第19話 傲慢、虚勢、私だけのもの
「ガゼルロッサ殿は薔薇吸血鬼なのですね。獣肉ばかり口にされているので血に飢えた嫌茨吸血鬼かと思っておりました」
眼鏡の奥で切れ長の目が笑う。マイドロガノムン・メズブラディアモは熱いコーヒーを飲んでいたが、ガゼルロッサは自前で用意したローズティー(アイス)を啜っていた。アルメニはアイスコーヒー。
「嫌茨と言っても、茨の魔除けは強い効果じゃない。弱点克服中以外は単なる好き嫌いだろうさ」
薔薇の香りは血の飢えを落ち着かせる。ガゼルロッサの場合は冷たい麦茶でも癒されるだろうが。黙って一枚真っ赤な花弁でも浮かべて涼し気な顔でびろうど張りの椅子にふんぞり返りでもすれば、声を掛けるのも憚られるような妖艶な美青年吸血鬼の気怠い休日的な雰囲気になるのは本人もよく承知の上でフライドフェニックスと
彼の部屋の惨状は今に始まったわけではないようで、書類の日付を見るに相当の歴史が積み上げられ、地層を成しているのだった。最近の資料はそもそも紙媒体ではないため、それらが過去のものであるのも当然なのだが。壁は一面が本棚、部屋の中も本棚で区切られているのだが、その数多くの棚には一部の隙もなく、本は二列で狭苦しそうに並んでいた。
「相当忙しいらしいな」
「仕方ないですね。親衛隊の仕事が忙しいのは久しぶりのことですから」
部屋の主は展開している画面から目を離さず答えた。地図のような模様が浮かんでいるが、詳しくは分からない。
「界の接続が不安定じゃない?」
「やはりそうですか」
アルメニに親衛隊長も同意のようだ。
「原因は分かる?」
「いえ、このマイドロガノムン・メズブラディアモも究明中です。ひとりの手に負えるような問題かどうかもありますがね」
親衛隊長はかぶりを振る。顔に映る蒼白い反射光が、疲れた顔を一層不健康に見せている。
「しかし、この環境が作戦行動に影響しているのも事実です。甚大な、とまでは言いませんが、相手の練度から考えれば命取りにも成り得るでしょう。特に魔法界からの探索の精度が落ちています……」
「そもそも人狼でしょ、魔力反応を使った探索の効果は期待できる?」
「反魔法の性質を辿って調べています。後は旧式ですが星辰界探索の併用を」
「全部界通してるなあ」
「固有魔法で探知をできるような子、千里眼がひとりしかいないのですよ。魔女の谷から応援を呼ぶのなら別ですがね」
ガゼルロッサの瞼が下がって来た。いけない。
視線を彼らから外すと、本棚と書籍の隙間から鴇色の巻き毛が揺れている。あれは、親衛隊長に突っ込みを食らわせていた少年ではなかろうか。
「入ったら」
しょせんは冷やかしの側近たちである――ガゼルロッサは手招いた。障害物の隙間を慣れた様子で割って来たのは、やはり親衛隊の腕章を付けた少年魔女だ。魔女がよく着ている法衣ではなく半ズボンを着用している。膝小僧が少年らしいアクセント。ぱっちり円い黒すぐりの目が、値踏みするようにガゼルロッサを見つめている。「失礼します」
マイドロガノムン・メズブラディアモが彼の入室に気付き、顔を上げる。
「ああ、彼が千里眼ですよ。フェオナイロシェット・ミーミマイアです」
「魔女親衛隊です。ロシャでいいです」
内心胸を撫で下ろすガゼルロッサだった。ガゼルロッサも中々仰々しい名前ではあるののだが。滅多に呼ばれもしないがガゼルロッサも愛称はガゼルとなって少しばかり入力の手間が省ける。最近は予測変換もあるのでそもそもの手間いらず、益々見かけない愛称だが――そもそも文通する相手の存在がいないのでは――マイドロガノムン・メズブラディアモは愛称をつけるとしたら何なのだろう。マイド?
「隊長、投影地図が出来たのでお渡しに来ました」
「ご苦労様です」
頭を撫でて貰う少年、硬かった表情が途端に花が咲いたような笑顔になり、見ているとむず痒い感覚に襲われ、アルメニの方へ視線を流した。アルメニの目線もまた流れていた。彼女の目が言う。――お前と似たようなもんだよ――
「とんでもない。隊長、ミケシュが丁度お探しのあれ、見つけたみたいですよ」
「そうですか」
「見てきては?」
親衛隊長がちら、とガゼルロッサを見遣る。
「お構いなく」
「では少しだけ。倉庫の七ですね」
強張った体を伸ばし、親衛隊長は徐に立ち上がる。紙束を長い足で乗り越えて、「失礼」と部屋を出ていく。
その様子を笑顔で見送っていた少年ロシャは、彼が出て行った途端にすっと無表情に戻り、
「そんなに気になりますか」
威圧するような低い声で言った。ガゼルロッサへ、だろう。
「親衛隊のことか?少しは心配じゃないか、色々と状況が」
「色々と、なんてまどろっこしい」
ロシャは目をこちらにひたと向け、つかつかと――この散らかった床面を相当のスピード感をもって移動するところをみると、彼も入り浸るタイプかもしれない――歩み寄り、
「先程も隊長を訪ねていらっしゃいましたね。」
「問題があるか?」
「ありますよ」
ガゼルロッサの目前で止まる。柔らかそうなパーツの構成要素からは意外なほどの威圧感を纏わせて睨む少年に、側近も内心は焦っている。親衛隊長でさえ把握できていないガゼルロッサが悪いのだが、親衛隊員の中ではともするとこのロシャこそ――
「ご用事があるなら手短に済ませていただきたいですね。隊長は気のいいところもありますが、手を煩わせるまでもない用件ならこの僕にでもご相談ください。ご心配いただかずとも狼どもは着実に追い詰めておりますから。陛下によろしくお伝えくださいませ」
親衛隊長が側近に構うのが気に障ったようだ。ガゼルロッサが彼らを近衛兵隊と比べるように、彼らも近衛兵隊と比べている。魔王の忠実な犬の振舞いを。
「ご尤も。諸君が期待する成果を得ているのならば、それは御前で隊長殿が報告するだろう。俺はまた俺の用事で隊長殿を訪ねているだけなのだから……しかし今度はお前を訪ねるかもしれない、ロシャ」
千里眼に警戒をされては、しがない不死者風情に勝ち目はない。引き上げることにして、ガゼルロッサは段ボール箱から立ち上がる。様子見で嫌われては堪ったものではないからだ。
丁度、親衛隊長が部屋へ戻ってきた。やはり疲労の影が色濃いが、口元には挑戦的な笑みが浮かんでいる。
「お待たせしました。明日の朝には良い知らせをお伝えできそうですよ」
「それはいい。是非に明日の朝聞かせてほしいものだ」
アルメニも頷いた。
「コーヒーご馳走様。接続不良は他の悪魔……ウルティナス卿にも聞いてみるから。分かればあんたにも話すわ」
「おや、お帰りですか」
「邪魔したな」
ロシャを一瞥し、足元に用心しながら部屋を出る。恰好がつかない。
後を追うように飛んできたアルメニに、小声で文句をつける。ガゼルロッサばかり目の仇にするロシャの目の付け所は少しおかしい。
魔女が主に独占している東南の塔乱鴉塔は造りが古いままで、石造りの壁の隙間を漏れ出るように、くぐもった話し声が廊下に響いている。
「お前、親衛隊とは付き合いあんのか」
「まあね。魔法使い同士よ。咬みつき同士が仲良しだったくらいに、じゃない」
近衛兵隊と仲良くしていた心算はないが、偏りがあるとすれば魔王自身のせいであろう。魔女の待遇が若干悪いのは私怨以外の何物でもないのだから。とはいえ私情を差し挟まない公平な魔王は付け入る隙もない恐怖政治になってしまうな、とガゼルロッサには都合の良い話である。隙があっての側近稼業だ。
「残念だが俺は嫌われたらしいな?」
「ロシャ?同族嫌悪でしょお。貴様らの思考回路は全く分からんわ」
大袈裟に頭を振るアルメニ。
「ん?」
「マイドロガノムン・メズブラディアモと大した用事もないのにお話してるから嫉妬してるんじゃないの?」
「そういうことなのか?」
――嫉妬するようなことなのか?
「お前はいいのか」
「あたしはいいの。理屈は千里眼に訊いてくんない」
釈然としないが、態度が露骨に変わるロシャの様子には身に覚えがあるのでそのうち分かりあえる日が来るだろう。
「踊り子さんにはお手を触れないってのがあたしのモットーでね」
「そりゃあ存じ上げなかったな」
「悪魔の証明だもの」
つまりはあまり重要でもないモットーなので、悪魔の言うことなどは信用に値しないのだ。
「そういやあんたが上級魔族っぽい話し方するの気持ち悪いね」
「藪から棒に失礼な奴」
別に礼を求めているわけではないが、実際にその辺の有象無象よりも遥かに上級魔族なのだから見当違いも甚だしい。敢えて言うならその方が素だ。
「最近はあんたがご寵愛に
「風評被害じゃねえか」
「どこに風評が含まれているか言ってごらんなさい」
「吸血鬼は元々偉そうにやるもんなんだよ」
アルメニがふっと笑った。呆れて。
「いつまでもあると思うな
もちろん吸血鬼の模範解答は魔王に服従する気もなく自分の領地で優雅に深紅のワインを傾け暖炉の前のびろうど張りの椅子に座る、暇に飽かせて処女の血一番搾りをテイスティング。こんな具合だろうが。
魔王の臣下として駆け回っていては小物感が出てしまうのも些か已む無し、特別秀でた特技もなし、しかしながら、風評はもう一つあるようだ。
「ではお前も俺が現状、に満足していると思っているか。失礼な奴だぜ」
「向上心があるのはいいことじゃん」
「初めから俺はあの方を我が物にしたくて堪らなかった、のだから、未だいくらもこの喉は潤っておらんわ」
「うわ」
アルメニが心底不快な顔をしてガゼルロッサから離れた。臭い言い回しが苦手なのだろう。彼女は
「アルメニ貴様、この程度の臭い台詞も吐けない輩に魔王の話し相手が務まると思うてか」
「うう、あんたたちがそのノリでふたりっきりの世界に入るのがさぶいぼ出るんじゃ……お前の顔が良くなかったら今頃ゲロ吐いてるんじゃ……」
思いがけない告白を受けた。もう百年以上の付き合いなのに。
「ふうん、お前、俺の顔が好きなのか」
「寄るな。そういう意味じゃねえしオメーは顔だけだわ」
ガゼルロッサがにやにやしながら顔を寄せれば、アルメニは右手を迷いなく突き出し張り手を食らわせた。
吸血鬼の顔が良いのは当然。彼らが新たな血族を求める際に最も重視するのは、その彼/彼女が永劫の刻の流れに摩耗しないだけの器量を備えているかという点――率直にいえば流行り廃りのない美形かということを――である。器量の悪い吸血鬼では獲物を食らうのにも一々大騒ぎになる。ガゼルロッサにしても例外でなく、魔王が多くの吸血鬼を灰燼に帰せしめたその折に最も状態が良いルーマニア産の美少年の死体が求められた結果だ。確かに顔だけで吸血鬼になったようなものだ。
もっとも魔界なんて場所柄、美容整形の手段にも事欠かない(魔法による変身・悪魔との契約・外科手術・幻覚・常識改変)のだから顔が良いくらいでは大したアドバンテージにならない。
「白米大盛りをラーメン餃子セットで食うその口で美辞麗句を並べ立てたところで今更よ、あんたは自覚があるんだかないんだか……」
「ふっくらと炊き上げられ白く艶やかなジャポニカ米は魔王さまの鱗に勝るとも劣らぬ輝きで」
「そういう意味じゃないんだわ。魔王に仕える大喜利職人みたいなことは求めていないんだわ。あんたがナメられてて大変ねえって話してやってんだろうが」
アルメニは生粋の
「ふん、お気遣いなく。魔王さまさえ分かっておられるなら構いやしない。それに必要なことはいずれ皆分かる」
「ほお、強気なことで」
アルメニがまじまじとガゼルロッサを見る。何か意外とでも思っているようだ。
「最近あんたさあ」
沈黙。ちなみにふたりの体勢は張り手を突き食らわしたままである。
「拾い食いでもしたかな?」
「何を真面目くさった顔で考えてたんだ」
顔を離す。
「心配に値するようなことは何もない。拾い食いも肉の生食も賞味期限切れもない。いいな、俺はもう休む」
「さよか」
手近な窓に手をかける。ガゼルロッサの私室は西塔、真逆にあるのだ。乱鴉塔ときたらまた、陸の孤島ならぬ魔王城の孤塔と化しているきらいがあり、転移魔法円の床を四回ほど踏まねばならないのが面倒である。そういう時に魔族はどうするかと言えば、世界の自由度の高さを思い出すことである。
ガゼルロッサはマントの下から蝙蝠の翼を伸ばし、窓から飛び出した。アルメニはもう少し魔女に油を売るのだろう。不格好に突き出る塔と塔の間を静かに滑空する。翼が風を受ける感触を楽しんではいるが、これで飛んでいるということではない。飛ぶには翼が必要というだけで、言わば術の手順。魔族は様式にも拘る。
ガゼルロッサは暗闇を飛び上がり、開け放たれた窓に手をかけた。真白のカーテンが揺れる自室の窓。押し入られ困るようなものは何一つ置いてはいない、塵の少しさえもない空虚に冷えたガゼルロッサの部屋。
僅かな家具は文机とベッド、備え付けの衣装箪笥。文机に収まっている箱型の椅子を引き出し、側面の溝をなぞる。軽やかな音とともに、座面が回転する。錠がかかった中蓋を用意の鍵で開け、中に納まっていたひとの頭ほどの水晶を取り出す。もう少し用心するべきなのかもしれないが、暮らしを変えたくないというのは側近の細やかなわがままである。他に比べればほんの細やかなもの。
――これは私が王座を退くときのため。
それを今渡したのだということ。ガゼルロッサは魔族の時について考える。永劫の時を得ればこそ、惜しむべき時間は瞬く間に過ぎ去り、
「まだ心の準備がつかないのです、どうか」
時が来なければ。まだ焦がれた風景を手にする力がないから。
胸に焼き付いた夕日のような光、を鈍く反射する白銀の鱗、の中でふたつの月かと思われる金の瞳が輝き、深紅のびろうどの舌を焔が舐めまわした。紅は真っ白な躰を血の色に染め上げて、曇天を鮮やかに突き刺した。
――どうしてあの焔は紅かったのだろう。――父?父とは誰のことなのでしょう――生前のことはあまり覚えていない――どうして死んだのだったかも、いつ目覚めたのかも――
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