第2話
祖父母が亡くなり、住む人のいなくなったその家をどうするかと言う話になったとき、私は一番に声を上げた。改築して喫茶店にすると言うとさすがに渋られたが、どうにか了承を得る事が出来た。
何故その街にこだわったのだろう。自分に問いかけてみる。
資金は会社勤めのときにそれなりに貯めていた。その気になればもっとお客さんが入りやすい場所で、テナントを借りて運営する事も出来たはずなのだ。
それでもその街にしたのは、父の思い出だけが理由じゃない。
どこかでずっと、初恋の感覚を追い求めていたのだろう。
──また会おう。
今でも鮮明に思い出せる、彼の声。
この街に来れば、また彼に会えるのではないかと私はどこかで思っていた。
元々性に合っていたのか、会社勤めより個人経営の喫茶店店長のほうがずっと気が楽で楽しかった。徐々にではあるが来てくれるお客さんも増えて来ている。
懐かしい街は、私が知っている頃とちっとも変わりなかった。それが私の心を優しくしてくれる気がした。
発注して届いた食材の一群を確認していると、いくつか足りないものがあることに気がついた。私はこういうポカミスをよくしてしまう。
買出しには近所のスーパーではなく、少し遠い場所にある小さな商店街を使った。通り道に、昔通ったあの駄菓子屋さんがあるからだ。名前も知らない男の子と出会った、駄菓子屋さん。
今はもう潰れてしまっているらしく、店の看板はそのままだが、昔みたいに扉は開かない。
当時の店主さんは随分年のいったおばあさんだった。亡くなってしまったのかもしれない。そう思うと、少し寂しくなる。
「お姉さん、何か嫌な事でもあったのかい?」
落ち込んだ顔をしていたのか、八百屋のおじさんが心配そうに声をかけてくれた。少し考え事をしていただけだと言っておく。
「よし、じゃあお姉さんには特別に今日仕入れたばかりのりんごをあげよう。ここのりんご、中に蜜が入っていて美味しいんだよ」
そう言ってすでに肉が入った紙袋に野菜と共にりんごを入れてくれる。中を見ると五つくらい入っていた。こんなにたくさん、本当にいいのだろうか。
「いいんだよ。最近じゃあスーパーに行く人が多くて、うちを使ってくれてるのも常連の奥さんばっかさ。味と新鮮さでは負けないんだけどね。だからお姉さんみたいに新しいお客さんが来てくれるのは嬉しいんだよ」
深い謝辞を述べて店を後にした。おじさんの顔はどこか寂しげで、素直に喜んでいいのかどうか分らなかった。
思った以上に買った商品が多くて、りんごが袋から零れ落ちた。両手にそれぞれ紙袋を抱えているので拾えそうもない。
転がるりんごを目で追っていると、誰かがひょいとそれを拾い上げた。女の人だ。
「りんごだ」女性は不可解そうに拾ったそれを眺める。
一瞬、時が止まったかと思った。
どことなく、彼の面影があったから。
声をかけると、彼女は私の大荷物に驚いたのか目を丸く見開いた。
「これ、あなたのりんごですか」
りんごを袋に戻すついでにさりげなく片方持ってくれる。優しい。見た目は冷たそうな印象をうけるが、さりげない優しさが心を暖かくしてくれる。
「たくさん買ったんですね」
袋の重みを実感して彼女は声を漏らす。私は自分が喫茶店をしている事を告げ、お礼に店まで来てくれるよう誘った。
とは言え、誘ったのはお礼だけが理由じゃなかったのだけれど。
彼女の名前は櫻井みやこと言った。みやこ、と言うのは『京』と書くらしい。口数は少ない人だが、聞き上手で受け答えが上手い。会話のない沈黙を優しいと思えた人は初めてだった。
煎れたばかりのコーヒーを飲んでもらいながら話をする。なんだか楽しくて、つい自分の事ばかり話してしまった。
話をするなかで、徐々に彼女の表情が曇っていくのがわかった。最初は自分の話がつまらないからだろうかと思ったが、どうも様子が違う。何かに悩んでいるような、抱え込んでいるような、そんな表情だった。
「コーヒー美味しかったです。ごちそうさまでした」
十一時になり、彼女は立ち上がった。帰ってしまうのか、せっかく知り合えたのに。そう考えていると顔に出てしまっていたようで、みやこさんは困ったように頬を掻いた。どうすればいいか分からず困惑してしまった人と言うのはみんなこんな顔をするものなのだろう。つい笑いそうになったが、どうにか堪える。
──妹を今度連れて来ようって思ってたんだ。くしときっと仲良くなれるって。
十数年前に出会った彼は、そんな事を言っていた。
もしみやこさんがその妹だったとしたら。確率は低いだろうけれど、ありえない話ではない。
だから私は思い切って明日も来て欲しいと言ったのだ。
この街は不思議な力があるんだ。
かつての父の言葉が、思い出される。
翌日もみやこさんは店に来てくれた。午前中の暇な時間帯に来てくれた、唯一のお客さん。コーヒーを差し出すと、彼女は物憂げな表情でそれを口に運ぶ。
今なら聞けるかなと、試しに兄弟がいるかどうか、尋ねてみた。
「兄弟ですか? ……ええ、兄が一人」
前髪をつまみながら彼女は答える。心臓が高鳴った。どんなお兄さんなのか、尋ねてみた。違和感を抱かせない程度に軽い調子で。
「なんと言うか、お調子者で、飄々としてるんですよね。私と同じ様に毎日ぷらぷらしてるくせに、お小言一つ言われないし。その上、やたらと物言いが偉そうと言うか。その物言いが時折核心をついた時があるから、聞いてるこっちはビクッとします」
ほとんど答えに行き着いたような彼女の解答に、私は息を呑んだ。
この街は確かに縁が巡っている。父が私にそう言った意味が、今なら分かる。
間違いない。彼女のお兄さんは『彼』だ。
空は青く澄んでおり、雲から見え隠れする太陽は時折窓からそっと光を投げかけてくる。私はジャンプしたい気持ちで一杯だった。
父の故郷と言うだけじゃない。
もう会えることは無いのかもしれないと思っていた彼に手が届きそうなのだから。
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