第2話

 再び就職をしようと思ったのは多分どこかで分かっていたからだろう。

 自分が甘えているだけと言う事に。

 現実から目を背けて逃げているだけと言うことに。

 私が次に勤めることになっているのは、都心にある小さな食品メーカーの事務だ。

 もうどうでもよいとか、私は頑張ったとか、何かを欠落したとか、そんなもの実は誰もが当たり前に抱えている問題に過ぎなくて、私はそれを自分の中で肥大化して勝手に一人で騒ぎ立てていたに過ぎない。

 逃げるとか、甘えるとか、情けない自分とか、自分はネガティブで根暗だとか、そういう下らない定義づけに自分を当てはめる事が実は一番危険な事なのだと何となく最近、気がついた。

 どれだけ苦しんでいても誰も助けてくれないくせに、休んでいるとすぐに攻撃される。

 自分のほうがもっと大変だと色々な人から主張され、卑下される。

 相談すればそれくらい自分で考えろと罵られ、お前みたいな奴はどこに行っても駄目だとまるで見てきたかのように断言される。

 私が経験しただけでも、世界は理不尽で埋め尽くされている。

「それでもお前はこの世界を好きで居られるか?」

 公園でギターを弾きながらタバコを吸っていると、声をかけられた。

 笹やん……じゃない。

 そこにいたのは兄だった。

「……そう不機嫌そうな顔をすんなよ」

 不機嫌ではない。つまらないなと思っただけだ。

「つまらないとはご挨拶だな。それで、どうなんだ?」

 どう、とは何だ。

「お前はこの世界を好きで居られるか?」

 また見透かしたかの様な事を言う。

「だってお前、明らかに何か考えているみたいだったからな」

 みたい、ではなく考えていたのだ。

 すっかり傾いた陽の光は真っ赤な色彩を帯びて街に振りそそいでいた。影が長くなり、ずっと遠くまで続いていくかのような錯覚を私に覚えさせる。公園からはこの街を一通り見渡す事が出来る。ここから見る景色はまるで、世界がこの街だけで成り立っているような気がした。

 空にはもう星が瞬いており、緩やかな空気が私を柔らかく包んでいる。

 この街に戻ってきたときと同じ空だ。

 そして兄の言葉は、私が上京する前に投げかけられた言葉と同じだ。その質問に対して昔の私は分からない、とだけ返した。

「今はどうだ?」

 本音を言えば今もまるで分らない。

 でも、とりあえず言う事からはじめてみる。

「私もこの世界が好きだ」

 本当は嫌いでたまらないけれど、逃げ出したいけれど、そう言い続ければいつかは好きになれるかもしれない。

「お前に一つだけ良い事を教えといてやる」

「何さ」

「人生はお前が思っているより圧倒的に難しいし、ちょろい」

「何それ」

 大して生きてもないくせに何でそんな事が言えるんだ。呆れもしたが兄の自信満々な表情を見るときっとそうなんだろうという気がしてくる。

 私はタバコを一息吸うとゆっくり煙を吐き出しながら、弦を爪弾いた。

 もうすっかり温かくなったからか、冬の時のように鋭い音はならない。柔らかく、しなやかな音が空気にそっと溶け込んでいく。

 タバコももう吸い納めだな。なんとなくそう決断する。

「いいな、聴きやすくて」

 緩やかな風を体に受けながら、兄は手すりに持たれてそっと目を瞑った。

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