明はくるりと江春の方を見た。

「私たちも帰ろっか。夕方になるね」

 何事もなかったように笑う明。

 江春はゆらりと明に歩み寄ると、ガッと両肩を掴んだ。

 笑ってはいるが、気配が笑っていない江春に、明の顔がひきつる。

「明様」

「は、はい」

「泰連国語のお勉強はもう十分ですので、お妃様修行いたしましょうか」

「え」

 明の目が点になる。

 江春はそんな明に構わず、彼女の手を取って、亭から移動する。

「今までお国の違いがありましたから、お言葉のことばかりお教えしておりました。ですがそのためにお妃様修行を疎かにしてしまったのは私の不始末。今日からびしばし鍛えていきますのでお覚悟を」

「え、今日からって、もう夕方になるよ」

「お妃様の一挙一動、今からでも十分お教えできます。あと泰連国の歴史、後宮のしきたりなどについても改めてお勉強しておきましょう。できれば言葉遣いももう少しお妃様らしくしませんと……」

 ふふふ、やることはいっぱいですよと鬼の笑みを浮かべる江春に、明は身がすくんだ。

 何がいったい江春のやる気をかきたてたのか……明らかに今の妃たちとの対面か。

 せっかく久々に外に出て良い気分だったのにと、明は二人の妃を恨みつつ、江春に自室まで連行される。




 その日はそれからずっと「お妃様らしい話し方」いうものを練習した。

 夜、江春の鬼指導を終えて寝台に横になった時、明はふと思い出す。

 ───そういえば盧淑妃と李徳妃て誰?

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