第16話「如月は、葉月よりも睦月の距離感を望む」

 如月 葉月きさらぎ はづき。二月と八月で、苗字と名前が半年離れている。名付け親は、お母さんらしい。なんで葉月という名前にしたのかは分からないし、もう聞くことはできないと思う。


 如月家は3人家族だった。中学教師をしているお父さんと、専業主婦のお母さん。その間に生まれたのが、あたし。

 お父さんは、あたしが通っている中学校の先生をしていた。如月先生は、生徒の悩みをよく聞いてくれて親しみやすい先生だと評判だった。

 でも、あたしが中学二年生の時。お父さんが、女子生徒に淫行していたことを知ることになる。学校側にバレることはなかったが、夫婦仲は一気に冷え込んだ。今思い返せば、もともと冷えていたのが、その一件で氷点下を突破してしまったんだと思う。程なく両親は離婚した。

 あたしは、世間体が良く、経済力もあるお父さんに引き取られることになった。お母さんは別の男と暮らしていることを、風の噂で聞いた。


 お母さんと別れた後、お父さんは、今まで以上に生徒からも保護者からも評判の良い如月先生になっていた。

 だけど、その年の二月、お父さんは再び女子生徒に手を出した。相手は、あたしの友達だった。

 彼女が、学校に淫行された事実を告発し、お父さんは懲戒免職になった。


 そこから、あたしの地獄が始まった。


 仮面をつける必要のなくなったお父さんは、その素顔を見せ始めた。あたしに向けていた愛情は、仮面を被っていた。むき出しになった欲望が牙を剥き始める。

 学校に行けば、お父さんの噂をされ、仲が良かった女友達からは距離を取られるようになった。あたしは、如月という苗字にさえ嫌悪感を持つようになる。


 学校に居場所はなくなってしまったけれど、家よりはマシだった。家の中でのあたしは、居場所だけでなく、人としての尊厳まで奪われていたから。お父さんは、職を失ったことで自暴自棄になり、憂さ晴らしのように、あたしに欲求をぶつけてくる。誰にも相談できないまま、そんな地獄の日々が一年半続いた。

 それでも、お父さんが一線を越えることはなかった。


 一年と半年後の8月。その日、お父さんの様子がいつもと違っていた。

 学校から帰ってきたあたしを、お父さんが抱き寄せ、身体をまさぐり始める。何度繰り返されても、慣れることはなく、嫌悪と恐怖だけが蓄積されていく。いつもなら、そろそろ終わってくれる時間だったが、お父さんは放してくれなかった。

 あたしは、ぞっとする悪寒を感じ、珍しくお父さんの行為に抵抗の意思を見せる。普段、あたしが抵抗しようものなら、頬を叩かれ、髪の毛を鷲掴みにされてしまう。だけど、その日はあたしが抵抗しても、お父さんが暴力を振るうことはなかった。


「葉月、お前に手を出すようになったのは去年の二月からだな。俺だってな、実の娘に手を出すつもりはなかったさ。だけどな、我慢できないんだよ。理屈も常識も世間体も法律も無視してしまうぐらい、単純で倒錯的な衝動。男っていうのはな、誰もがそういう欲求を抱えてるんだ。俺はそれに支配されて、この有様だ。だからな、葉月……? お父さんを救ってくれないか?」


 あたしは、お父さんが何を言っているのか、よく分からなかった。ただ、何をしようとしているのかは、分かってしまった。


「や、やめてください……」


 あたしの声など届いてないかのように、お父さんが近づき、押し倒してくる。あたしは、必死にお父さんの身体を振り払って逃げようとする。そんな抵抗をしたものだから、お父さんは激高して、思い切り左頬を殴られた。


 パニックになったあたしは、台所に置いてあったナイフを手に取った。そして、そのままお父さんの胸元に刺した。


 お父さんは倒れ、胸にはナイフが屹立していた。最期にお父さんがあたしに向けた目には、安堵の色が映っていた。自分の行為を正当化するために、そう見えただけかもしれないけど。


 お父さんを殺してしまった……。


 少しの安堵の後、押し寄せる後悔と罪悪感。

 途方に暮れていると、お父さんが起き上がった。胸元深くにナイフを刺したはずだが、お父さんは自分の手でナイフを引き抜いた。

 目を覆いたくなるような刺創しそうが、一瞬で治っていく。お父さんの喉元には、十字架が浮かんでいた。


「葉月、葉月……! お父さんを救ってくれ!」


 言葉とは裏腹に、お父さんは、引き抜いたナイフをあたしに向けてくる。

 いつも、お父さんの情欲を受けてきたからこそ分かってしまう。今、あたしに向けている衝動は、いつもの情欲ではない。初めてのものだ。

 お父さんがナイフを向けながら、こちらに詰め寄る。


 お父さんは、あたしを殺したいんだ。


 それに気づいたあたしは、なんだか救われた気がした。お父さんから、性欲以外の欲求を向けられたことが嬉しかったのだ。性的虐待を受け続けた1年半で、あたしはもう壊れてしまっていたんだと思う。


 あたしは、近くの椅子をお父さんに思い切り投げつけた。椅子の衝撃で仰け反ったお父さんは、ナイフを落とす。あたしは、それを素早く拾い、躊躇なくお父さんの喉元に刺した。

 今度は後悔も罪悪感もなく、言われた通りお父さんを救えたことへの達成感だけが、胸の内に残っていた。



 如月は、旧暦で二月。あたしにとって、この苗字は嫌悪の対象だ。

 お父さんが如月先生と呼ばれていたことと、二月からあたしへの性的虐待が始まったことで、あたしの中での、如月という月は、性欲の象徴のようなイメージになってしまっていた。


 葉月は、旧暦で八月。お父さんを殺めてしまった人の名前と、その月だ。そして、お父さんが性欲から解放され、殺害欲求のみに支配された月。だから、葉月は殺意の象徴。

 けれど、お父さんは最期に性欲を捨てることができた。あたしは、初めて自分の名前でもある葉月という月を好きになった。


 性欲と殺害欲求は、二月と八月ぐらいの距離感なんだと思う。結びつくこともあるけど、それでも半年離れた遠い距離。



 その後、あたしはIEAから取り調べを受けた。あたしの取り調べを担当したエンバーマーは、万道さんという人だった。

 万道さんは、あたしがお父さんを殺してレヴェナントにしてしまったことを「救い」だと言った。


「君は、実の娘に手を出すほど性欲に苦しめられていたお父さんを、その欲求から解放してあげたんだよ。だから、何も悔やむことはないんだ」


 万道さんの語り口には、不思議と安心感と説得力があった。あたしは、その言葉に、何も考えず寄りかかりたくなってしまう。


「悔やむとすれば、もっと早くお父さんを救ってあげられなかったことだね。だから、君はお父さんを苦しめた罪も背負っているんだ。じゃあ、――懺悔しなきゃね」


 あたしは、二つの事実に苦しんでいた。実の父を二度も殺めてしまったことと、二度目に至っては、罪悪感も後悔も感じなかったことだ。

 そんなあたしを、万道さんは肯定してくれて、背負った罪の償い方まで教えてくれた。


 お父さんの殺害は、正当防衛として処理され、罪に問われることはなかった。むしろ、あたしが罪に問われるべきなのは、お父さんをもっと早く救ってあげられなかったことだと思った。


 懺悔の為に、万道さんに紹介された矢来 真古登やらい まことという男から、新宿の古びたクラブの中で、死体を管理するよう頼まれる。

 最初は、驚いて断ろうとしたが、死体が性犯罪者のもので、レヴェナントになったら彼らもその被害者も救われると聞いて、引き受けることにした。

 矢来は、時折お父さんと同じ目であたしを見ていることがあったので、正直苦手だったが、様々な情報を教えてくれた。

 届けられる死体は、死後2週間以内のもので、"原石の死体"と呼ばれていること。万道さんの団体は、これを多く所持していること。原石の死体は、レヴェナントになる可能性だけでなく、別の用途にも使えること。矢来は、お喋りだったので、労せず数多くの情報を知ることができた。


 管理する死体は三体までで、二週間を超えたものは回収された。死体には、脈拍計がつけられていて、レヴェナント化した場合、矢来が来ることになっていた。あたしが管理している死体が、レヴェナントになることは一度もなかったけれど。


 あたしは、万道さんの指示通り動くだけでなく、自分なりの懺悔をしようと思い始める。そこで、お父さんのような人を救うための、2つの方法を考えつく。


 一つは、殺してレヴェナントにしてあげること。でも、身を滅ぼしてしまうほどの性欲に溺れている人を見つけることは難しい。

 もう一つが、性欲に溺れていた人の死体がレヴェナントになって救われるところを、実際に見てもらうこと。あたし自身、お父さんに殺意を向けられることで、救われたのだから。


 そこで、「からだ買いませんか?」と声をかけ、ついてきた人に死体を売ることを思いつく。これでついてくる男性は、性欲に溺れている可能性が高いので、同じように性に溺れた死体を売ってあげるのだ。

 その死体がレヴェナントになって欲から救われた姿を見れば、きっと彼らも救われるはずだ。

 それを断るのなら、あたしの手で救ってやればいい。


 あたしは、あたしなりの懺悔を始めることにした。



 父親がいなくなったあたしを引き取ってくれたのは、父方の祖母だった。祖母は、あたしが父親から性的虐待を受けていたことを知り、何度も何度も頭を下げてきた。お母さんが親権の申立をしなかったこともあって、祖母があたしを引き取ると言って聞かなかったそうだ。

 あたしは、実の息子を殺した張本人だ。なのに、祖母は毎日頭を下げてくるし、あたしに気を遣って、中学の知り合いが誰もいない遠くの高校に転校させてくれた。

 学費も払ってくれているので、高校には行っていたけど、正直早く祖母から離れて、独り立ちしたいとあたしは考えていた。だから、死体を売ってお金を稼ぎたかった。



 そんな祖母が通わせてくれた高校生活は、あたしにとっては毒にも薬にもならないものだった。

 同級生の女の子との会話は、つまらなくはなかったけれど、つい考えてしまうのだ。

 ――あなたはいいね、父親に手を出されなくて、きれいなままで――


 彼女たちは、よく恋の話をする。彼氏と手を繋いだとか、キスをしたとか。そんな話を聞くたびに、あたしは思う。


 恋と性欲は、最も近くて、最も遠いものだって。きっと、睦月と如月の距離なのだ。睦月は、旧暦で一月だから、二月とは一番近いようで一番遠い。仲睦まじく、睦言むつごとを交わす男女の恋。そんな関係は、あたしにとって最も遠いものなんだ。



 いつものように、同級生たちの恋愛話を聞いていると、急に彼女たちが会話をやめた。あたしは正直うんざりしていたので、少し清々しながら、時間を止めた魔法使いの方に目を向ける。


 そこには、バツの悪そうな顔で教室に入ってくる男子生徒の姿があった。黒髪で、背は175ぐらい、顔立ちは少し童顔ながら整っていると思った。ただ、それ以上にその男の子の印象を決定づけていたのが、まるで地獄から登校してきたような不幸面だった。

 彼はキョロキョロと自分の席を探すが、見つけられず、近くの女の子に尋ねていた。


 あたしは、何だが無性に腹が立っていた。不幸自慢などするつもりはないが、あたしだって辛いことばかりだった。それでも、他人には見せないように女子高生の仮面を被っているのだ。

 それが、なんだあいつは?いかにも、僕は不幸ですよ、みたいな顔をして!


 その男の子の名前は、久遠くんというらしい。クラス替えして初めて登校してきたので、あたしは名前も知らなかった。


 その久遠くんは、机の上に突っ伏していた。でも、経験者のあたしには分かる。あれは寝たふりで、本当は周りの声に耳をすませているのだ。

 だから、あたしは久遠くんに聞こえるように、大きめの声で言う。


「久遠くんって、クラス替えしてから初めて来たよね?」


 そんな声に、久遠くんは少しだけビクッと動いた。あたしは、意地が悪いなと思いつつも、少し楽しくなっていた。

 あたしの言葉を皮切りに、周りの女の子たちも久遠くんの話を始めた。あたしは、話の内容を聞き流しながら、久遠くんの反応を観察していた。


「給料良いならさ。久遠、優良物件じゃね? 幸薄そうだけど顔立ちは整ってるし」


 いやいや、それはない。あんな自分は不幸だ、みたいな顔をしている人と、二人で歩きたくなんかないよ。町子ちゃんは、見る目がない。


 町子ちゃんの発言が聞こえたのか、久遠くんは少し嬉しそうに身体を揺らしていた。それを見て、あたしはなぜかイライラした。だから、つい言ってしまったのだ。話の流れに乗じて。


「あたしもー。最近、売りが調子悪くて」


 あたしが、からだを売っている――本当は死体だけど――ことは、ほとんどのクラスメイトには話していない。よく話す彼女たちが、なんとなく知っているだけだ。でも、あたしは教室内で言ってしまった。

 それを聞いた彼女たちは、死体を売っているやばい奴がいる、という話をし始めた。そのやばい奴は、教室でからだを売っているなんて言ってしまったことを凄く後悔していた。


 そんな時、寝たふりをしていた久遠くんが、バッと起き上がって、こちらに向かって来た。そして、言うのだ。「今の話を詳しく聞かせてほしい」と。

 あたしは、なぜか少しガッカリしていた。よく分からないけど、久遠くんはそういう欲とは無縁な人だと勝手に思っていたから。

 久遠くんは、そのあとなんかアワアワ、モゴモゴしていたけど、始業ベルが鳴り、席に戻っていった。


 放課後に入ると、久遠くんから声をかけてきた。なんでもさっきのは誤解で、死体を売るというワードに引っかかったそうだ。

 ここでする話ではないので、喫茶店に行かないか、とあたしは提案した。提案してから気づく。男の子と喫茶店に行くのなんて、初めてだなって。内容が内容だけど。


 久遠くんと二人で校内を歩いていると、凄く綺麗でアイドルみたいな女の子が、久遠くんに話しかけていた。確か彼女の名前は、二階堂 可憐さん。学園のアイドル的存在なので、あたしでも知っている有名人だ。

 可憐さんと久遠くんは、なんだか仲睦まじそうに話をしていた。あたしじゃ届かない、睦月の関係。


 喫茶店に着くと、久遠くんはテンパって、コーヒーしか注文していなかった。話してみて分かったけど、久遠くんは凄くウブだ。少しでもそういう方向の話になると、顔を真っ赤にして困っていた。


 あたしは、凄く好感を覚えた。けれど、久遠くんが言ったのだ。「からだを売るという危ない橋を渡るな、お金に困ってるなら援助してもいい」と。


 危ない橋を渡るな? お金に困ってるなら援助する? あたしの過去も罪も、何も知らないくせに偉そうなことを言うな!


 だから、教えてあげようと思った。この純朴な不幸面した男の子に、あたしの現実を。


 22時、新宿の駅前で久遠くんの姿を見つける。路上では、甘酸っぱい出会いを歌った恋愛ソングの弾き語りが聞こえた。これは睦月の歌だ。そして、あたしは如月らしく久遠くんに声をかける。


「ねえ、お兄さん、からだ買わない?」


 そんな最低の誘い文句に、彼が答える。


「はい、買わせてください」


 なんて最低な出会い方なんだろう。でも、如月 葉月はこれしか知らない。


 いつものクラブで、久遠くんに死体を見せた。彼はエンバーマーなので、特に驚いた様子はなかった。

 ただ久遠くんが、発した一言があたしのブレーキを壊す。


「葉月さん、なんでこんなことをしてるんだい?まだ身体を売っている方が健全だと――」


 死体を売るより、身体を売る方が健全? あたしにとって、死体を売ることは犯した罪への懺悔なのだ。その行為よりも、性欲に身体を委ねる方がまだ健全だと、彼は言った。


 お父さんの言葉を思い出す。男というのは、誰もがそういう欲求を持っている。あんなに性に恥ずかしがっていた久遠くんだって、やっぱりそうなんだ……。


 久遠くんには、お父さんみたいになって欲しくない。だから、あたしが――救わなきゃ……!


 あたしは久遠くんを救おうと、ナイフを向ける。だが、彼をそれを軽く受け流し、あたしを押さえつけた。

 あたしは、男に組み敷かれることでトラウマが蘇り、パニックに陥る。


 そんな時、保管していた死体が蘇った。パニックの中、彼らが救われたことに安堵する。

 けれど、レヴェナントの発した言葉が、あたしのトラウマを抉る。彼らは、性欲から救われたはず。だから、発する言葉が何であれ、殺害欲求しか残っていない。

 理屈では分かっていても、「犯させろ」という言葉が、耳の中に残って離れない。


 完全に動けなくなってしまったあたし。久遠くんは、そんなあたしを庇ってボコボコに殴られていた。


 ねえ、なんで……? さっきみたく軽くいなせばいいじゃん。あたしなんか気にせずにさ。


 でも、久遠くんは動かずに殴られ続けていた。

 それを見たあたしは、お父さんを救ったはずの殺害欲求を酷く憎んでいた。

 そして、気づく。気づいたら壊れてしまうことを。

 性欲が消えて、殺害欲求だけが残ること。それが救い。でも、そのせいで久遠くんが苦しんでいる。こんなあたしを庇って。


 今、久遠くんは救われてる?庇われてるあたしの気持ちは救われてる?


 そんなあたしを、久遠くんは担ぎ、ストレッチャーに乗せて、奥の部屋に避難させた。それに乗って、あたしは、自分の問いかけからも避難してしまった。


 久遠くんは、2体のレヴェナントを倒していた。けど、身体はボロボロだった。あたしなんかを庇わなかったら、彼は怪我を負わなかったはずだ。


 そこに、矢来が姿を見せる。彼は、あたしに情け容赦なく突きつけてくる。

 あたしが、万道さんの教団から使えないと思われていること。それどころか、皮肉なことに性の対象としてしか見られていなかったこと。そんなあたしに、居場所はもうなくて、作りたいなら身体を使うしかないこと。


 それらを聞かされたあたしは、逃げてきた問いかけの答えに気づく。


 性欲が悪いのではなくて、悪いのはそれを起こさせるあたし。そんな簡単なロジックから目を逸らして、ただただあたしは可哀想だと嘆き、欲求を憎む。不幸面した馬鹿女は、あたしの方だったんだ。


 懺悔とか救いとかそういったもので、無理やり保ってきた心が崩れ落ちる。結局、あたし自身が如月なんだと気づいてしまったから。


 そこからは、よく覚えていない。ある考えだけが頭の中をまわっていたから。

 お父さんを殺めた罪、あたしを買おうとした男性を殺めた罪、それを償わないと。

 その後に、命を絶とう。如月も、葉月も、この世界には必要ないのだから。



 そこで、あたしは異様な雰囲気に頭を上げる。首とお腹にナイフを刺された久遠くんが、起き上がっていた。その光景は、レヴェナントを想起させる。

 久遠くんは、凄く苦しんでいた。でも、笑っていた。笑いながら、矢来を殴っていた。


「お義母かあさん、ぼくにとってのお母さんは、お義母かあさんなんだよ? ぼくを見て! 殺していいよ! だから、ぼくを見て!」


 それは、久遠くんのトラウマなんだと思った。久遠くんの過去に何があったかは、今の言葉だけじゃ分からない。でも、あたし以上に辛い過去があったんだと思う。仮面をつけたぐらいじゃ、隠せないぐらいに。


 久遠くんの、喉元が揺れ始めた。喉にいる仏が暴れているようだった。

 あたしは、直感する。このままだと、久遠くんは戻れなくなってしまう。それこそ、レヴェナントのように、殺害欲求以外の全ての欲求を捨てた存在から。


 あたしは、久遠くんの身体に強く抱きつき、そのまま抱き締めた。久遠くんの身体から、大事な思いや欲求が離れないように。

 不思議と身体に触ってもパニックになることはなかった。


 あまりにも強く抱き締めたせいで、ある物が久遠くんの身体から離れてしまった。

 それは、コーヒーだった。久遠くんが喫茶店で飲んでいたであろう黒の液体が、口から吐き出される。


 不意に、久遠くんの意識が戻る。あたしは、抱き締めるのをやめ、すぐに彼から離れる。彼は、刺さった2本のナイフを抜いた後に、ポケットから注射器を取り出し、それを打った。


 しばらくすると、彼は叫び出した。まるで全世界がこの瞬間感じている絶望を、一身に受け止めているかのように。

 あたしは、ひたすら彼の背中をさすった。これで落ち着くのかは分からない。情けないことだが、人を安心させるスキンシップなんてしてこなかったから。


 久遠くんの叫びが終わり、呼吸が深くなっていく。顔を覗くと、彼の目には涙が浮かんでいた。

 心配するあたしをよそに、彼は一言呟く。


「ロイヤルミルクティーと、チーズケーキ代、払ったの俺だから……!」


 そういえば、あたし支払いしてなかったな……。久遠くん、ありがとう……。



 全てが終わり、あたしは自首をすることに決めた。そして、罪が償い終わったら命を絶つことも。


 でも、久遠くんは、すぐにあたしの思惑に気づいて、気に入らない、と言い放つ。


 彼は、あたしの見る目のなさに怒っていた。縋るなら俺に縋れ、なんて言われた時には、もう一度抱き締めたくなってしまった。


 でも、それはしなかった。これ以上、彼に迷惑をかけたくなかったから。

 きっと、弱いあたしは彼に縋りきってしまうから。あんなに苦しむ彼の姿を、もう見たくはなかった。


 でも、久遠くんは、自首したら俺も捕まるから、何とか隠し通して、と言う。これは、久遠くんの優しさであり、ズルさでもあった。俺を思ってくれているのなら、俺に縋れ、と言われたような気がした。


 あたしは、今は彼に縋ることにした。久遠くんの優しさに甘えて。でも、あんなに苦しむ彼の姿は見たくない。だから、あたしも強くなろう。


 いつか自分の足で生きられるようになったとき、縋らなくても生きられるようになったとき、あたしは彼に寄りかかるのではなく、隣を歩きたい。



 如月と睦月の距離。普通の人なら、隣り合わせの距離なのに、あたしにとっては、最も遠い距離。

 性欲と恋心。それは、あたしにとっては今は結びつかないものだ。


 睦月は遠いから、あたしは途中の葉月で足を止めた。それが救いだと思って。でも、そんなものは救いでも何でもなかった。ただ、諦めて足を止めた場所を、自分の居場所だと思い込ませていただけ。


 今は縋って、どんなに惨めでも前に歩いていく。


 いつか、久遠くんと仲睦まじく睦言を交わし合う関係になれる、その月まで。



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