第四章 このちっぽけな世界の端っこで

第1話

 ギターを弾かない? と言われたのは再就職が決まった直後だった。

「みやこさん、また都心に戻っちゃうんでしょ? だから最後に記念としてどうかなって」

 何の記念なのかいまいち分らない。それに最後だなんて。仕事が一段落したらまたこっちに戻ってくる事もあると言うのに。

「まぁ、言葉のあやって奴よ」

 食洗機にかけた皿を取り出しながら、くしさんは笑う。

「良いじゃないか、お前ギター弾くの好きだろ。お礼だ、お礼」

 そんな事を言って店の奥から似合わないエプロンに身を包んだ兄が姿を現した。兄妹揃って同じ職場と言うのも腹が立つ話だが、何より腹が立つのはたった二ヶ月ちょっとで兄に仕事の技量で超えられてしまったことだ。

「そうそう、お礼してください、お礼」

 楽しそうにくしさんはクスクスと笑みを浮かべる。随分染まってしまったものだ。どこかおっとりしていたあの頃の可愛げが薄れてしまった事が悔やまれてならない。

 くしさんと兄が昔この街で知り合っていた事は意外すぎる事実だった。どうも彼女の初恋の相手と言うのがうちの兄らしく、しかも驚くべき事にその初恋を十数年経った今でも継続させていると言うのだから驚きだ。まさかこの広い世界にそんな天然記念物のような女性が実在するとは。そしてこの愚兄もまんざらではないと言うのだから尚更驚きだ。言葉も出ない。

 ただ、私は思う。

 兄であればくしさんを任せられると。

 くしさんであれば兄を任せられると。

 まぁいわゆるお似合いの二人であるわけだが、そういった陳腐な表現をすると自分が酷くつまらない人間に思えてならないのであえて何も言わないでいる。それにまだ二人は付き合ってもいない。

「付き合う前が一番楽しいって言うだろ? あの感覚を楽しんでるんだよ」

 とはいつか兄が言っていた言葉だ。まぁどう考えても照れ隠しに他ならないのだろうが。兄のような理屈っぽいタイプは、素直に好意を表現されると照れて何も出来なくなるのだろう。妹として言わせていただくと、至極気持悪い。

 この二ヶ月で店は割と繁盛するようになった。元々味は良い店なので一度ついた常連客は離れる心配がない。そして元々経営学を学んでいたと言う兄の技量もこの店の経営不振を建て直す助けになったのは間違いないだろう。三人での切り盛りが厳しいと言う事でアルバイトも増えた。

「店長、今の話本当ですか? みやこさんギター弾けるんですか?」

 その一人がこの紗枝ちゃんだ。四月から大学一年生としてこの街にやってきたのだという。活発で明るく、笑顔が絶えない子だ。

 私は今、彼女にピザの作り方を教えている。私の後を継ぐのはこの子だ。

「みやこさん、すごく上手いんだって。いつだったか、みやこさんのお友達から聞いたの」

「へぇえ、格好良い……。イメージにピッタリですね」

 感心するのは良いから手を動かしてくれませんか。

 一生懸命ピザを伸ばす紗枝ちゃんはどんな話でも楽しそうに、それでいて真剣に受け止めている。何を見ても新鮮なのだろう。目をキラキラと輝かせているその姿は、なんだか見ていて言葉にならない罪悪感のようなものを覚えてしまう。

 かつては自分もこうだったのだろうか。

 たぶん、そうだった気がする。

 紗枝ちゃんは今年十八歳だ。十八と言えば一瞬近い年齢に覚えてしまうが、もういつの間にか自分が一回りほど離れている事に気がついた。

 この間まで学生で、自分の中に誰にも負けないぞと言う無敵感が溢れていて、自信に満ちて、それでいて世間にどこか絶望している、適度に脱力出来ている人間だった。

 変わる物と変わらない物がこの世界にはあるとして、それでも全く変わらない人間なんていないのだ。

「そういえばみやこさん」

 くしさんはどこか嬉しそうな表情をしている。

「この間みやこさんの幼なじみの、幾田さんが来てくれたんだけど」

「すすむが?」

 何故か私ではなく兄が驚く。確か兄はすすむから聞いてこの店に来たはずだ。すすむがこの店に来たと聞いて驚くのはおかしいのではないか。

「今度結婚するんですって。前一緒に来ていた女性の人と。それで、あなたに伝えておいて欲しいって」

 結婚……。

「へぇ、めでたいな」

 そうか、結婚か。相手は笹やんか。高校の頃はあの二人がくっつくなんて全く予期もしなかった。

 時間は嫌でも流れている。

『変わらないね、みやこちゃん』

 その言葉を嬉しく思った事もあった。

 でも、本当のところ、全く変わらない人間なんていないのだ。

 だから私たちは、変わらない部分を、変わらない物を愛しく思う。

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