第6話

「あ、こんにちは」

 ドアを開けた僕の姿を見て、相手が店員からスイッチを切り替えるのがわかった。この間の店長さんだ。深く話したわけではないが、覚えていてくれたらしい。

「今日はお一人なんですね」

 席に座った僕にメニューを持ってきてくれる。この時間帯はいつもお客が少ないらしく、今も店内の客は僕だけだ。

「みやこさん、今日は午後からなんですよ」

 聞いてもないのにそんな事を教えてくれる。まぁわざわざここに来る理由なんてそれが目的と思われても仕方がないか。実際そうだし。

 取っていた有給ももうすぐ終わりで、その後はまたいつものように社会人生活が始まる。久々のまとまった休みに浮かれていたのは最初だけで、徐々に日が過ぎるにつれてまた戻ってくる現実に少しずつ気が滅入って来ていた。こればかりは何度経験しても慣れない。

 なんだかこの数日間は色々と考えてばかりで、この店に一人で足を運んだのも、気分転換を探してのことだった。朋は丁度今日出かけると言っていたし、いい機会だった。

 コーヒーとケーキを頼み、聞かれてもいないのに甘党なので、と何故か言い訳してしまう。

「今時ケーキを食べる男性の方、珍しくないですよ。結構いらっしゃいますから。お一人でケーキだけ食べて帰られる方」

 そうなのかと勝手に納得していると、彼女は慣れた手つきでケーキを出してくれた。フォークで一口サイズにカットする。くしゃりと潰れたスポンジは弾力が強く、中々形が崩れない。そのまま口に運んでみる。なるほど。わざわざケーキを食べに来る理由も分かる。そんな僕の様子を見て、店長さんは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「幾田さん、でしたっけ」

 僕の名はみやこから聞いたのだろうか。ええ、まぁ。生返事をする。

「みやこさんの幼なじみなんですよね」

 あいつはどうですか。

「よく働いてくれてます。学生の頃にパスタ屋さんでアルバイトしてたらしくて、手際がすごく良いの」

 あいつが働くまでは一人で経営を?

「ちいさなお店だからなんとかなると思って。でもいざやってみると中々大変で。みやこさんにはそんな時に助けてもらったんです。で、聞いたらお仕事辞めて実家に帰ってきたばかりだって言うから、じゃあうちで働いてみませんかって」

 みやこが人を助けたというのが意外だった。困っている人を放っておけないほど情が厚いタイプでもないし、なによりそう言う行動を「しゃしゃり出るのは自分には向かない」と一蹴してしまう奴だったから。

 飄々と生きて、でも我は通して。その癖後々「やっぱりやっておくべきだったかな」と自分が何もせずにいた事を後悔する、そんな女々しさを持ち合わせてもいる。僕の知っているみやこはそんなだ。そんな面倒くさいやつだ。

「確かに、会社勤めは随分きつかったって言ってました」

 きっと色んなものを削って生きていたんだろう。社会人として働くって事はどこもそんな物で、学生から社会に出た場合、特にそのギャップにぶちあたる。ただ書類をホッチキスで延々と止めるだけのような作業をやらされてどうして自分はこんな事をしているのかと疑問に思うこともあるし、すごく下らない、一秒足らずで終わってしまうような確認漏れがとんでもないミスになって自分に降りかかってくることもある。やることは大した事じゃないのに、やたらと責任だけが課せられていく。そして、徐々に自分と言う個が磨耗していくのを感じる。

「同じ社会でも私みたいに何も気負わず気楽にやってる人もいれば、かつてのみやこさんみたいにずっと毎日何かに葛藤して生きてる人もいる。世の中って本当に不平等なんだなってすこし思いました」

 不平等、ね。

 本当に、少し場所を変えるだけで人生が劇的に変わってしまうことだってあるのだから。自分よりはるかに怠けている人が幸福な毎日を送っていることだってある。要領がいい人ほど、得をするのが現実だ。

 甘いケーキを食べているのに思った以上に苦い話になってしまい、なんだか苦し紛れに僕達は笑った。重苦しい空気がふっと揺らぐ。

「すいません、ほとんど初対面の方にこんな話」

 ほとんど僕から振ったような物だったので、謝られるとなんだか申し訳なくなる。

「そういえば、今日はみやこさんに何か用事だったんですか?」

 用事と言うか、報告と言うか、愚痴りに来たと言うか。

 みやこの兄に会ったと言う話もしたかったし、朋の事についてすこし相談したかったと言うのもある。

「朋さんって、この間一緒にいた?」

 ええ、まあ。曖昧に答える。

「二人は、お付き合いされてるんですよね?」

 返答に詰まる。やってることはそれと同じだが。

「……あ、もしかして聞いたらまずい話題でした?」

 いや、そんな事はないですよ。相手の顔に浮かんだ不安を払拭する為、ぎこちない笑みを浮かべる。でも、そんな無理くりひりだした物は、あっという間に削げ落ちてしまった。

 何となく居たたまれなくなって、それでもここを去るのはなんだか違う気もして、僕はポツリポツリと僕たちについて口にした。話してみると一体どこからどうやってどの様に話せばいいか分からず、なんだかまとまりが無くなってしまった。自分が一体何を悩んでいるのかまるで分かっていない。

 現状に不満はない。でもこのままではいけないのは分かる。ただ、どうしたらいいのかが分からない。目的が自分の中にきっかりと設けられていない。だからどうやって道を作れば良いのか分からないでいる。

「うーん、色々考えちゃってますね」

 メールなら思わず(苦笑)とつかんばかりに、覚束ない微笑みを向けられる。呆れ笑いと言った方がいいのかもしれない。

「人には人の空気感ってあるから、お二人にはお二人じゃないと分からない空気感があるんだと思います。だからあんまり気の利いた事は言えそうもないですけど、そう言うのって話しちゃえば意外とどうにでもなるんじゃないでしょうか」

 話すって、何を。

 僕は、彼女がどうしたいのかまるで分からない。自分がどうしたいのかも。だから何から話せばいいのか分からない。

「それを話すんですよ。何を話せば良いのか分からないと言う事を言うんです。相手がどうしたいのかを聞くんです」

 随分と簡単に言ってくれるな、と内心思う。それが出来ればやっている。

「少なくとも、一緒に居たいって思ってるなら、ちゃんとそれを伝える事が出来たら、大丈夫だと思います」

 真っ直ぐな言葉だった。含みを持たない言葉。

 落ち込んでいる時に投げかけられる前向きな姿勢は励まされる反面、心を沈めてもくれる。のんびりした口調で、裏表がなさそうな人だから本心なのだろうけれど。それが少し鼻についてしまっている自分が嫌だ。

「案ずるより生むがやすしって言葉もありますし、実際やってみたらどうって事なかったりしますよ。少なくとも、現状を変えるなら行動を起こさないと」

 そう言われて初めて自分がただ愚痴ってしまっている事に気付いた。ああ、そうだ。ここでブツブツ言っても何一つとして変わらない。分かっていてつい言ってしまった。優しい言葉をかけられて癇に障るなんて、子供っぽい身勝手な八つ当たりでしかない。情けないが自分はまだまだ幼いんだな、力が抜けるような息が出る。

「歳を重ねれば重ねるほど、自分の幼さばかりが自覚できるんですよ」

 そうなんでしょうね。なんだか僕はすっかり頭が上がらなくなってしまった。

 口に運んだコーヒーは少し酸味が利いていて、苦かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る