第4話 たとえ惨めたらしい負けであったとしても
吸血鬼ってそうなんだ、単純に馬鹿力なんだ。それに足の一本や二本失ってもどうとでもなるんだ。クリネラ・クリムゾン・スプラウトは何分、悪魔としてのキャリアはまだ数えられるほどでしかないので、大腿部などぶっ刺されたら大事ではないと理解していてもひどく動揺してしまうのだった。反省だ。
この世の悪を煮詰めたような悪臭で満たされた地下水道を飛び抜ける。この世の悪を統べる魔王城の城下に流れる下水なのだからさもあろう。場合によっては下水よりも不潔で不浄な場所があるのも魔界だが、地下水道にはアウトローのロマンが詰まっている。悪魔なんて上から下までアウトローだがロマンと言ったらロマンなのだ。なんと言っても序盤にダンジョンで地下水道が出るゲームは名作だ。
汚臭にすっかり身を浸したところで再び地上へ出てくる。城下町の中では一際寂しく小汚い、そこはかとなく湿っていて何となく不快、饐えた臭い放つ下水道から出てきても誰も不自然に思わない、忘れられがちなので通称幽霊通り。シンプルゆえにすぐまた忘れられる。空き家も多いが実際はどこも空いていない、というのも幽霊通りに似つかわしい。例えば今入ったこの今にも朽ち果てんとするばかりのあばら家の地下は酒場だし、どこからか漏れ聞こえる嬌声は……説明の必要もない。そのあばら家の二階の窓から裏手の崩れ落ちそうな家へ潜り込めばゴール、ミッションクリア、ニューステージ、隻眼の狼獣人が床に転がっている。
「髪の色戻したんだね。似合うよ、老けて見えるけど」
灰髪の狼は怠そうに起き上がった。
「どうした」そしてクリネラを一瞥し怪訝な顔で「どうした、足。短すぎるぞ」
「明日には間に合わせるから、心配ご無用」
手をひらひらと振って心配ご無用のポーズ。ポケットから白墨を取り出して、早速床へ図形を描く。いわゆる魔法円だ。
「っていうか下半身が無いことに関しては二十年のキャリアがある俺としてはこれはこれで調子がいいっていうか、こうして飛んでるしデメリット感じないっていうか」
狼は怪訝な顔で、
「痛くないのか」
「痛いよお!」
クリネラはごとっ、と床に落ちた。魔法円が乱れる。クロスは溜息を吐き、無造作に床に置いていた琥珀色の液体が揺れる瓶を、無造作に悪魔の口へ突っ込む。当然噎せる。
「ウォッカ狂信者め」
「呆れた助力者だ。で、これは誰が?」
「側近殿です」
むくれつつ魔法円の仕上げに取り掛かる。捧げものが欲しい。
「意外と喧嘩っ早いな、お前たち」
「喧嘩するつもりはなかったんだもん……ガゼルくんが一方的にボコってきただけだもん……クロスさん、肉ない」
「ある」
ずた袋から投げ渡されたのはビーフジャーキー。
「おっさん。酔っ払いのおっさんだからか?犬だからか?」
「他に何の肉を持ち歩けって?ホットドッグでも買ってくるか?」
「結構です、ブエル大総裁もまたビーフジャーキーが好きでしょう。俺もね」
ひと息入れて、呪文の唱和。人間が悪魔の助力を得る努力と、悪魔が悪魔に助けを乞う対価の比べようのなさよ。精神的消耗をビーフジャーキーがどれだけ抑えてくれるかは不明だが、まあ人間がビーフジャーキーを生贄に呼べるものと言ったらかわいいワンちゃんがせいぜいだ。魔界のかわいいワンちゃんは世界一の竪琴の名手でなければ相手を殺してしまう、大層文化的なワンちゃんであるので、実際「ちょろい」のは目の前で仏頂面をしている獣耳のおっさんという結論に達しよう。
魔法円が禍々しい暗色の光を放ち、闇の光子がクリネラの下半身を覆い、肉と骨が徐々に構成される。体が腐り落ちるのを逆再生するような光景だ。ビーフジャーキーが怒りを買わなかったようで一安心である。
「終わったら場所を変える」
クロスは淡々と荷物を纏めている。
「あ、ところで。明日、やる?」
険しいというか呆れた顔で、厳しいというか小馬鹿にした声音で狼は答えた。
「今更訊くか」
「さすがの狼さんももう引き下がれませんかね」
「退路を断っているのはお前だ」
悪魔は含み笑い。「そんなことないって」にたり、と意地悪い笑み。
「君のプライドの問題でしょ。決着を放棄することは終ぞ出来なかったのだよ、君は。俺がとやかく言ったことは、なに、運命の可能性の誤差に過ぎなく、君はたとえ惨めたらしい負けであったとしても、その宿命を負って初めて自分の物語性を取り戻せる。自覚しているからそんなにみっともないんでしょ」
外の様子を伺う狼は、おそらく科白の半分もまともに聞いていないと思われるが。瞳の色が寂し気な風に悪魔は見えたので、
「ご不満かい、愉快な魔界の日常に未練があるかい」
「いや」
狼は首を振り、
「給料日……」
生臭い風が、吹き抜けた。
「いやいや。風さえ吹いちゃえば何とかなるって思ってるなら大間違いだからね」
「で、具体的には。リン、何をしてくれるんだ?」
クリネラに向き直り、クロスはにやりと笑った。捕食者といった趣だ、勝てる気がしてきた。
「逆鱗を貫けば勝ちだろ」
「そう、逆鱗は遥か頭上建物の四階程度でしかも飛ぶ」
さすが経験者の言葉は重みが違う。
「室内なら最低値、建物の四階を想定して頑張ることで対処できると思います」
「まあ頑張るさ」
室外に出たり、天井をぶち抜いたり、ということはあり得ない話ではないのだが、魔王の好みではないだろう。そして好みではないなどというふざけた理由を通すのが我らが魔王だ。
「竜の鱗は凡庸な刃では通らない」
狼は淡々と、料理の手順を説明するのと同じ調子で語る。いや、彼はまともな調理などしないのだから殺戮の方が手際が良いのか。そして腰に帯びた大太刀を指で差し、
「だから頼みはこれきり、鬼の骨から成る『狂骨』。これなら逆鱗を刺し貫くことも出来る筈」
受講者の悪魔はもっともらしく頷き、
「よし、勝てるぞ」
と適当に言った。
「他に勝算は」「ない」「うん」
魔王という竜は、聞けば対竜の武器兵器を山ほど抱え一族総出で挑んだ吸血鬼をも、その不死者の一族をも半数を擂り潰し、『大虐殺』として彼らの歴史に深々と怨嗟を刻み込んでいるという。こちらは所詮味方は二人きりとは言え、
「備えは多い方が嬉しくない?」
「では聞かせていただこうか、俺に何をしてくれるんだ?」
クリネラは近づいてきたクロスの右頬に――眼帯が覆っている――軽く触れ、
「バフをかける」
バフとはネトゲ用語で能力の上昇など有利な状態が発生、持続する効果のこと。クロスが「どういうことだ」と問うたのはスラングが通じていないからである。会話の基本は相手のことを考えること。
「君に強化の魔法をかける。知っての通り、人狼の皆さんは『魔法が効きにくい』という特性をお持ちだ。だが承知の通り、君の躰の右の方、魔法の焔で焼かれた上に中身だけ魔法で治してもらっている。魔王級の魔法の前に汎用ユニットの特性なんぞ無意味なのだ」
「御託はいい」
「俺の魔法はめっちゃ強い。君を組み伏せるために色々使ったが、成功しているおかげで無事
具体的には魔王の焔で焼かれた右半身には魔法の介在があるため、そこからこじ開けるように魔法を流し込むイメージ。
「なかなか良いのではないかね」
同意を求めてみたが、
「それは確かになかなか良いが、周りの雑魚をどう処理するかが先だな」
時には手放しで喜んでほしい。
「君は魔王殺しに集中するべき」
「それなら」
「同胞殺しを請け負うてやる」
さあ、ありがとうと言って胸の中に飛び込んで来い。
「自信過剰か」
「パートナーの実力を信じてくれよ、これでも大虐殺の反奇跡の故に天国で門前払いを食らってエスカレーターで魔界にやってきた期待の新星なのだから」
地に墜ちて輝く星は自分と大いなるあの方くらいだろう。
「ただひとこと言っておくと、俺の魔法は壮大に過ぎるので狼さんの方で巻き込まれないように対処してくれ」
「それでは集中できないだろうが」
至極真っ当な指摘である。
大丈夫、とクリネラは狼の両頬を叩いて、
「
見たこともない本数の皺を寄せ地獄の門の前で試作に耽る人のように頭を抱え、狼は「あの方の名前をそんなことで口にするな!」と呻いた。
地下水道を行く。
「悪いが、もう一瞬たりとも口を開きたくない」
そう言って狼は言葉通り口を噤んだ。常から不機嫌そうな顔が一層険しい。喧嘩したのではなく悪臭のせいである。鼻が辛いのだからいっそ口呼吸をした方がましなのでは?余計なことを考えると自分の身を滅ぼす。
地下水道を通る理由は、人目を避けているのと、匂いが誤魔化されるからだ。クロスに言わせるとそれでも十二分には程遠いのだが。悪臭の中でこそ輝く種がむしろ一般的な魔界の中枢なのである、狼を撒く心算で彼らの巣に飛び入っていては話にならない。鼻も利かないようなのに迷いもなく水路をざぶざぶと進むクロスを、宙に浮かんで付いて行く。足は戻ってきたがわざわざ汚水に浸ることはない。
地下水道に精通するような人生を送ってしまったのは仕方のない話だが、それを活かさずして何事か諦めてしまう、というのは勿体ない話ではないか。勝手に地下水道を根城にしていた頃のクロスに思いを馳せつつ、幸せで穏やかな老後なんてものがあるなら尚且つそこに俺もいるのなら最高なんだけどね、とクリネラは思い、――あるわけないじゃん。魔界だぞ。――わざわざ神の国を見限って悪魔に堕ちた男の知られざるノリツッコミ。
クリネラ・クリムゾン・スプラウトの今一番の願いは、彼の人生の意味を取り返してやることである。復讐の歓びは己が為し得たただ一つの成果だった。それさえも奪われたと言うのなら、このクリネラ、人生の蛇足は捨て身の愛に捧げてしまいましょう。詰まるところ無理心中の申し込み。
クロスの耳がぴくり、と動いて、立ち止まる。しばらく逡巡したのち、ゆっくりと移動する。誰かの足音でも聞きつけたか、立ち止まること自体は時折あったが、今その顔は心持ち不安そうである。具合のいい壁の窪みで再び足を止め、難しい顔(彼の表情は全体にそうなりがちなのだが)のまま耳だけ動かしている。
「どうしたの」
その耳元で囁けば面倒そうに、首を横に振る。
「知り合い」
なぜ首を横に振ったのか、なぜ知り合いと分かるのか。焦っているでもないところを見ると、彼を探しに来た狼たちにリンチにされる心配だけはしなくてもよさそうだ。面倒が起こりそうなことには変わりない。
「駄目だな。向こうも気づいてやがる」
「ピンチ?」
狼は一瞬言葉に詰まったようだった。
「然程」
然程、何だって言うんだ。ただクロスの動揺が伝わった。彼のハードボイルドは時々当てにならない。
「俺がいるからね。何事も些事ですよ」
慰めのつもりで軽く肩を叩く。
「何様のつもりか」
その手を払いのけ(非道い)、クロスは元の方向へ戻るように歩き出す。確かに足音が聞こえてきた。悪魔には残念ながら足音で個人を判別する技術はないのだが、大勢の足音でないことくらいは察しがつく。
果たして暗がりの向こうに人影を確認すると、クリネラは魔法の光球を放った。狼には見えているのかもしれないが、暗すぎるのだ。そして突然の閃光は明るすぎた。クリネラはクロスから肘鉄を食らう。
「余計な事をするな」「ごめんて」「誰彼敵に回していられないんだぞ」
「ふん、いちゃつく暇はあるみたいだな?」
あ、いけない、忘れてた、と悪魔が声の主を確認すると――聞き覚えがあると思ったら――近衛兵の二番、平たく言えば三番の先輩狼である。人相が悪いことにかけてはクロスとどっこいどっこいだが、社交性については圧倒的に二番に軍配が上がり、クリネラも言葉交わしたことが無いのでもなかった。それを踏まえてクリネラが思い巡らせたのは、狭く魔法耐久の期待できない地下水道での立ち回りである。
「あ、どうも……お散歩ですか?スカベンジャーですか?給料日前だから」
「
「そうだ。たったの十人で探してるもんでね、早いうちに内々でさっくり対処したい。そんで俺は地下水道に精通しているから任せろと言ってきた」
地下水道に精通するような人生を送っている者がここにまた一人。
「助かったと思っているだろう」
その悪い人相を更に不気味に見せる笑みで二番はクロスの顔を覗き込み、クロスは微かに緊張しているようだ。
「思っている、が、近衛兵の一人二人は問題にならないからだ」
しかし、誇張で言っているのではなかった。
「認めやがって」
二番はクロスの脛をじゃれつくように蹴った。
「今更やる意味はあるのか?」
「意味は元々ない」
これは、何度も彼が言ってきたこと。「それじゃ仕方ないか」二番はふい、と顔を逸らし、
「しかし、意味もなく可愛い後輩たちを手に掛ける覚悟の方はどうだ?死んだ過去より生きてお前を受け入れてくれる仲間は意味がないのか?」
「覚悟の話をあんたにされたくはない!」
クロスもまた笑みの形に顔を歪めて二番の脛を蹴った。
「何の因縁か聞いてもいい?」知らない話を前提にされて置いてけぼりなので、説明を乞う悪魔。
「いいぞ。もう百五十年くらい前になるかな、魔王陛下を暗殺する為に俺たちは組んでいた。俺は魔王を殺す気満々で城下までやってきたものの全くの無策で、祢屋、二番、はその時近衛兵隊の十九番で、詳細はどうでもいいが」
「はいはい」
「祢屋が裏切った」
唾でも吐きかけるかという勢いで言い捨て「フーッ」と長い溜息のようなものをつく。話すうちに苛々してきたのだろう。二番はそっぽを向いている。
「その結果暗殺に失敗してクロスさんが近衛兵になったのかあ。意味分かんねえな」
「魔王に訊いてくれ」
「もういいよ」
微妙な関係なのは了解した。百五十年も家族の仇に仕えて自分を裏切った奴と轡を並べていた上で多少突いたら即決するくらい何だかんだで復讐へのモチベーションを維持していたクロスはやはり結局は復讐者に向いているし、復讐はするべきだ。己の判断はきっと大正解である。
「まあ、それでさ、ユキ……」
相変わらずそっぽを向いたままで(ばつが悪いとでも言うのだろうか)二番がクロスへ語り掛ける。――ああ、このひとも魔王が狼に捨てさせた名前を知っているのか。
「もうどっちに肩入れするでもないんだわ、俺は。全く信念などない屑でな。忠誠はかりそめでも、暗殺には加担できん。ただ別に止めようってわけじゃないんだが、俺がここでお前たちを殺してしまったことにすれば楽に逃げられるんじゃないかって」
クリネラは、今はただ挙動不審な言動を取っているだけの自分たちがそこまで追い詰められた状態であると知らされ、確かに魔界では疑わしきは罰せよなんだな、と側近に心の中で詫びた。多分にクロスに前科があるからだろうが。
「悪い。逃げる理由がない」
クロスは素っ気ない返事をした。
「復讐に意味はないと言ったな、あれは嘘だ。意味を与えるために行くんだ、とこいつが言うもんだから」「はい俺こいつだよ」「今度はお前抜きでもやり遂げるから、お前は見なかったことにしてくれ」
しかし、まあ。呆れたことには。悪魔は内心面白くてたまらないが、言葉では殺す気がないと言いながら、狼たち二人は同時に殴りかかった。
二番狼が「残念ながら」と言いながら、銀に似た灰色の髪をひと房持ち帰ったことを訝しがる者もいたが、それで手打ちになった。一番が、暗い顔で「仕方がない」というので。誰も彼も、嘘を吐くのが下手っぴだから、と八番は思っている。
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