第8話 蜘蛛の糸

 びっくりしたあたしは後ずさるつもりが、保健室のドアにぶつかってしまって、僅かに音を立ててしまった。

 木村君がこっちを振り返る。どうしよう。目が合っちゃった。何も言わないわけにはいかない。


「木村君……何してるの」

「遅いじゃん。お前待ってたんだよ」

「え、あたし?」


 ユウキの首筋から手を離した木村君が体を起こすと、彼女の胸元が見えた。体操服のポロシャツのボタンが全部外されて、大きく開かれてる。まさか木村君が?

 彼の前で無防備に横たわるユウキを見て、あたしは何故か自分の事でもないのに羞恥に全身が火照る。


「何……してたの?」

「これ」


 濡れタオル?


「冷やしてたに決まってんだろ。熱中症なんだから」

「熱中症?」

「っていうより貧血持ちかな、合わせ技ってとこか。熱はまあ微熱程度だったから、こうして冷やしていれば良くなる。人間は頸動脈を冷やすのが一番手っ取り早いから、こうして首を冷やすんだよ。わかったら、お前続きやれ」

「え、あたし?」

「俺がやっててもいいのかよ? 俺がこいつの腹とか足とか撫でてたら変態だろ。お前いつまで経っても来ねーし。何やってたんだか」


 えっ……木村君、ずっとユウキのこと、そうやって冷やしてくれてたの? っていうか、あたしが来るってわかってたの?


「今意識が無いのはただの脳貧血だろ。スタート待ちの時から青白い顔してたから、無理しないでリタイアしろって言ってんのに、ほんとコイツ無茶するし。俺が2周してやるって言ったのにさ」


 だからあの時ユウキに何か言ってたんだ。だからユウキがスタートしてもずっとフィールドから彼女の動きを追ってたんだ。


「あの、ありがとう。それと、その、ごめん」

「あ? 何が」

「ええと、ユウキのことちゃんと見守っててくれてありがとう。それで、その、木村君のことちょっと誤解してたかも。ごめんね」

「別に」


 どうしよ。なんか気まずい。けど、木村君、やっぱりいい人だった。キスはされたくないけど。


「じゃ、俺行くわ。あとお前に任せる。先生には俺の方で言っとく」

「あ、うん。ありがと」


 木村君はあたしの方に濡れタオルをポイッて投げて、保健室から出て行った。

 変に気まずい空気から抜け出せてホッとしたあたしは、タオルをまた冷たい水で絞ってユウキの首筋に当てた。


 ……綺麗。


 ポロシャツのはだけた胸元から覗く白く透き通るようなきめの細かい肌は、上質のシルクを思わせる。そして細長い首の付け根には綺麗な鎖骨。思わず指で辿ってしまって、ドキッとする自分に驚く。

 同性のあたしでもこんなにドキドキするのに、木村君は何も感じなかったんだろうか。ここまで開けてたら、ブラだってちょっと見えそうだし、谷間だって……。木村君、熱を測ったって言ってた。脇に体温計入れたの? 胸元から? 触ったりしてないよね? 変なことしないよね?

 何だろう、この感情。嫉妬? あたしより先に木村君にユウキの肌を見られたことに対するジェラシー?

 ああ、もう嫌。なんでこんなこと考えてるの? あたしは女子で、ユウキも女子なのに。


「起きてよ、ユウキ」


 あたしはベッドの縁に座ると、ユウキの鼻に“ちょん”って、いつものようにくっつけた。

 不意にユウキの目が開いた。お姫様のキスで目覚める王子様? あ、ユウキもお姫様だった。ごめん。


「ナツミ?」

「ユウキ、大丈夫? 目、回ったりしてない?」

「あれ? リレーは?」


 もう、どれだけ心配したと思ってんの。自然と口が尖っちゃう。


「具合悪かったくせに走ったでしょ」

「ああ~……そうか。ゴールしたっけか。ごめんごめん、今日二日目でさ。ちょっと貧血気味だったんだ」


 やだもう、ユウキが女子だったことを強制的に思い出させられる発言。

 そんなあたしにお構いなしに、ベッドに起き上がる。


「あ、そういえば木村……」


 再びあたしのジェラシーに火が付く。けど、ここはちゃんと言わなきゃ。


「木村君、ユウキをここまで運んでくれて、それで冷やしてくれてたんだよ。スタート前にユウキが青い顔してたってずっと心配してたみたい」

「あ、そういえば『走るな』とか言われたな」

「でしょ? キスはされたくないけど、でも、いいとこあるよ、木村君」


 不意にユウキの瞳が真っ直ぐあたしを捉えた。


「木村のこと好きになったの?」

「そっ、そんなわけないでしょ、あたしが好きなのはユウキだけ」


 やだ、あたし何言っちゃってるんだろう!


「ねえ、もう一度言って」

「何を?」

「今言ったこと」


 やだ、恥ずかしくて言えないよそんなこと。


「言って」


 ユウキが急にあたしの腕を引くもんだから、バランス取れなくて彼女の腕の中に入ってしまう。

 はだけた胸元から彼女の谷間が見える。凄いエロティシズム。同性なのにそそられる。あたし、おかしいんだろうか。

 恥ずかしくて少し視線を上げると、今度は彼女の鎖骨が視界に飛び込んでくる。ああ、もうどこに視線を移しても気が遠くなるほど綺麗。


「ねえ、言ってくれないの? ナツミが好きなのは誰?」


 もうダメ、ユウキには逆らえない。その瞳に操られて、あたしは何もかもユウキの言いなり。罪な人。


「……ユウキ……だけ」

「可愛いね、ナツミ」


 ユウキが何かを誘うように、あたしの指にその長い指を絡ませる。ユウキの指は蜘蛛の糸のようにあたしを絡めとって放してくれない。わかっているのに、自らその罠に掛かりに行く自分がいる。


「ナツミ」


 耳元で囁かれるだけで体中がゾクゾクする。子宮がざわめく。


「キス、して?」


 ユウキのハスキーヴォイスが首筋にかかる。ああ、もう溶けてしまいそう。

 あたしはもう体に力が入らなくって、ユウキの方に顔を向けるのが精一杯。そんなあたしを見て、ユウキは艶然と微笑むと、満足気にあたしに顔を寄せてくる。


「仕方ないね、ナツミは」


 ちょん。

 チュッ。


 鼻をくっつけた後でユウキはあたしの鼻の頭にキスをした、唇で。

 あたしの方が気を失いそうだった。

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