第19話 渡りの花の咲くところ

 蘇邸。

 数ヵ月前まで彼女が使っていた部屋で、意識の無い明が静かに横たわっている。部屋には明の他に静月、怜央、そして屋敷の主である利超がいた。

「解毒は三槐の手の中に、か……」

 静月はぽつりと口の中で言葉を転がす。

 許荀らしき人物が逃げた後、静月は宇澄を追捕の者達に加えず、単騎で雲架にいる三槐……蘇利超の元へと遣わせた。

 意識のない明を馬で運ぶのは危険だ。静月たちも即座に馬車を手配し、明を連れて雲架へ戻ってきていた。

 里江から雲架へは馬で駆けても半日はかかる。明の体力と毒。どちらが勝るか不安だったが、なんとかもってくれた。

 ……静月達は毒が何なのかが分からなかった。馬車を手配する合間に里江の港周辺の医者に聞いてみたところ、今の彼女の症状だけでは見当しかねると言われ、解毒に至らなかったのだ。

 怜央が明の横たわる寝台に腰掛け、彼女の頬に手の甲を当てる。子供よりも体温が高い。熱が出てきたか。

「許荀は利超様ではなく、三槐と言ったのですよね」

「ああ」

 怜央の問いに静月は頷いた。椅子に座ったまま、静月は視線を明から外して卓子を挟んだ向かいに座る利超の方にやる。

「蘇太師、あの許荀という男は何者? あの男が使った毒の解毒薬を知っていたのは何故」

 静月がまっすぐ利超を見つめる。利超は白く染まる髭を撫で付けた。

 利超は静月達を董立門で出迎えた。宇澄から話を聞いたと言って、蘇邸に案内し、明に予め煎じていた薬を与えたのだ。

 怪しまれるのはよく分かると利超は頷く。

「……解毒に関していえば、かつて我ら三槐が先代皇帝に言われ、とある男のために用意したものだ。三槐の毒と言われる物は一つのみ。明殿に毒をやったそやつが三槐に聞けと言うなら、それしかないだろうと踏んだまでだ」

 それ以上、毒に関しては答えられぬと利超は言い切る。

 仕方ないので静月は追求することをやめた。話したがらないことを聞いても、絶対にこの爺は話さないということを知っているから。

「だあ、あの許荀という男は何者だ。怜央は生きているはずがないと断言した」

 静月は一瞬だけ明の容態を見守る怜央に視線を向けた。妹を思う兄の姿はどこかもどかしそうに見える。

 利超もその様子を見ながら、静かに答えた。

「その認識に間違いはない。私も許荀は死んだと聞いておる。我が家人のことだ。間違いない」

「矛盾しています。死んでいるはずの許荀が、現に僕たちの前に現れて、妹に……明に……っ」

 熱に浮かされ浅い呼吸を繰り返す明の寝顔から、怜央は目を反らさない。

 声からにじむ怒りに、利超はどうやって話そうかと思案する。下手な話し方をすれば、間違いなく怜央は一蹴してしまうだろうし、納得しないだろう。

「……許荀は死んだ。それは変えられぬ事実。だが許荀が生きていたとお前たちは言う。主上よ、捕らえた伎人が許荀のことを子奇と呼んだのは間違いないのだな」

 静月は首を縦に振った。

 里江から雲架への帰路、峰維に簡単な事情聴取をした。楊凱がその役を進んでかってくれたが、その報告の中に、確かに峰維が許荀の事を子奇と呼んでいたことが含まれていた。

 静月の言に利超は確信を持つ。

 まさしくその男は子奇だったのだと。

「……子奇。かつて先代皇帝の御世にて、二度死んだ男」

 利超はもっともらしくその台詞を吐くと、懐から小さな匂袋を取り出した。既に香は失われ、布もくたびれている匂袋。

 机に置かれた匂袋を見て、静月は怪訝そうな顔をした。

「これは?」

「お守りのようなものだ。しかし私にとってではなく、子奇にとっての。子奇が奪われたといっていた物はこれのことだろう」

 利超は匂袋の封を解くと、中身を出した。

 中から出てきたのは、小さく折り畳まれた札。匂袋ほどくたびれてはおらず、少しの襤褸は目立つがそれでも綺麗な状態の紙だ。

 利超は厳かに告げる。

「これなるは御霊札みたまふだ。建国以来語り継がれる、人類の生死を司る炎寿仙えんじゅせんの札だ」

 丁寧に紙を広げれば、白い紙に朱墨で独特な紋様が描かれている。その紋様の中央には文字のような絵のようなものが黒墨で書かれていた。

「お伽噺のような話だろう。信じる信じないは各々の自由。ただし主上よ、これだけは肝に命じておくと良い。常に何かがあったからこそ後の世に残るのだと。泰連を統べる皇帝として、これをどう解釈するかは主上の御心次第」

 利超は皺だらけの顔に更に皺を刻む。

 静月は机に出された札をじっくりとみた。

「……つまり?」

「死んだ許荀の肉体が子奇という男に乗っ取られて僵尸キョンシーになったと言っても信じぬだろう。むしろ私も信じてはおらん。だが、信じようが信じまいが、結果は変わらんから、気にしない方が良いが、事実は受け止めておけということだ」

「そうか」

 静月は間を開けずに頷く。矛盾しているその物言いに、内心ではとうとう頭がおかしくなったかこの狸と思っているのは内緒だ。

 静月の内心など露知らず、利超は紙を再び綺麗に折り畳むと、匂袋の中にしまった。

「この件に関しては生きておった許荀が利超の宝を狙った、という風にしておくのが無難だろうな。子奇は伎人を上手く丸め込み行動していたが、最終的には目的の不一致により決裂。伎人はこちらに寝返った……というところかなぁ」

 利超が適当に話をでっち上げる。子奇という僵尸キョンシーのことなど大真面目に論じた所で意味はない。朝廷における、里江での子奇や峰維とのやり取りはそれで統一することにする。

 静月は利超に他の者にも通達しておくように伝えると、もう一つ肝心なことを確認した。

「留学生帰還の交渉は正式なものとして私が直接預かる。異論はないな?」

「無論。朝議にかけるとよろしいかと」

 利超が頷くのを見て、これで話すべきことはなくなったかと静月は椅子に深く腰掛ける。

 けれど、まだ話すべきことはあった。

「謝罪は」

 今まで明を見ていた怜央がぽつりと漏らす。

 怜央は険しい顔で利超を見た。

「謝罪は無いのですか、利超様。明にはあれだけ安全を説いて後宮に入れたのに、結局危ない目にあってしまった。明も僕も、これで伎国に戻る必要はないと安心していたのに、この仕打ち……!」

「……」

 声を震わせる怜央は、決して利超の方を見ない。

 静月は感情を露にする怜央に視線をやった。妹を思う彼の気持ちはいかほどか、静月には理解できなかったけれど、それでも彼の中で後悔や無力さが渦巻いているのは想像に難くなかった。

 その怜央に、利超は無慈悲な言葉を告げる。

「後宮入りとは何のことか、怜央。明殿はずっと蘇邸にいた。たまの外出を狙われたのは仕方ない。その事は彼女が起きてからまた謝罪しよう」

 これには静月も目を丸くした。

 怜央は相変わらず顔をあげない。

「……明の後宮入りの事実すら、無かった事にするのですね」

 怜央はそう吐き捨てると立ち上がった。

「氷枕もらってきます」

 そう言って怜央は部屋を出ていく。すれ違い様に見た彼は白くなるくらい強い唇を噛んでいた。

 怜央を見ることなく茶を啜る利超に、静月は冷えた眼差しを向けた。

「蘇昭容の後宮の退室なんて私も初耳なのだけれど?」

「三槐で決めたことだ。珀明がここにいると伎国に知られた以上、後宮に入れておくのは後々厄介になるだろう。それなら最初から無かった事にしておくのが最良だ」

「胡散臭いな。あれだけ手駒のように私に仕向けてきていたのに」

「気のせいだろう」

 本来ならこの程度、気づいてもらわないと困るが、深く言及されるのも体裁が悪い。利超は笑いを含み、茶の最後の一口をあおると立ち上がった。

「明殿は今後も子奇に狙われるだろうな。皇帝にも繋がり、私に対しても先制できることが証明できたのだから」

「何が言いたい」

「ここで再び珀明を後宮にいれる利が、私にも主上にもないということよ」

 全てを言わない利超は、そう言い残して部屋を出ていく。

 静月は一人で部屋に取り残された。

 利超は明を後宮にもう一度戻すことは考えていないと知り、何だか胸が締め付けられる思いがした。

 二度と彼女と後宮で見えることは無いのかと思うと、心にすきま風が入りこんだ気分になる。

 言い難いその感情に、静月は深く深く、息をついた。



 ◇



 体が熱い。

 燃えるように熱い。

 熱に浮かされた明の意識が不意に浮上する。

 ぼやける視界。見慣れないが見覚えのある天井。ここは後宮ではなくて蘇邸なのかなとぼんやりと考える。

 とりあえず、喉が渇いた。水を貰えないかと、明は上体を起こそうと重たい体を動かした。

「起きたか」

 冷たい、せせらぎのような声。声の方を見れば、寝台に腰掛けて明の顔を覗いている静月と視線があった。

「おうさま……」

「まだ寝ていた方がいい。熱が出ているから」

「……」

 明は霞がかる頭で静月の言葉を聞くけれど、上手く言葉が入ってこない。言葉が継ぎはぎだらけの布のようになってしまって、散らかってしまう。

「み、ず」

 なんとかぼんやりとする頭で単語を見つけると、明はその単語を口にする。

 静月は明の言葉を聞き取ると、卓子に置いてあった水差しから水を茶器に注いだ。それを明に手渡す。

 明はこくりと水を飲む。ゆっくり、ゆっくりと飲み干すと、雲がかっていた思考は少しだけ晴れた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 静月は明の差し出した茶器を卓子に戻す。

「ここは……後宮だ、ないわよね」

「そうだよ」

「どうして王様、ここにいるの? 戻らなくて大丈夫なの?」

 明が純粋に疑問に思った事を聞けば、静月は何故か悲しそうな顔をした。

 茶器を戻すと、静月はまた明の側によって来て、寝台に腰掛ける。

「もうすぐ、帰る。起きている君に、最後に伝えたいことがあったから」

「……最後?」

 どういうことかと思って明が聞き返すと、静月は先程の利超と怜央のやりとりを明に伝える。

 明はようやくそこで、自分が後宮には戻らないということ知った。

 それなら確かに彼と言葉を交わすのは、最後になるのだろう。

 皇帝と話すことなど、本来なら一生に一度も無いはずだったのだ。静月は何かしら思うところがあって、その最後の機会のために待っていたのかもしれない。

 そう思うと、明の胸はほんのりと温かくなった。よかった、最後があんな終わり方にならなくて。

 明がほっと胸を撫で下ろすと、静月が明をじっと見つめて口を開いた。

「君に、伝えたいことがあるんだ」

 彼の榛の瞳に明が映り込む。明もまた、その瞳に静月を落としこむ。

「私に、伝えたいこと」

「そう」

 明が少しだけ首を傾げる。

 静月は、ゆっくりと彼女に手を伸ばした。

「生きてもいいと思えることが、見つかったんだ」

 静月の男性のわりには細い指が、明の頬を撫でる。明は軽く瞠目して、甘えるように静月の指にすり寄った。

「そう……どんなこと? 聞いてもいい?」

 静月はまだ熱のある明の頬から、熱を少しずつ奪い取っていく。

 静月が明の言葉に応じた。

「君を、私の本当の妃にする。伎国からも、今回の事件の犯人からも、君自身からも君を守って、そしていつか、どちらかが死んだ後も幸せになれるようにしたい」

 明が目覚めるまで、静月はずっと考えていた。

 明を後宮から退室させるという話を聞いてから、ずっと胸の内がざわついていた。

 静月は当然のように明を後宮に連れ帰るつもりでいた。まるで利超から、明を守るには力不足とでも言いたげに明の後宮からの退室を聞かされ納得いかなかった。

 でも、それで気づいた。あれほど後宮の慣習が嫌で妃を取りたくないと周囲に言い続けた自分が、当然のように明を連れ帰ろうとしたことに。

 どうして当然のように彼女を連れ帰ろうとしたのかを考えて腑に落ちた。

 静月は明のことを大切に見守っていたい。

 そう、思った。

 でも、思うだけでは足りないことも、静月は知っている。

 静月はその美しい顏を曇らせて、情けない声で話を続けた。

「けれど君は、私が今のまま惰性で生きてもついてきてはくれないし、私自身、今の後宮には君を招きたくない」

 静月は頬をなぞる指で、つと明の顔を上向かせる。

「だから、約束して欲しい」

 明の体温が指先から伝わる。静月の瞳が熱を孕む。

 眩い月に見つめられて、明の胸がとくとくと早鐘を打つ。

 なんて綺麗でいて、力強い瞳なのだろう。その強さに惹かれて、目が逸らせない。

 静月の熱量に囚われた明に、彼はさらに極上の笑みを向けた。

「私が迎えに行った時、君がまだ寄り添う枝を見つけていなかったら。その時は私が君という花を摘み取っても良いかな」

 寝台が軋む。

 静月が少しだけ明に近づいた。

 これ以上はまだ近づけない。彼女に近づくには自分というものがまだ足りないから。

 明は静月の言葉をゆっくり咀嚼する。枝、花。植物の事かと思って、違うと打ち消す。

 明がぼんやりとして何も答えないから、静月はもう少し攻めてみることにした。

「いつか君と私の子が、笑って皇帝になれるように。私は努力しよう」

 静月と明の子。

 その意味を理解して、明は頬を真っ赤に染めた。

「そ、それは、っ」

「まだ先のことだよ。私が望むだけの未来。我が儘だけれど、願うくらいは良いだろう?」

 静月は目を細めて、無邪気に笑った。

 明は静月もそういった表情ができるのかとほだされそうになるけれど、駄目だと理性が働いた。

 心も体も彼に摘み取られる。その甘美な誘いに手を伸ばしたくなるけれど、その未来に絶対の保証はない。

 幸せが続くと思っていた伎国の生活だって、呆気なく終わりを迎えたのだから。

「……ねぇ、王様」

 明の瞳が熱を帯びる。

 上気した頬を紅葉のように色づかせ、彼女は静月を見つめる。

「私も、我が儘を言って良いかしら」

 もし、明が幸せになることが許されるのなら。

 一つだけ、我が儘を言わせて欲しい。

 静月が静かに頷くと、明は少しだけ恥ずかしそうにして目をそらす。でもちらりと静月を上目遣いで見やった。

「もし……もしそんな未来があるなら。心から私だけを愛してください。伎国はお嫁さんを一人しかめとらないの。王様の貴方にそうしてなんて言えないけれど、せめて心だけは私に」

 欲張りだとは思ってしまう。けれどこれは明の夢なのだ。

 相思相愛、比翼の連理。

 そんな風に愛し、愛されたい。

 静月は言葉がつまった。まさか明からそんな言葉を聞くとは思っていなかったから。ぎゅっと締め付けられる胸にどうしていいか分からなくなる。

「……そんな言葉、必要ないのに」

 静月は囁くと、明にもう少しだけ近づく。

 もう少し、もう少し。

 その距離がいつしか縮まって、明との距離がなくなる。

 そっと、静月は明の唇に触れた。

 二人の熱が、唇からじんわりと混ざりゆく。

 唇が触れたのはほんの一瞬。

 明が顔を真っ赤にして、掛布で口許を覆う。

 静月は彼女に微笑んだ。

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