第27話「ニンファエアとサーシス(死)」

 気が滅入りそうな曇り空とじっとした湿気に包まれた六月の梅雨時。

 その日の講義を全て消化して帰宅した私は、玄関である異変に気付いた。


 靴がいつもより多い。

 白を基調とした靴は隼人が好んで履くスニーカーで、赤のハイヒールは母のものだ。

 だが、それに加えてもう二足、黒の革靴が整列していた。


 時間帯から義父が帰ってきているとは考えにくい。

 とすれば、来客だろうか。そう当たりをつけながら、私はリビングに続く扉を開ける。


 案の定、中には来客の姿があった。


 応接用のよくなめされた革張りソファ。

 そこに腰掛けているのは、黒服を着た二人の男だ。

 母と隼人も彼らと向かい合うようにして座っているが、その表情を見るにあまり楽しい話題ではなさそうだった。


 黒服の一人、前髪をオールバックで固めた痩せ型の男が、私も座るようにと視線で促す。

 私が隼人の隣に腰掛けるのを見届けてから、男はおもむろに口を開いた。


「――久遠透さまが、殉職されました」


 隣に居た母がはっと息を呑む音をあげ、手で口元を覆った。

 感情が追いつかないのか、はたまた言葉そのものの理解を放棄したのか――隼人はいまいちしっくりきていないような曖昧な表情を浮かべる。

 対して私は、酷く冷静にその言葉を受け止めていた。


「現在、ご主人のご遺体は、IEAが所轄する安置所で保護されています。透さまの遺言がない限りは、ご遺体の処置及び各種手続きはご遺族の方に一任されます」


 痩せ型の男が事務的な説明を行い、もう一人の短髪で恰幅の良い男が、今後の遺体処理に関わる幾つかの書類を机に広げた。


「ご主人は上級エンバーマーとしてIEAと契約を結ばれていたので、賞恤しょうじゅつ金に加え、生前の功績に応じた特別功労金が支払われることになっています」


 彼らにしたら、こういった経験は一度や二度ではないのだろう。

 痩せ型の男は、遺族の中で私が一番正常を保っていると判断したのか、途中から母ではなく私に向け説明を行っていた。

 最も故人と縁の遠い人間が、彼の死後の手続きを詳細に聞いているというのはなんとも奇妙な話に思えた。


「次にご遺体についてなのですが――」

「引き渡してもらえますか?」


 諸々の契約に基づく手続きの説明が終わり、遺体をどうするか尋ねられた途端。

 ――母が、突然話に割って入った。


「久遠透の遺体は、こちらで預からせてもらいます」

「……了解致しました。では、死後二週間はエンバーマーの監視をつけるという形で?」

「ご存知かと思われますが、私はIEAお抱えの研究者です。当然エンバーマーの伝手つてもございますので、そちらから手配していただく必要はありません」


 言われた痩せ型の男は申し出を断られたことで、僅かに眉を寄せた。が、無理に事を荒立てたくもないのか、幾つかの条件を掲示した上で最終的には譲歩する形となった。


「――では、手配するエンバーマーが決まり次第、IEAにご一報下さい。こちらで問題なしと判断できましたら、ご主人のご遺体を搬送致しますので」


 そう言い残し、二人の黒服が去っていく。


 鉛のように重い空気に包まれた室内に、隼人の啜り泣く声だけが虚しく響く。


「っ……ぐすん。うぅ……お父さん……」


 背中を痛いほど震わせ、嗚咽を漏らす隼人を慰めようとして、私は言葉を詰まらせる。

 唯一残された肉親の死。それを慰めるだけの言葉は持ち合わせていなかったのだ。

 言葉の代わりに、私はうずくまる隼人の背中をさすり続けた。

 今の哀しさを、これから来るであろう虚しさを、形となって吐き出せるのはきっと今しかないから。

 吐き出せなかった感情は、一生身体にこびりつくから。

 だから、自分の掌の感覚がなくなるまで何度もそれを繰り返す。

 ぐちゃぐちゃになるまで吐き枯らして、空っぽになってくれますように、と。


 母は……隠した。

 涙を流すこともなければ、感情を露わにすることもなく、ただ淡々と資料を見ていた。

 溢れた思いをとどめてしまえば、消せないシミが心に残る。

 けれども、母は黙って呑み込む。

 ――空っぽなんて御免とばかりに。


 ***


 葬式はしめやかに行われた。

 久遠透という人間は同業者からは非常に評判の良かった男だったようで、親族の少なさを打ち消すかのように、多くの同僚が足を運んだ。


「まさかお前が先に逝っちまうとはな。棺桶の中からお前を見上げるのは、俺の役目だと思ってたのによ」

「透さん……今までお疲れ様でした……もう苦しませないですよ。還ってきても、私の手で……終わらせますから」


 棺桶で眠る彼に、それぞれが思い思いの言葉をかけていき、中には堪え切れず涙ぐむ者もいた。

 家という狭い世界でしか彼を知らなかった私には、目の前の光景は酷く新鮮で、同時に義父のことを何も知らないでいたという事実を痛感させられることとなった。



 別日に、母が呼んだエンバーマー二人の監視の下、家族三人だけで遺体の火葬が行われ、義父の弔いは終わりを迎えた。


 本当にあっという間だった。

 悲しむ時間が最も必要な家族が一番忙しさに振り回されるという葬式の仕組みは、何とも皮肉なようで、逆に言えば抱え切れない感情を忙殺してくれてるようでもあった。

 母も隼人も幾分か心の整理がついたようで、心なしか前向きな発言が増えた気がする。


 雨降って地固まる、という言葉は余りに不適切だろうか。

 けれども、それほどまでに歪み切った私たち家族の歯車が、大きなものを喪ってようやく正常に回り始めた気がした。

 殆ど隼人に干渉することのなかった母が、何かと隼人を気にかけてくれるようになったのだ。

 それは、私にとっても嬉しい変化だ。

 幼くして実母を亡くした隼人が、心の奥底でずっと待ち望んでいたのが母親の存在だ。

 実の父も亡くしたこの時期に、母がそれを担ってくれるのは非常にありがたいことだった。



 ◇◇◇


 義父の葬式があってから数ヶ月の間、私は毎日をふわふわした心持ちで過ごしていた。

 まるで浮力に支えられた氷塊の上に立っているような不安定な感じ。

 大地のような強固な土台の上ではなく、ちょっとした衝撃でひっくり返ってしまいそうな、そんな日常。



 その日は午後の講義が休講だったため、私は普段より早く帰宅していた。

 ワイドショーを流し見しながら掃除機をかけていると、チャイムの音が部屋に飛び込む。

 何かの集金だろうか。

 玄関の扉を開けると、スーツを着た女性が立っていた。


「どちら様でしょうか?」

「えっと……私、久遠隼人くんのクラスの担任をしています、森園と申します。今日は隼人くんのことでお話がありまして――」


 話を聞くに、最近隼人が休みがちなので、家を訪ねてきたそうだ。

 何度か電話で確認をとったみたいだが、流石に心配になり家を訪ねてきたらしい。


「隼人くんのお母様からは、お電話で父親が亡くなったショックで塞ぎ込んでいると聞いていたんですけど。だったら、私も相談に乗れないかなと思って」


 まだ若い見た目から察するに、初めて担任を受け持った先生なのだろう。空回りとも言えるその熱意のおかげで、私はある食い違いに気づく。

 今朝、制服姿で家を出たのにも関わらず、隼人は学校に行っていない。

 そして、母もこの件に一枚絡んでいる。

 酷く嫌な予感がした。


 適当に言い繕って森園先生には帰ってもらい、私はすぐに家を飛び出した。



 私の通う阿僧祇あそうぎ大学の近くにある附属病院。

 母の研究室はそこの地下二階、霊安室のすぐ隣に位置している。

 受付に久遠春香の娘であり、阿僧祇大のレヴェナント研究科生であることを伝える。

 半ば強引に押し切る形で許可を取り、足早に研究室へ向かった。


 研究室の鉄製の扉を両手で押すようにして開けると、ムワッとした不快な臭気が鼻腔に染みた。鉄分を含んだ生臭さと何かが焦げた匂いだ。


「なによ、これ……」


 元の色も分からないぐらい真っ赤に染まったシーツが敷かれた手術台の上。酷く見覚えのある顔が意識なく横たわっている。

 紛れもない私の弟。だが、"それ"が隼人だと認識することを、私の脳は激しく拒んだ。


 上半身が剥き出しになったそれは、胸からお腹にかけておびただしい程の傷がつけられていた。

 刃物でつけられた何重もの切創と、抉られた刺創しそう

 綺麗な余白を塗り潰すように焼きごてが当てられ、赤く爛れた皮膚。

 爪は全て剥がされ、展示物のように対応した指先の前に並べられている。

 脇腹には剥皮創はくひそう、皮が――


 でも、その顔だけは綺麗なままで、私を現実から離さない、突きつけてくる。それは隼人だよって……


「あら、凛花。今日はまだ大学じゃないの?」

 

 診察台の横、何枚ものモニターが置いてあるデスクと肘掛け椅子。

 そこに座っている隼人をぐちゃぐちゃにしてしまった張本人は、いつもの調子で私の名前を口にした。


「……は?」


 血が沸騰ふっとうした。

 全身に流れる血液が殺意と憎悪、そして激しい羞恥に暴れていた。

 目の前の女と同じ血が流れていることへの拒絶。

 下唇が噛み切れたのか、鉄の味がした。


「そんな今すぐ飛びかかってきそうな怖い目で見ないでよ。私を殺したいの? 駄目よ、隼人も一緒に死んじゃうもの」


 血と涙の成分は殆ど同じらしい。

 だから私には、自分の顔がどうなってるかなんてよく分からなかった。


「なんで……隼人なの……?」

「ふふっ、凛花は私の娘なのにお馬鹿さんね。隼人は、透さんとあの女――冨士原優里の子供でしょ? 私は富士原裕里の死体を蘇らせようと研究を続けてきた、それも全部透さんのため。でも、その透さんが逝ってしまった……!」


 苦悶の表情を浮かべた母はおもむろに一本の注射器を取り出す。


「薬はもう完成してたの。でも、これは富士原優里の死体を動かすための薬、透さんのためのものではない。

 でも――気づいたのよ。この薬と透さんを繋ぐただ一つの道筋を」


 久遠春香は椅子から立ち上がると、隼人の腕へ乱暴に注射器を打ち込む。

 瞬間、隼人の身体がビクンと跳ねる。

 えぐれた肉が埋まっていく。めくれた表皮が貼り替わる。火傷の跡が消えていく。

 目を疑うような超回復で隼人の身体は修復していくが、それでも幾つかの傷は治りきらず痛ましく残されている。

 目の前の光景に唖然としていた私に、母はうっとりした声色で囁きかける。


「凄いよね? まるで魔法みたい。擬似的なレヴェナント化を身体に強制させるの。致命傷の傷でも、あっという間に元通り。でも、これは富士原優里の身体に合わせて作ったものだから、透さんには使えない!」


 煮え立った私の頭でも理解できた。

 冨士原優里の血が半分流れた隼人なら、不完全ながらこの薬にも適応できる。

 そして、隼人の血のもう半分は久遠透のもの。

 隼人の身体で薬を試し続け、成功したなら――


「いずれは、久遠透の死体を蘇らせる。隼人はその為の……繋ぎ」

「そう、凛花は賢いね。流石は私の娘だ」

「……黙れ。あんたみたいな女が母親だなんて」

「――そ・れ・は、こっちのセリフよ。あなた、私の何を見てたの? 隼人の身体はもうボロボロだよ? 同じ血が流れていようと、隼人は優里さんじゃないんだから完全には適応できない。ましてやこの薬は死体に打つもので、生命活動が続いてる人体に打つものではない。30分以内の傷なら修復できるけど、それ以前の傷は治らない。拷問の傷と無理な薬の投与で、隼人は内も外ももうボロボロよ」


 私の視界の隅で、意識のない隼人の身体が小刻みに痙攣を起こしている。


「凛花、あなたは全てにおいて私に負けてるの。愛の重さも能力も地位もそう、なにもかも。本当に隼人のことを想っているなら、家族という形にこだわらず力尽くでもこの子をあの家から連れ出せば良かったのよ。監禁してでも隼人を守ってあげなきゃいけなかった――違う?」


 この女の言うことは、無茶苦茶だ。それは隼人の幸せとは程遠い。

 ――でも、ここにある結果が全てだ。


「この実験をIEAに告発する……!」

「できるの? 日本中、いや世界中どこを探しても、私よりこの研究を知り尽くしてる人間はいない。もし私が研究職を追われたら、隼人はもう助からないよ? いま隼人に打った薬は、細胞の超回復を促すアッパー系の薬。でもこのままだと、無理な回復に隼人の身体は耐えきれない」

「……っ! じゃあ、早くそれを止めてよ!!」

「――私を告発する?」

「……しない……から。お願い……します」


 久遠春香は私の答えに満足そうに頷くと、デスクから別の注射器を取り出し、隼人に打ち込む。

 すると、隼人の痙攣は徐々に収まっていき、荒かった呼吸も落ち着きを取り戻していく。


「隼人も協力してくれたんだよ。隼人の身体で実験すれば、お母さんもお父さんも還ってくると伝えたら、『好きにしていいよ』だって。きっと私に初めて頼られたのも嬉しかったんだと思うよ」


 私はじっと目を閉じて、ただひたすら唇を噛み続けた。

 この女を殺したい。けれど、一番殺したいのは自分自身だ。

 下唇がずたずたに裂けて、口の中は鉄の味しかしない。

 目の前の女と同じ血が私にも流れていると思うと、反吐が出そうだった。

 けれど、研究者としても、同じ女としても、私は彼女の劣化品。

 その事実が悔しくて、死にたくなる程情けなくて。


「やっぱり親子かしらね。同じ血が通った男の人を好きになるなんて。でもダメね。次はもっとあなたも狂わなきゃ」


 母の言葉に耐えきれず、ついに私は瞼を下ろして暗闇に逃げ込む。

 ――そして、反応に遅れた。



 まず耳に飛び込んできたのは、研究室の扉が開く音だった。

 続けざまに、複数人の慌ただしい足音が鳴る。

 一瞬遅れて瞼を開けば、武装した黒服の集団が私と母を囲んでいた。

 銃口を向けられ、手を挙げるよう無言の指示が飛ばされる。


「手荒な真似をして申し訳ありません。」

 先頭に立つ七三分けの男が、申し訳なさなど微塵も感じさせない様子でそんなことを口にする。

「久遠春香さま。貴方には、遺体の不法所持並びに重大な研究規約違反の疑いがかけられています」


 七三分けの男は、なにやら令状のようなものを取り出し、母に手渡す。

「っ、研究施設の差し押さえと、研究権限の剥奪……?」

「はい。もちろんそのような疑いが事実無根であるならば、すぐにでも撤回致します。ですが――」

 そこで男は一旦言葉を区切り、診察台で横たわる隼人に視線を移した。

「どうやらその可能性は限りなく低そうですね」


 母は男の言葉が理解できないといった様子で、段々と語気を強めてその横暴を問い詰めようとする。

「なにこれ……? そもそもここはIEAの管轄外、ただの病院の研究室で、貴方たちが立ち入っていい道理などないはずよ!」

「道理ならば、その令状の効力にあります。つまり、IEAが令状を発布するに至った確かな根拠と証拠があったわけです」


 そう言って男は、なぜか私を一瞥いちべつした。

 それに気づいた母も、後を追いかけるように顔を向ける。

「まさか凛花……あなた!」


 ――違う。私は何もしていない……


 男が手を打ち鳴らして、話を制する。

「まあ、詳しいことは取り調べでお聞きしましょう。この場に居合わせた娘さんにもね」

 その言葉を皮切りに、私は為す術もなく連行されていく。

 母は膝から崩れ落ち、絶望を纏った慟哭をあげていた。


 目まぐるしく動く状況の中でも、私の憂いは変わらず一つ、隼人が無事かどうかであった。

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