第三章 かつて、この街で出会った事

第1話

 この街には不思議な力があるんだ、と死んだ父が私を実家に連れて帰る時よくそう言っていた。私はその話を聞くのが大好きで、何度も父に話をせがんだ。


「この街には不思議な力があるんだ。何かを失ったり、欠けてしまった人を導いてくれる力。人の縁は巡るって言うけれど、この街はしっかりと人の力で巡っているんだ」


 今思い返しても随分と抽象的な話で、当時まだ幼かった私には難しい話だった。ただ、その話をする時の父は優しい顔をしていた。私はその表情を眺めるのが大好きだった。

 父の実家はゆったりとした街だった。山沿いに発展したベッドタウンで、人口は十万人と中々多い。交通の便も良く、駅前は飲食店やスーパーが、離れれば小さな商店街がある、中間的な街だ。いたる所に緑があり、発展した街と自然とが上手く融合されている所だった。

 父の実家は駅から三十分ほど歩いた場所にある一軒屋で、小さなアーケード付きの商店街が近所にあった。文房具屋さんや駄菓子屋さんがあり、近所の子供達は学校を終えるとよくそこに集まって遊んでいた。私は父に連れられてこの街に帰るとその駄菓子屋さんでおやつを買うのが楽しみでならなかった。


 その年の春、たまたま私の春休みと父の休暇が重なり、一週間近く父の実家へ帰ることになった。


 遊園地や旅行だと高くついてしまうが、帰郷ではそれほどお金はかからない。両親にはその様な打算もあったようだったが、私には関係がなかった。

 久々に会った祖父母は私の顔を見て非常に喜んでいた。街の様子を眺めている父と母は、なんだか穏やかで、私にとってはそれだけで十分嬉しい事だった。

 父から小遣いをもらい、いつもの駄菓子屋で酢だこさん太郎を買った。何故だか知らないが、当時の私はこのお菓子にはまり込んでおり、お菓子を買ってもらうときは毎回酢だこさん太郎を選んでいた。


 私が店に入ったとき、置かれている酢だこさん太郎は最後の一枚だった。運がいい。

 手に取ろうとすると、横から別の手がにゅっと伸びてきた。

 私と同じ歳くらいの男子が、大きな丸い目でこちらを見ていた。半袖の水色シャツに、紺色の半ズボン。急な事に驚き、思わず手が引っ込む。何度か来ているとは言え、馴染みの薄い街の男子は私にとって恐い存在でしかなかった。


「あげるよ、それ。買いなよ」


 まるで何でもなさそうにかけられた言葉に、私は随分と驚いた。咄嗟になんて言ったら良いかわからず言葉に詰まっていると、男子は酢だこさん太郎を手にとって私に握らせた。


「一人だろ? 一緒に食べようぜ」


 私は黙って何度も頷いた。

 公園で二人して買ったお菓子を見せ合って食べた。小さなビニール製の中に四つドーナツが入り込んでいるヤングドーナツについて語ったのを、今でも覚えている。


「ヤングドーナツは天才の食べ物だよな」


 彼は言う。


「美味いのに四つも入ってる!」


 単純な事を仰々しく話す男子の楽しそうな顔に、私は思わず噴き出した。すると彼は顔を覗き込んでくる。ビックリして身を引いた。


「やっと笑ったなぁ。全然笑わないから笑えないのかと思ってた」


 そんな訳ないじゃん、とむくれると「あっ」と彼は声を出す。


「お前笑った方が良いよ。ふくれっ面だと恐そうだけど、笑うと優しそうだもん。ほら、笑ってみ? イーッて」


 イーッとする彼の顔が面白くて再び私が笑うと、男子は嬉しそうに頷いた。私はそうやって笑う彼の姿がどこか父のそれと重なって、言葉にしがたい充足感に満たされた。


 今考えると私にとって『初恋』と呼べるものだったのかもしれない。


 男子の名前がなんだったのか、私はとうとう知る事がないまま街を離れた。一週間近く毎日一緒に遊んだが、名前について尋ねる事はしなかった。子供と言うのは名前など知らなくても容易にコミュニケーションが取れてしまうものだし、何より私は彼と会った時ひたすらドキドキしていてその様な事に考えが及ばなかったのだ。

 ただ、私の名前はキチンと教えた。


「くしって名前なんだ。すごいな」


 変な名前で、クラスの男子からもよくからかわれる。くしと言う名前は当時の私にとってコンプレックスの一つだった。


「変じゃないよ。変って言ってる奴が変なだけだ。そいつ連れてこい。片っ端からしばいてやる。それか、くしが好きだからワザとそうやってからかってるんじゃないのか」


 そんな事ないよ。と否定したが、好きと言う言葉に過剰反応してしまい顔が熱くなる。


 好き、か。

 好き。


 その言葉のニュアンスを何度も頭の中で反芻する。どんな声で、どんなトーンで、彼が「好き」と口にしたのか記憶に焼き付ける。もし実際彼が告白するとしたら、今のと同じ感じの言い方だろうか。想像が膨らんでいく。


 私は彼の色んなものを肯定する物言いが大好きだった。歳は近い(と思われる)のに、妙に達観して世間を見通した口ぶりが楽しかった。時々ふっと物憂げに目を細くする姿に胸が高鳴った。

 何を考えているのか掴みきれない。同世代の男子にはない大人びていてなぞめいた姿に、私は惹かれていたのかもしれない。


 駄菓子屋で待ち合わせをして、おやつを食べて、街を歩いて、なんだか難しそうな事を話す彼の横顔を見ているだけで、私の日々は満たされていた。何か特別な事をしたわけじゃない。探検や冒険と言うほど物語めいてもいない。でも彼と過ごした一週間は今もありありと思い出せるほどきらびやかで、私にとって特別なものだった。

 それゆえに帰る時は気持ちが憂鬱で仕方がなかった。


「そうか、くしはこの街の奴じゃないんだな。通りで見かけない顔だと思った」


 ごめん。なんとなくそう言わねばならない気がして、一体何に対してなのか分からないまま私は謝罪の言葉を口にした。


「違う小学校の奴かなってずっと思ってた」


 確かにそうだが、それは彼が思っているよりずっと離れた場所の小学校だ。


「妹を今度連れて来ようって思ってたんだ。くしときっと仲良くなれるって」


 妹がいたのか。今更ながら初耳だ。


「次の機会にするよ。また来るんだろ?」


 恐らく。いつかは。


「じゃあその時は、また会おう」


 太陽の光に照らされて笑う彼の笑顔はビックリするほど光がかって見えて、世界とはまた一線を画した場所に浮かび上がっているようだった。細かい産毛や、長いまつげや、笑ったときの笑窪が妙に鮮明で、きらびやかだった。


「くしも泣いてないで笑えよ。お前は笑ったほうがいいんだから」


 きっと私は酷い顔をしていたんだと思う。それでも最後にちゃんと笑えたのは、今でも誇りに思う。

 

 翌年、父が亡くなった。

 私がその街に再び足を運んだのは、ずっと後の事だ。

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