第15話 金の華咲く彼らの墓標

「北の山ってえと、あの一際尖がってそびえ立っているホワイトなお山で間違いないね?」

 狼獣人の少年が頷いた。さんきゅ、と彼に言ってマントのフードを深く被りなおしたのは悪魔クリネラだ。色男は参るよ、今や指名手配犯だから。

 とは言え、この辺鄙な魔界周縁域ではまだ噂も広まっていないらしい。鐘の見立てた通り、クリネラが飛ぶのは並みの魔物の移動速度よりも頭抜けて速いらしい。そろそろ魔王軍も相応の乗り物を持ち出して追跡を始めているとは思うが、誰もクリネラの悪魔本体の性能を知らなかったのだから初動が出遅れたのも許してあげてほしいものだ。クリネラ自身もあの姿で飛んだのは、実際初めてのことであった。本当にジェットターボなのかと吃驚した。

 それでも油断は禁物である。轟音を立てて飛ぶ鮫の悪魔は相当目立つ。魔力の使い過ぎも気にかかり、逸る気持ちを抑えていつもの短足で山を登ろうとしている。

「おいちゃん、銀狼の村さ登んの?」

 少年が訝し気に訊ねる。

「そうかもねえ」

「やめとけ」

 少年は真剣な目つきで悪魔を引き留めた。

「朝、とっちゃに遠吠えの回覧板がきて、魔王が銀狼さねろうてるてよ、戦争だとかってよ、慌てとったの。これおいちゃんには内緒だども、おらわらしこだからよかんべや」

 いかにもはしっこそうに笑う少年に釣られて、笑みが零れる。

「ありがとう少年、でも俺行くわ。父ちゃんによろしくな。狐さんにもよろしく」

 少年は少し項垂れて、尻尾を振った。

「それじゃあ行きますかね」

 白銀の頂上の下には灰色の山肌が荒々しく顔を出し、来るものを拒む。麓であるこの村も十分に寒いのだが、あの山の雪は恐らくここ千年は溶けたことがないだろう。とてもではないが好き好んで住む場所ではなかろう。ところがここは魔界であるので、そんな極寒の地やあんな灼熱の溶岩の中に好き好んで住んでしまう化け物が沢山いるのだった。とは言え、知り合いの狼は極端に寒いのが得意でもなかったと記憶している。夏場は暑そうにしていたが。

 麓から道が伸びている、と思ったのも一瞬のことだったようだ。灌木と石の中を茫漠とした道、もとい消去法で進む。悪魔の背には翼があるが、こちらはこちらで肩が凝る。少し歩いて少し飛び、調節しながら進む。少年の話もある、のんびりとはいかないだろう。山影になるような場所があれば本来の姿で距離を稼ぐつもりだ。

 魔界に住むのは何も知性ある魔族だけではない。山では知性なき竜がもっとも恐ろしいと言われている、魔王城勤務の妖魔に言わせれば知性のある竜が一番に決まっているのだが。

 がさり、と灌木の揺れた音に反応すれば、姿を見せたのは粘液生物だ。洞窟に巣食う彼らの奇襲攻撃は脅威たりうるが、地を這う奴らはまさに雑魚。相手をするのも惜しい。

 悪魔は手ごろな木の棒でスライムを突いた。しゃり、と氷を砕くような手応えがある。寒冷地のスライムは凍っているのか、と半年ほど前に読んだ筈の文献をようやく思い出す。外膜に分泌される酸のぬめりを取り除けば、この手のスライムは食べられる。今は全く食べる気がしないが、こんな生き物が歩き回っているということはこれで案外豊かな山なのだった。捕食者の影に注意しなければならない。

 荒涼とした風景が、次第に白い雪を纏う。麓で調達した防寒具もあって、寒さはまだ芯にまで達していないが、足元が不安定になるのが厄介だ。ただでさえ動きづらい格好を強いられている、どうか熊などには出会いたくない、と念じながら土を踏む。魔界の獣は好戦的だ。普通の獣ならば腹を満たすだけの狩りを慎ましやかに営むが、魔界の獣は気が狂っているので格下と見れば躍りかかってくる。知性のあるなしに関わらず馬鹿が多いのだ。

 クリネラは切り立つ崖を難なく登り、翼をもつ獣を適当にあしらって、ふと目指す遠くを見上げた。麓からは見えなかった山の面が見えていた。灰色の空に向かって、黒煙が昇っている。――火口?――その可能性は低いだろう、クリネラにその煙は自然の活動とは思えなかった。

 その情景が心臓の脈動が突然に体中を叩いた。とりあえず、悪魔は背後を振り返る。麓の村は遥か小さく、灰色の空には知性なき獣の影があるばかり、牧歌的でさえある。もはや何かに怯えることはなかったのだ。そう、言うならば往きて帰らない旅を止める者はいない。安堵のなか、防寒具を脱いで纏めてしまう。有り合わせを見繕った着物は、大烏の大きさには対応していない。その所謂本来の姿は防寒具を必要とせず、その代わりに唯膨大なエネルギーを必要とする。

 蝙蝠の翼、烏の翼、虫の羽根――人型の身体に付属する蝙蝠の翼以上に余計な飾り物である――それらをピンと伸ばす。身体を温める、問題はない。一気に行こう。飛び上がり、轟音とともに風を切る。

 何もない、狂気の獣さえも悪魔から遠ざかる。大きな的を見付けて進行方向に現れたのはワイバーンだったが、その腹に頭突きを食らわし首を噛み砕くとあっさり絶命してしまい、彼の群れもまた離れていった。距離は短い、もう着いてしまうのか。一抹の寂しさを感じながら、黒煙のありかを見下ろす。そこは周囲の地形から抉られたように窪んでいて、その窪みの底から燻るような煙は立ち上っている。煙からは自然の活動よりも邪な力を感じる、例えば悪竜の吐息。例えばなんて回りくどい、これは魔王が銀狼を焼いた煙がまだ燻っているのに違いない。煙の根本にあるのは金の熾火なのだと分かると、それは最早確定事項だった。――着いたぞ。寂しいあなたの故郷だ。

 その火の元へ降りるには、魚尾の悪魔には足場が悪かった。すり鉢状の地形の縁に立ち、かりそめの姿をとる。ふと、初めて狼と会ったときのことを思い出す。それはイコール、クリネラが悪魔になって魔界へやってきたときで、そのクリネラは名前もない球形の肉塊である。『卵』と呼ばれる状態の悪魔は意識が混乱していた。幸運だったのは、現出したその場所に危険な魔族がいなかったこと、たまたま散歩していた狼がそれを見守るだけの分別が奇跡的にあったこと。――何と声を掛けられたのだったか――「さっさと姿をとれ、肉袋を運ばせろってのか」後は二、三言葉を交わしたか、それでヒトの姿をとって魔王の元に連れていかれたのだった。ということは、自分の姿はこの人型の悪魔だと少し思うところもある。かりそめだという根拠も勿論あって、『男』も『短足』も『天使みたいな顔』も置き換え可能の要素だ。ただそういう姿を最初にとったから、そんな理由だけで短足に甘んじていた経緯がある。

 すり鉢を滑り降りる。金色の炎は間違いなく、二日前に見たばかりの魔王の炎である。ざっと二百年くらい燃え続けているということか、なかなか大袈裟なものだ。単なる吐息ブレスではなく、強烈な呪いを込めて燃やし続けているのだ。何か苛々していたのだろうか?

「止まれ」

 背後から呼び止められ、一応滑り落ちるのを止める。声は女の声、振り返るとすり鉢の縁に狼獣人の女が立っている。顔は笠と薄絹で隠しているが、尾の色はよく見えた。銀に似た灰色だ。

「悪魔が何用か、そこは墓じゃ」

「墓か」

 丁度いい、と悪魔は片頬で笑う。

「墓に用事があって来たようなもんだな」

「お主に慰めを享けるような魂は居らぬ。疾く去れ」

 女の声は刺々しく冷たい。しかし少なくとも、魔王軍の手のものではなさそうだ。

「いや、魂を返してやらねばならんので来た。あんたが慰めてやってくれ――」

 そこでうっかり忘れそうになっていた名前を思い出す。

「『リクカ』。『リクカ』って銀狼の女は知らないか」

「六花はわらわじゃ。何故わらわを知っておるのか」

 声を潜め、訝しんでいる。色々と手間が省けた、とクリネラは彼女のいるところまで飛んで戻る。

「あんたに渡すものが」

 隣にそっと立ち、件の畳まれた懐紙を差し出した。女は迷う素振りを見せたが、遂には受け取った。顔を近づけると、何かに気付いた様子で、慌てて紙を開いた。糸で纏めた銀に似た灰色の髪がひと房。

「これは、これを、どこで」

「本人から」

「誰じゃ、言うてみよ」

 クリネラは少し困った。彼を何と言うのか。

「彼の名前は色々知っているんだが、そう、最後に名乗ったのは、白峰雪丸白魔」

 不思議と漢字キャラクターまで思い浮かんだのは名前によくある呪術的な何かか。言われてみれば雪山で生まれたひとの名前だなあ、と噛み締めたその名前、やはり魔法かもしれない。女が薄絹の向こうで呆けたような、何か叫び出しそうな顔をしている。

「これは、その、彼の遺髪だと」

「そう、。生きてるときに預かったが、まあ自分で行けって言ったんだけど」

「いつ、いつ亡くなられた?」

「二日前」

 あ、と女が声を漏らした。

「まだ生きて、いや死んだの。あにさま」

 女、六花はゆっくりうずくまった。泣いているようには見えなかったが、ひどく震えている。「お姉さん、大丈夫?」膝を抱えて顔を覗き込むと、言葉遣いに違わぬ怜悧な美女である。ただ今は顔をくしゃくしゃに歪めている。

「お気遣い痛み入る。驚いたのじゃ、とうに死んだものと思うておった」

 ひとつ吐き出すと少し落ち着いた様子で、自ら笠を取った。ぴんと立った耳は尾と同色で、銀に輝く髪がさらさらと額に零れかかった。

「あにさまって聞こえた気がするけど、あんた妹なの」

「なんじゃ、知らんのか」

 六花は言いづらそうに、

「わらわは許嫁じゃ。昔は、と言うべきかの。あにさまと別れたときはまだ四十六歳じゃった、殿なんて呼んだこともないのう」

 今だに人間の感覚が抜けないクリネラはさっと計算する――四十六なら人間でいうところの六歳くらい。魔王が狼とやりあってたのは二百年前で――ユキさんがそれなら十三歳ってところか。多分に十三歳から見た六歳は頑張っても滅茶苦茶可愛い妹だと思う。

「すまんね。名前しか聞いていなかったから」

「どうして……亡くなられたのじゃ、そんな歳でもあるまいて」

「ああ、魔王にね。倒そうとしたのだが叶わなかった」

 女は唇を強く噛んだ。血が出るのではと思うくらいだ。

「またじゃ。折角生き長らえて」

 それでも吐き出しかけた言葉を飲み込み、また口を閉ざしたのを見て、

「俺は、それが……魔王殺しを止めなかったのが魂の救いになったと思ってるが」

 六花はクリネラをきつく睨み、

「救いなどここ魔界には無いわ!最初はなからな!」

 しばらくその銀の目で睨んでいたが、じわじわと輝きが滲んできた。

 女は目を伏して、金の炎を苦し気に見下ろす。

「気持ちは分かる。そうかもしれないと。わらわも今少し、そうしたいと思った……もあにさまを殺された気分じゃ」

 ほう、と溜息を吐き瞼を擦った。横顔を眺めていると瞳が悪魔を向き、

「お主はあにさまの何なのじゃ」

 クリネラは少し困った。恋人かな。

「友人」

 気遣いなどというものは、普段のクリネラには存在しなかったが、この時は何となく躊躇われるものがあった。真実は劇薬だったし、友人は別に嘘だとは思っていない。

 聞くと、六花は少し笑顔を浮かべ、

「ついでに頼んでもよいか?写真とか持っておらんのか?どんな風になったのか見てみたい」

「写真ねぇ」

 あまり語りすぎると許嫁殿の夢を壊してしまうのではないか、と柄にもなく胸を過る心配。精悍な顔つきが時々色っぽいのはクリネラの主観。

「中央の若い者は皆『けーたい』持っておろうが。何でも『しゃめ』って『いんすた』に載せるんじゃろ」

「ちょっと何か混ざってるけど」

「持っておらぬのかあ」

 懐に手を突っ込まれそうになり「待って待って」と退避。いいか、減るものでなし。クリネラは手元で端末を起動、展開させる。

 そうは言っても、まともな写真はあまりないのだ。本人は撮られたがらずにすぐフレームアウトするし、その手際はさすがに魔王直属の精鋭。なのでそう、例えば、一枚目は裸で寝てるところを撮っているわけだがお嬢様に見せるには問題がある。二枚目は裸で寝てる上に縄で縛っているので論外だ。そして三枚目、裸で寝てる上にすごい落書きをしてしまって翌日真剣に怒られた奴。なお、便宜上『寝ている』としているがおそらく失神の類である。あと普段は裸で寝る趣味はないひとなので、誤解を与えてしまうかもしれない。めくるめくプライベートな思い出に目頭が熱くなる。吟味していると少し古い写真を撮ったデータを見付けた、近衛兵の二番が隣に写っている、まだ若いころの彼。良かった、文句なし。

 文句なしを映した状態で端末を見せる。

「ほう」

 六花が顔を綻ばせる。

「凛々しいの。右目はそうか、あの時に」

 何か思い出した様子で、もの思いに沈んでいる。

「最近のは持っておらんのか」

「ふつうのおっさんは写真を撮られたがらないんだよこれが」

 唇をつんと尖らせ迫られ、もう一枚くらいは無いだろうかと慌ててアーカイブを確認する。ああ、この動画なら良し。

 ――本を読んでいる横顔を撮っている。家の中で眼帯はなし。少し経ち、気付いてこちらへ顔を向ける。「やめろって」左手がカメラを塞ぐ、口角が笑っている。終わり――

 六花はじっと見入っていた。同じくらいに動画の持ち主も、今はないその顔が動いていると、つい心が揺さぶられてしまう。この後はどうなったんだったっけ。

「これを見せてもらって良かった」

 六花がそっと端末を手に取って画面をなぞる。

「復讐なんてつまらんものばかりではなかったようじゃ、良かった」

 およそ魔族らしからぬ感想で、ただ復讐を煽った男は沈黙した。

 その油断を誘う手口が魔族だったようだが。

 六花の手が端末を操作し、次の画像を呼び出す。裸で寝ている上に縛っている、菱形縛りで縛っている静止画を。

「あ」

 一瞬ふたりともが思考を止めてしまったようだった。そこで動けなかったのがクリネラの敗因である。

 ち、ち、ち、と六花が静止画を次々呼び出す。

「お姉さん!!困ります!!あーっ!!!お姉さん!!困ります!!あーっ!!!困ります!!あーっ!!!!困ります!お姉さん!!困ります!!あーっ!!!」

 その『墓場』の周りで、端末を持って走り回る女を追う馬鹿のような鬼ごっこを舞った後、女は無表情で

「お主ら」

「待ってください」

「何を待つのじゃ」

 それもそうだ、クリネラは呼吸を整えて(二日ぶりに全力で体を動かした)、

「違うんです」

「何がじゃ」

 それもそうだ。

「それはそのほら」

 ――「狼さん狼さん、俺が女の方がいいかな」「あ?」「いやその、続けていただく気持ちがあるんでしたら、その方がお好みかと」「できるのか」「へこませて出すんでさあ」「イージーな仕組みだな」「狼さんがホモだと言われるのが嫌なんだったら、俺そういうことできますけど」「今更じゃねえか。中身は結局おっさんだろ」「おっさんじゃないです、イケメンです」「何でもいいだろうが」――

!」

 六花が呆けた顔をしている。それはそうだ。六花の腕を掴み、先ほどへこませて出したばかりの胸元に押し当てる。

「ほら」 

 ――何やってんだろうな、俺。


「するとお主、あー、恋仲であったと申すか」

 頷く。嘘ではない。

「ではどうしてわらわを欺いておったのじゃ」

 それは、と少し言いよどみ、

「許嫁さんにそういうこと言うと、がっかりさせてしまうかと」

 少し目線を逸らした。すこぶる眺めの良い場所だ。

「お主」

「すみません」

 やっぱり嘘です。強引に関係を持ちかけたのはボクです。縄はボクの趣味です。と喉から出かけていた。

「お主、イイ子じゃの」

「な」

 気が付くと抱きしめられていた。頭を撫でられて、当惑する。

「よいのじゃ、わらわとて慕ってはおったが、やはり兄のようなものであるし。わらわは、とうに、あの岩場か、無人の荒野のどこかで寂しく死んでしもうたのだとばかり思っておったのじゃ。そうではなかったのが嬉しい」

 撫でられて、あんたの方がイイひとなんじゃないか、と思いつつ、腕を回す。

「わざわざこんな所へ登ってきたのじゃ、ひとかたならぬ思いがあるのじゃろう。疑わぬぞ、礼を言おう」

 少し懐かしい匂いのする胸元で、つい鼻が出てしまった。ふふ、と女が笑って、

「わらわの家で休まぬか。今やあばら家みたいなものじゃがの、ここよりはましじゃ。冷えるであろ。わらわの家族もお主を歓迎するじゃろ」

「はい、お言葉に甘えて」

「ついてまいれ」

 そっと手を引かれ、付いて行く。いいだろう、嘘ではない。――この様子だと女だと言う必要もなかった気がしていたが――六花もなかなか面白そうな狼である。彼女は少し顔を赤らめて、

「して、その、あにさま、ちょっと趣味が過激では」

 それはそうだ。いくら男女の仲でも菱縄縛りの説明がつかない、完全に手抜かりである。

「縄は自分の趣味です」

「そうか」

 魔界で死んだ魂はどこへ行くのだろうか。彼が行くとしても天国ではあるまいが、ここより凄惨な地獄にでも落とされているのだとしたら、と悪魔は夢想する。拷問ついでにこの様子、見せられていたりして――可哀そうにな――

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