第2話 宿命と言うには見放されている

 普段通りの薄暗い部屋で側近はそわそわしていた。豪奢かつ重厚ながら醜悪な装飾に彩られたる我等が魔王の執務室で、青年は蒼白き顔を重厚なテクスチャーの扉へ向けてひとつ溜息。「魔王さまってばもう」考えごとがすぐ声になるのは彼の悪い癖だ。

「これ以上わたくしめを一人にされては、何をしてしまうか分かりませんよ」

 自己管理もままならない。

 そわそわしながらも己に与えられたデスクから動かないのは、そんな不埒な側近の出来心を許すほど魔王のセキュリティは甘くないという信頼ゆえ。忠鬼が大人しく扉を睨んでいれば、暴風が叩きつけたのはテラスへ至る大窓、則ち扉の反対側である。

 そういうわけで不意を突かれた側近は慌ててテラスの窓を開け、案の定強風に髪を乱しつつ叫ぶ。

「お帰りお待ちしておりました、魔王さま!」

 そういうわけで羽搏きの烈風と共にテラスへ降り立ったのは巨躯の白竜、第四代魔王であった。

「白く輝く鱗が死にたての骨にも似て最高に麗しいです、魔王さま!」

「落ち着け」

 実際、このどこを見渡しても薄暗いか暗いか真っ暗の魔界の中で、白鱗は燐光を帯びて淡く神々しく、優美で力強い竜をくっきりと浮き立てていた。全ての夜と闇を統べるもの彼こそ魔王、この姿を見ると側近は畏怖と憧憬でどうしようもなく足が震えるのだ。

「嗚呼満月のように爛々と私を穿く双眸がいつにも増して愁いを帯びていらっしゃるようですが恐れ多くも我が君――」

「右眼が貴様の将来に対する憂いを示しているといったところだな」

「我が君、呆れてらっしゃる。俺に匹敵する左眼の悩ませごとは何なのです」

 それは今から、と魔王はゆるゆる人型へ滑るように変化しテラスの窓からそのまま執務室へ。誰かが頓着せず窓を開け放ったために、吹き荒れた風の痕で室内は悲しく散らかっているが構わず、己の執務机の抽斗から水晶球を取り出した。人の頭ほどの大きさがあろうかというそれは、時代遅れのデバイス。何気なく片手に持ち、

「これがあれば魔王になれる、と言ったも同然なのだが。お前は知るまい」

「はあ」

 当然も当然、魔王の所有物に断りもなく触れるなど言語道断でございますから――否、時々はあるかな――兎に角今回に関しては水晶玉のことなんて知らなかったのは事実である。

「お前に預ける」

「なんですって」

 側近は目を丸くした。そのような貴重品の管理には一等向いていないガゼルロッサである。部屋の惨状が物語っている。

「正気ですか」

「頑丈だから安心しろ」

「心配するのは物理的な破損だけですか、それは信用しているんですか、していないんですか」

 魔王は意に介さないといった風に、さながらお古のバレーボールのように水晶球を弄り回しながら言う。

「使ってみたいというなら使ってみるがよい。それこそ我が真意である。いや、やれるものならやってみろ、か」

 真意の意図が計り知れず、いい意味で素直な側近は訊ねた。「あの、具体的に何をすれば」

「お前はその辺の機微をどうにかしろ、魔王の側近に一番大事なのは深淵な雰囲気作りだぞ」それは言い過ぎだ。

「よいかガゼルロッサ、今はまだこの水晶球はただの鈍器でしかないのだ」と魔王、出来の悪い生徒に諭すように、いや正に状況はそれ。

「これを起動させるのは些か面倒でな。鍵のひとつは位置情報、もうひとつは生体情報」

 不安でいっぱいいっぱいになりながら聞いていた側近は堪らず口を挟む。

「それ、教えていただいても使いようがないでしょう?」

「では何を判別していると思うかね」

 じとりと蛇目が側近の目を見据えて留まり、彼は睨まれたように強張る。さっきからこんなのばっかりだ。

「順当に考えて、魔王であることなのでは」素直に側近が口にすれば魔王は皮肉に口元を歪めて「生体情報などといったところで。まあ、私なぞ自称魔王だ。否、ただ白竜であることしかこの躰は証明出来ないのだ。まったく滑稽」

 滑稽の当事者は笑う気分ではなさそうで側近にとっても同じく。魔王の視線の冷たさは己のせいでないにしろ。

「は、では、魔王さまには起動できず、俺にはできるがために、こんなお話をされていると理解しても」

 王の影もいいところの側近だが、機嫌を悪くしたいとは微塵も思っていない。探り探りに喋るのも致し方ないのだ。魔王は肯首の代わり、息を吐いて笑った。

「では俺が持ち魔王さまが持ち得ぬ身体的特徴があるってこと、いや確かに色々と違いましょうけれど、しがない一介の吸血鬼風情の何が」

 出来の悪い生徒が困っているのは余程楽しいとみえる、魔王は喉からクク、と声を漏らし、

「そればかりか、困ったことにお前にくらいしか預けようがない。これほど難儀なものとは私も……ふ、仕様がない」

 ガゼルロッサ自身は特別な血筋でも何でもないありふれた吸血鬼で、吸血鬼も少ないとは言え珍しくもない。まあ特別寵愛されてはいるだろうけれど、と益々混迷極まり。さすがに寵愛は躰に刻まれていはすまい、過程で魔王の血は吸ってしまったこともあるが無関係だ。だが彼は言いたくなったので言った。

「懇ろゆえですか、魔王さまのラヴだからですか」「阿呆、ばかもの、おお、思い上がっておるではないか。青二才のハナタレ小僧のくせして」散々愛情表現された。

「人間でなければならんのだ、あろうことか魔界の全てを開くことができるのが!皮肉を効かせすぎておろうが」

 誰が効かせた皮肉かは知らないが、側近は、ああと溜息めいた声を漏らした。「悪うございましたね、難儀な側近で……」

 魔族と人間の境界は難しく、魔族と魔族の間から生まれるもの、魔界の土壌が生み出したもの、全ての悪意が生み出したものなどはまずもって魔族に相違ないだろうが、人間から魔族になったものも数多。人間から転生した悪魔は魔族の躰ということなのだろうか。そうしてガゼルロッサは、元人間の死体で今は吸血鬼になりかけた生きている人間の死体なのだった。

「お前が吸血鬼らしさを拒んでいるお陰でひとつ厄介ごとが減らせたということだな」

 道理で皮肉げなのである。

「お役に立てて恐悦至極、血液を好まず炭水化物と揚げ物を摂取してきた甲斐もありました」

 お陰で未だ不老の特性が発揮されず身長は伸び盛りの側近、横に増えず何よりである。

「しかしながら陛下、確かにこの身は未だ誇り高き一族からは受け入れられておりませんが。とうの昔に人としての生は終え、死んだ心臓を動かしているのは吸血鬼の呪われた血なのですよ?半ば以上はもはや妖魔です。人並み以上吸血鬼並み以下で血液も嗜んでおりますのに」

「分からぬから試してみろと言っておるのだ」

 いつもの無茶振りか。側近は余計なことを言わないように唇を噛んだ。

 ――俺が完全に転化していたならどうする心算でいたのです。

 ――俺はそのために飼われていたのだとしたら、

 ――もしそうだとしても変わりなく

「御意、喜んで、御心のままに。死にぞこないの犬めがお役に立てるのでしたらなんなりとお申し付けあれ」

 そう言って手を差し出したところ、「待て」と待機を命じられる。待てでもお手でもお代わりでもどんと来いである。

「然るべきときにこの封印を解除するまで転化を進めてはならぬのだぞ」

「それは、当然のことです。魔王さまがお命じになることならば」

 今までだってストレスなく遅滞させていたのだし。今まで通り天丼ミニそばセットなどを食べるだけだ。

「然るべきときがどういうときか、この情報が何のために秘匿されているのか、漆黒の玉座ではなくこの私に生涯仕えると言うなら話すつもりだが」

「白竜のフィーザさまのみが私の主、漆黒の玉座はただ一人あなたさまのものです」

 食い気味である。

「本当にお前は。深淵な間を持て」

 魔王はかぶりを振った。

「ガゼルロッサ、これは私が王座を退くときのため。私がこの城を去って後、私の名にかけて必ず貴様がこれを使うのだ」

 今度は十分すぎる間をとることができただろうか。咄嗟には何を言うべきか側近も判断しかね、余計な言葉を口にするのは躊躇われ、ある種願いが叶った瞬間の陶酔の中、酔いきれぬ酔いに声が震えていた。

「御意」

 そして頭を垂れ、魔王は黙して、冷たい間があった。

「わたくしめを連れていってはくださらないのですね」

「させぬ」

 酷い言いようなのだった。

 魔王亡き後の世界でも仕え続けることを唯一許されたのではないか。「身に余る光栄」ながら、そんなの聞きたくなかった。

「そのような大役を仰せつかり、どうして拒むことがありましょうか。魔王になれるも同然の秘密を知るのでしょう」

「そうなればよいが」

「勅命ならばそういたします。のです。わたくしめが白竜フィーザの名において次期魔王を指名するのでしょう!?」

 魔王はただ軽く頭を振り、肯う。

「これがいかほどの力を持つのかは知りませんが、そうでなきゃ、を魔王にするのは難しいですからね!」

「分かっているではないか」

「見くびらないでいただきたい」

「ぬかしおる」

 魔王は差し出された手の上に件の水晶玉を置き、満足気に剃刀のような口元で微笑むのだった。

 ――あ、忘れるところだった。

「魔王さま、お耳に入れたいことがございます」

 魔王は片眉を上げながらも続きを促す。また間が足りなかったようだ。

「研究室のクリネラ・クリムゾン・スプラウトと近衛兵の三番クロスなのですが、謀反の疑いがあります」

 聞くや魔王、「確かか。食堂で軽口を叩きあっていたのでなく」

 側近は一瞬、あっそうかも食堂だし、と思ったが、今日は妙に冴えているからと自分の直感を信じて言い切った。

「三番に笑って威嚇されました」

「ふん、お前よく我慢していたな。喰い過ぎていたのか」

 よくも見ていたかのように己の動線を言い当てるものである。「さすが魔王さま、そこまでご理解いただけてわたくし法悦を禁じえません」「それは……お前、閾値が低すぎやしないか」

「『どこの誰が自分で黒焦げにした男にって?』」

「ふはは」

 目を見開き、魔王は哄笑した。閾値が低いのはどちらか。

「そうか、今更?愉快だ。あれも思った通りの男か!結局……クリネラもな」

 十人中十人が凶悪と言うチャーミングな笑顔で謀反というトピックにさえ不快な素振りを微塵も見せず。

「魔王さま、かわいそうなんて言ったんですか」

「そうであろう?」

 この方が人を小馬鹿にするときときたら、どうしてこんなに蠱惑的な目の色なのか。

「仇が私では犬死するしかないのだぞ」

 嗚呼、不敵とは彼のために用意された言葉、不遜とは彼を形容する言葉、

「魔王さま、最高」

 言葉の無力さを、噛み締める。

「では放っておくのですか」

「潰したいのなら勝手にしてもよいぞ」

「余計な真似はいたしますまい」

 正直に述べれば、短足にも三番にも勝てる自信がない。他の妖魔の力を借りれば後が厄介だ。

「貴様も腰抜けだな」

「狡猾と仰ってくださいませ」

「そうだな、お前には……その片鱗くらいはあるか……」

 今まで素直に褒められた例があっただろうか。重畳重畳、十分十分法悦の極み。

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