復讐の意味
第1話 その死を目がけて
魔界は今日もよく曇っている。食堂の大きな窓から差し込む陰鬱な光、それは太陽の光でさえないが、それなりに室内を薄明るく、もしくは薄暗く照らす。仮にもここは魔王の城であるのだから、明るく綺麗で清潔な食堂など無用。床はしみじみと油でぬるつき、焼けた獣のおぞましい臭いが充満する、実に結構。蒼白き頬の美青年はさっくりとした衣を纏ったオークのとんかつ(と呼んでいいものか)を頬張る。すぐ傍では同僚であるオークが何らかの亜人種の姿焼きデミソース仕立てを貪り、倫理を放棄したその風景は楽園にも似た地獄、というか魔界。極めて魔界。激安オークのとんかつ(便宜上)は量が多いだけで筋ばっておりパサパサしている、極めて不味い。
何が悲しくて、何が楽しくてこの肉であることだけが取り柄の肉を食んでいるのか。青年の顔は吸血鬼らしく孤高の美を放つが今は眉間に皺を寄せていた。吝嗇は罪だ。暴食は罪だ。罪を重ねるのに吝かではないため、頼んでしまったのがこれだ。魔界には悪意が満ちている。それでも尚彼は咀嚼を止めなかった。この罪深い吝嗇に身を焦がすのもあと数日、給料日までのことなのだ。今はただ、瑞々しく盛られたキャベツの千切りが、地獄の剣の山のように凛とそびえる白米が愛おしい。
食堂の片隅にまた一際暗く淀んだ空気の席がある。――体から生肉の臭いを吹き出す異形を背負った悪魔の席、これも確かに酷い空気だがそういう意味ではない。――男が二人、悪魔と狼獣人とが会話もなく。
何が悲しくて、何が楽しくて二人がつるむのか、魔王の側近ガゼルロッサには見当もつかなかった。しかしながら二人つるむからには、大抵、悪魔短足のクリネラ・クリムゾン・スプラウトが(一方的に)近衛兵の三番狼に話しかけていたり、なんだりしているものだが。喧嘩でもしたのかと少し気になって、とんかつの咀嚼ついでにその面白くもなさそうな二人を漠然と眺めていたのである。
短足は美しく澄んだスープの丼を抱えていた。間違いない、こだわりの塩ラーメンだ。脇には様式美の餃子。彼が箸を動かせば、黄金色の縮れ麺が悪魔の燃える火のような唇へ正確無比に運ばれ、「ずっ」と研ぎ澄まされた音を残しひと息に奥へ消え去る。かほど端正に麺を啜り上げる悪魔が、果たしてこの百年のうちにいただろうか。そういうわけで天使のごとき金髪碧眼の麗しき短足は一心不乱にラーメンを食べて時々餃子を食べている。
悪魔は側近が見惚れるほど芸術的にラーメンを食していたが、狼は別に見惚れているのではないようだった。彼は無口に――そもそも普段から無口である――眉間に皺を寄せて何かのステーキを食べている。血の滴るような紅い断面、見ているだけで香ばしい焼き目、側近が拝するに牛系の肉であって断じてオーク肉ではなく、おそらく眉間の皺は肉の味とは関係がない。ガゼルロッサなら間違いなく大盛りの白飯がその手にあるところだが、狼は肉だけで肉を食うストロングスタイルのようだ。それもまた良いものだ。熱く厚い肉の塊はそれだけで良いものなのだ。ただその素敵な肉を口に運びながらも男は苦々しげな表情を崩さない。猫舌か。
短足が丼を持ち上げる。その顎の角度にさえ美は宿る――フィニッシュ。汁さえ残さず。丼をテーブルに戻し、しかしここからが始まりだったと言ってよいだろう。会話の。
すっきりした表情で空になった食器を持ち立ち去ろうとする短足の悪魔に、声を掛けたのは狼の方である。
「おい」
「んん?」
悪魔は何かを気にするでもなく。
「なにか?」
「なにか、じゃないだろ」
苛立ちなのか呆れなのか、不機嫌そうな声音も普段通りの狼なので推し量りがたく、悪魔もまた空っとぼけた返答が本心のままでないのは明白、意に介せず「なんのこと」と続ける。
「黙って俺の前に座って飯食って何のつもりか」
「相席はお断りか?札を立てておくんだったね」
白々しい。そこでなくとも空席はまだあった、例えば体から生肉の臭いを吹き出す異形を背負った悪魔の席の近く。
「言いたいことがあるなら言え」
「そっちこそ言いたいことあるんじゃないの」
「あるなら言うさ。お前こそ何が言いたいんだ」
やったぜ喧嘩だ。側近は耳をそばだて、黙々と肉を噛んだ。
「平気な顔して」
悪魔は憮然としていた。狼は相変わらず、左半分しか見えない顔を顰めている。平気な顔というには些か穏やかではない。
「面倒なやつ……」
狼は唸った、肉を食べながら。少しばかり食べるのが遅いようだ、そういえば狼たちは猫舌だと聞く。八番狼がそう言って冷やし中華を頼んでいたような。ちらと側近が別のテーブルに目を向ければ、八番狼と巻き毛の悪魔がひそひそ話している。スカートがどうとか、パンツがどうとか。
「君の方が余程面倒な性格をしていると思うんだけどねえ」
悪魔は再び椅子に腰を落ち着け、改めて対話を始める。
「言って聞かせてやらねばならないというのなら、言うけれど」
「勝手に言え」
早くしろと言外に滲ませている。
「勝手に言うけど」
出た、短足の勝手に言うやつ。このスキルを発動することでそのまま二十分くらいは平気で話し続けることができるぞ。
「昨日言ったことは覚えているでしょう」
「そうだな」
「君が自尊心を傷つけられたらその行為をなかったことにすることで、その心の傷もなかったことにするやつだってこと、よく分かりました。三度目なのでよくよくようやく分かりました」
短足の声は色をなくしたように低く、抑揚もなく、驚いたことに悪魔らしかったので側近は白米とともにごくりと唾を呑んだ。魔王陛下に対してさえ不敬極まりない空気読まずが、真剣交際か。
「無かったことにはできない、していない」
目も合わせず狼が言えば、(そもそも食べながらである)
「それはどうかな」
と目を見開いて、
「俺はまだ答えを聞いていないぞ。俺はもう話した、十分に話した。用意がある。あんたの意志はまだ死んでいないと、俺は確信していたから。いいぜ、腑抜けでも、心境に変化があっても、一向に俺は構わずあんたに着いていくから。平凡な君が好きだ。だがこの地の魔性であるからには、あんたが誇り高い魔族であるなら」
そして声を低く落とし、側近には聞き取れなかったが、狼は顔を上げた。片頬で笑っている。
「急かすなよ。悪魔。契約は、忍耐強く交渉するものだ」
「魂とかはいいからさ。悪魔の契約じゃない、ただの約束をしてほしい」
「面倒だな」
側近は、厭な予感がしていた。短足と三番狼が出来ているのは別に気にしていない。そうではなく、悪魔が悪魔らしく唆している。悪魔が仕事をすれば地に混乱がもたらされる。そういうものだ。
――近衛兵の狼三番、森の狼でも荒地の狼でもなく、灰色の毛の銀狼。近衛兵でただ一人、城内でただ一人。
――権力闘争。狼どもの近衛兵が魔女たちの親衛隊に勝ったのは単純に彼らが忠義なんてものを尊ぶ馬鹿馬鹿しい犬で、それでいて群れから追い出されたはぐれものだったゆえに。同胞さえも咬み殺す。
「復讐、しないのか」
「まだ答えられない」
「待ってる。君が引き金を引くことを期待している」
――山の狼連合は四代魔王の正統性を認めず、銀狼の首長は特に激しく抵抗し、魔王は自ら軍を率いて反乱を鎮圧し――鎮圧?馬鹿を言え。蹂躙してやったのだ。見せしめにしてくれてやったのだ――魔王とは圧倒的な力の支配であるから。
狼が、押し殺すように笑うのが見えた。声を潜めて話す。
「銃で貫けるものか。……ない。お前は承知か、俺の……たがっている……」
「へえ、そいつは知らなかった」
「どこの誰が自分で……かわいそうだって?」
そうして狼はぐるりと振り返った。左だけの眼光は鋭く、その視線はガゼルロッサの目を射竦め、口の端は引き攣った笑みを張り付かせている。魔王の側近もさすがに肝が冷える。
「御機嫌よう、側近殿。不味そうな肉を食っているじゃないか」
「ああ、ああ。ゴミ、じゃなくて、ゴムみたいだ」
そしてガムみたいにいつまでもいつまでも噛んでいるのだった。
「貴方は狼ではないのだから、聞こえもしない聞き耳を立てたりはしていないだろう。私はこんな歳だっていうのに、今だに周りの音に臭いにばかりが気になる。ここは落ち着かないな?」
「……椅子だけは心地いいから」
「そうだな、椅子だけは。ごゆっくり」
狼は悪魔の方へまた向き直り、
「だから食堂は睦言を交わすには最悪の場所だろう」
「あい分かった。続きはベッドでよろしく」
短足は今度こそ食器を持って立ち去る。
側近は今更居心地が悪くなってきたので、早々に口内の肉片を片付けることにした。休憩時間としてもそういう頃合いだろう。三番狼が、続けて席を立つ。まともに三番と話したのなんて初めてかもしれない。嗚呼、彼はどう返事する心算でいるのか。もう大方予想がつく、あんな風に威嚇をするのは虚勢を張りたい時と相場は決まっている。魔王は彼の一族郎党を滅ぼした。一族の生き残りが何のために魔王城に潜り込んでいるのかなんて、悪魔が狼に心を寄せている意図不明に比べたらちっとも不思議なことではないのだ。
歯磨きをしながら砂を噛むような思いで、書類を整えながら舌打ちし。足早に戻ってきた魔王の執務室はやはり薄暗く、空気は冷たく凍っていて、その静謐に側近は魔王の佇まいを連想する。残念ながらその主は不在、だがそれが丁度いい塩梅なのだ。忠犬に求められるべき振舞いを実行している自覚がある。反逆者をのさばらせていられるか、一秒だって待っていられるか、あの場で喉首に牙を立てることだって躊躇しないのだ、己が魔王のイヌでなければ!そう、何はともあれ報連相だ。
その世界で、星の声は人に届かなかった。星の瞬きに言葉を読み取るのは占い女たちの業とされていた。南の空で赤く光る〈賢人の瞳星〉の声に耳を澄ませていたのは緑衣の占い女、女がお告げを聴くより前に里の牧人はやってきた。赤い衣に包まれたみどりごを胸に掻き抱いていた。
泣きもせず穏やかに眠るその子の額に手を当てて、
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