第21話 永訣の朝

 狼は夜目が利くだろうに、とクリネラは思ったが、そもそも魔界の住民で闇夜に弱い妖魔などいないのだった。いくら曇り空といっても闇の中よりは視界が拓ける。追われる身のクリネラにとっては両刃の剣でもあるが、どうせ襲われるのならば見えている方が心の準備もできようものである。いかなる追っ手であれ負けることは考えていなかった。

 ほの白い空を背景に、狼が別れを告げていた。蛍火とその細君、それに少年がひとり。泣きもせず、言葉少なに囁きを交わしている。そんな様子を遠くの窓から眺めている悪魔の耳に声は届かないが、思うよりも落ち着いた様子だ、と感想を持つ。親と今生の別れともなれば、あのくらいの子供なら泣き叫んだって許されるのになあ――いや、魔族とはそんなものかもしれない。羨ましい世界観だ――

 背後から板を踏む音が聞こえ、振り返る。身支度を整え終わった様子の六花である。

「起きておったか。はよ支度して飯を食わんか」

「やれやれ、母ちゃんかよ」

 苦笑いで答えながら荷物を掻き寄せる。支度とは言っても大した手間はない。せいぜい上着を羽織って、バックパックの中身を検めておくくらいだ。それと、洗顔。バックパックの底に転がっていた拳銃を取り出す。折角だから使えるようにはしておこう、とベルトに捻じ込むのを見、「待て待て」と六花。別の部屋からホルスターベルトを持ち出し、腰に巻かせる。

「ありがと」

「適当で暴発されては敵わんわ」

 六花が溜息を吐く。

「あんた、お別れはいいのかい」

「もう十分。膳を運ばせるから、布団を片付けておくのじゃ」

「どんな具合に」

「適当に折って畳んで押入れに詰めておけばよし」

 そこで言う通り適当に折って畳んで詰めたところで、湯気立つ膳を持って猫が現れる。布団が襖を押し上げる様子に渋い顔をする。

「どうせ戻ってくるのかも分からんのじゃし」

「そりゃあそうですけど、品がないです」

 猫が運んできた膳の上をよくよく眺めてみれば、蒸した鳥の粥に焼き鳥に大根の漬物。抱いていたイメージとの若干のずれにしばし凝視する。

「せっかくなので絞めちゃいました」

 猫のジェスチャーつき(絞める)の回答に「なるほど」と呟き、粥に口をつける。室内とは言え、朝の冷えた空気に肌を晒しながらの温かい粥は格別染み渡るように感じる。薄味に漬物の塩気が丁度いい。焼き鳥だけがアンバランスだ。

「猫ちゃんが作ったの。美味いよ」

「恐れ入ります」

 正座で控えている猫が、ぺこりと音がしそうなお辞儀で答える。

「みんな肉好きだな」

 悪魔の脳裏に浮かぶのは魔王城の混沌とした食堂だ。朝から胸焼けのするような脂の匂い。朝から胸焼けのするようなハンバーグステーキ。食べているのは側近。彼は元気でやっているだろうか、給料日前だからぴーぴー言ってるんじゃないだろうか。思えばそこら中のテーブルからカロリーが匂い立つような食堂の風景だったが、そもそも人食いの化け物どもの集まりなのだから三食肉でも不思議ではなかったということか。

「肉は好まぬか」

「いいや、適度に好きだよ」

「よしよし、しばらくは干し肉に付き合うてもらわねばならぬからの」

 口元を隠して優雅に笑う女狼の、細い顎の方を心配してしまう。細い手首に華奢な肩、何やら負けん気だけは強そうな彼女だが。

「自分は土地勘がないし、みなさんに付いて行く所存だけどさ。お六さん、あんたってどれくらい頼れるの」

 悪魔は失礼でも牽制でもなく、必要として訊ねた。最近は安心して背を預けるぬるま湯に浸かっていただけに、少しは慎重に動かねば。昨晩は皆が皆慌ただしく動き回っていたし、クリネラは疲れが出たようで早いうちに寝付いてしまった。打ち合わせる暇もこの通りである。

 六花は小首を傾げて思案しつつ、

「まあ健脚は健脚……今度も別に初めて行く道でもなし。わらわは子供が心配じゃ、義姉上たちも丈夫じゃがそればかりは気を遣うもの。道々気を付けねばならんのはワイバーンに大熊に、一人なら逃げ隠れしてやり過ごそうが」

 ふと腰に帯びた鎖鎌に手を触れ、重そうな音が鳴る。冷たく光るそれは仰々しいばかりでなく、心得があって装備しているのだろうと察せられるが、クリネラは寡聞にして鎖鎌でどう戦うのかを知らないため余計に不安である。

 クリネラ自身はといえば、その主たる武器は大火力の魔法で、コストパフォーマンスが非常に悪い。あるいは機動力の高い味方を触手系使役生物でねちねちと支援するのも得意であるが、いずれにしろ魔力を惜しみなく使ってしまいがちだった。クリネラはゼロか百なのだ。バックパックの底に転がる魔法石――道中でなけなしの路銀をはたいて買い集めた粗悪な使い捨て品――の数を思う、決して万全とは言い難い。コルトは予備の弾倉など持たないし。

「私も、普段の道中でしたら心配はないと思いますが」

 猫が伏し目で手を落ち着きなく動かしながら、

「低級の獣たちはものいう獣、私たちを恐れておりますから。問題はその、追っ手がどうかと」

「追っ手の方はねえ」

 悪魔は真っ白な空の向こうを睨んだ。これでも並みの魔族よりは余程鋭敏な感覚を持っていると自負している。それこそ獣がより強い獣の気配を察知するように、脅威的な魔法の気配があれば眠れない程度に落ち着かないものである。まして魔法で探りを入れられているのであればなおのこと、被対象者としてかけられる力は正確で強い魔法ほど隠しようがない。こちらが察知できないということは向こうも同じ、魔法的な手段による探索では未だ悟られていないものと考えられる。豪速で空を飛ぶ見慣れない悪魔の目撃証言はまた別の話だ。

「遅かれ早かれここには辿り着くのだろうけど、目立たないようにやるしかないかと。自分は魔法使いには違いないが、派手に暴れれば察知されてしまう。協力者として手の内を明かしておけば、自分の切り札は爆発の魔法だ。こういう山にクレーターを作って新しい湖を作るのなんかは大の得意だけど」

 六花は苦笑した。

「過ぎたるは、よのう。お主、腰の得物は扱えるのか」

「それがまた、これは形見に先日譲ってもらったばっかりで。魔族として柔らかな肉を引き裂く腕力には自信があります」

 六花は猫に「適当にあるじゃろ」と言いつけ、猫は難しい顔で部屋を離れた。食器が空になった頃合いをみて、六花が湯呑に茶を注ぐ。また豪快に湯気が立ち上っている。

「わざわざどうも」

「気にするな、飲みたいのはわらわじゃ」

 そう言うわりには、自分の茶にはふうふうと息を吹きかけるばかりでなかなか口をつけない。狼なれど猫舌というか、狼だから狼舌なのか。

 朝とは言え室内は暗い。曇り空のうえ、部屋の半分は岩穴に埋まるように作られているからだ。部屋の隅に蝋燭の明かりを灯している。その僅かな光源の中で、彼女の銀色の長い髪や白い肌はよく映えていた。これからの予定を思えば化粧の類はしていないだろうが、肌は十分に滑らかな艶を帯びて、唇(必死に息を吹いている)は十分に血を滴らせたような紅色だ。魔族の決して明るくない白い肌は、闇の住人として磨かれた美しさなのだと改めて認識させられるものである。闇の中で一瞬垣間見えるその顔が、永遠に刻まれるようにと願ってなのか、蠱惑的で妖艶なものほど高級な魔性であった。

 ならば、今ぼんやりと見つめている美姫もまた一級の妖魔に相違ない。クリネラは彼女が立ち上がったときのすらりとした長身にコンプレクスを感じながら茶を飲み下した。とても熱い。煮え湯を飲まされているのではないだろうか。

「なんじゃむつかしい顔をして、煮え湯を飲んだような顔じゃな」

「ご明察」

 くくく、と喉で女は笑った。分かっているのなら加減してくれと言いたい。

「おまたせをば」

 猫が戻ってきた。その手には飾り気の少ない小太刀が載っている。目を引くようなつくりではないが、目にしたとき微かに冷気を感じる。妖気とでも呼ぶべきだろうか。

「こんなものか」

「当面は十分ではないかと」

 鼻白む六花をよそに猫は説明する。

「これはその昔、妖刀血吸いむらさきと言った刀。その折れた刀身を打ち直したものです。小さくなったとはいえ立派な妖刀にございます、この辺のスライム相手ならばと一刀両断にございます」

「もう少し強そうな実例を頼む」

「折れてしまってからは柴刈り程度にしか使ったことがないもので」

 妖刀を鉈代わりに使うのは、一級の魔族特有の価値観によるものなのだろうか。

「なので血に飢えているかもしれませんが、せいぜい注意してお使いください」

「俺、なんか君を怒らせるようなことしたかな」

 いえいえ、と猫は首を振り、小太刀を押し付けるように渡した。手にした瞬間は冷たく重たいが、持っていると変わったところのない小太刀に思われる。これが妖刀の妖刀たる振舞いなのか、思い込みなのか。

「いかが」

「十年来の友達のように手に馴染む」

 ふざけた回答に意を得たように頷き、六花は立ち上がる。

「ではそろそろ出立の用意をなされよ」

「食器の片付けが済んだら直ぐにでも発てますよ」

 着の身着のままが全ての悪魔は肩を竦めた。

「じゃあお下げします――」

「じゃあ猫さん、洗わせてよ」

 その程度で気分が良くなるはずもないとみえ、猫は澄ました顔で、

「お客人にそんな、滅相もない、結構です」

 刺々しい声音で言って素早く静かに膳を運んで行ってしまった。二股の尻尾が左右に勢いよく振られている。

 息を吐き、何となしに外を見れば庭から黒い狼が窓辺に近づいてくる。祢屋だ。

「まだごゆっくりされてるのか」

「許容範囲内じゃ」

 六花が落ち着いた様子で答える。

「どう思うかね、短足」

「何が、だ」

 意味深な投げかけ、試すような言い回しは年長の魔族らしい。もしくは、ただ単に落ち着かなくて話をしたいだけなのか。

「魔王陛下はほんとにいらっしゃるかどうか」

「俺よりかは近衛兵殿の方がよく存じ上げていると思うが、感情を優先されるだろうよ」

「多分止められる奴もいないだろうし」

 祢屋は手に持った吸いさしの煙草をふかした。その遠くを眺める視線の先には、茫漠とした曇り空。

「死ぬのが怖い?」

 煙草の灰がぼろりと落ちる。

「おっと。何の溜めもなく、また。なるほどファム・ファタルの才能がある」

 大きく、大袈裟に煙を吐いてから、

「残念ながら、とても恐ろしい。ただ、逃げ出す先ですらここは地獄なもんだから」

「そんな後ろ向きな気持ちで勝てると思ってんの」

はどうだった」

 鋭い目に見つめられて、少し言いよどむ。それは、六花に対する気後れのせいかもしれないが。

「死を覚悟していたよ」

「あいつはあいつで死にたがりだからな」

 何故かその言葉には反論したくなる響きがあり、

「だがそれを言い出したのは彼だ。それに、死にたいがために向かったんじゃないし、命と引き換えてでしか得られないものの為に」

 その答えは果たして得られたのだろうか、それがあると信じているのはクリネラだけではないのだろうか。続きは言葉を成さず、声が喉に張り付く。

「声に怯懦を感じはしなかった。指先さえも震えていなかったし、尾はピンと伸びて威嚇してた。それが真実かどうかは本人しか分からないが、言葉より躰が正直なひとだったから俺はそう思っている」

「てめえの声のが震えてんぞ」

 本当に、今更何を揺るがせているのだろうか、指先を確かめたときには微塵も疑わず信じていたのに。自分は理解しているのだと。何よりも誰よりもその求めるところその感情の落ち着く先を――

。大体こういう傷は後から痛み出すものじゃ」

 六花の声は鋭く場を制した。祢屋は軽く笑う。

「虐めた心算はなかったさ。脱線、ちょっと聞いてほしいことがあっただけ」

「言うてみよ」

 煙と一緒に吐き出すように、

「俺の名前ね、与銀っていうの。銀を与える。与えられた?それが母が言うには、半分はそうらしい。……それだけ」

 すっきりした顔、とはいかないようで、祢屋は軽く目を閉じて煙草を咥えていた。

「あんた煙草喫うのな」

「ああ。嫌がる奴がいたもんで」

 それは知っていたな、と少しだけ気分が持ち直す。

「邪魔した、マアもしも俺に生き別れのきょうだいでも見つかれば伝えてくれよな」

「てめえも俺に遺言を頼むんかい」

 これ以上は勘弁してほしいのだった。

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墜ちた星が再び天に昇る為の約束と予定調和 紫魚 @murasakisakanatsuki

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