第3話

 みやこさんが店で働きだすようになってしばらく経った。

 彼女は仕事の飲み込みが早い。元々やっていたアルバイトの経験と、東京でしていたと言う接客業が活きているのだろう。普段はあまり表情を出さないが、仕事モードになると人が変わったみたいになる。

 知り合った頃の彼女はどこか表情がうつろで、常に心に闇を抱えているようだった。例え顔が笑っていても、心の奥底に決して揺らがない暗い部分がある気がした。

「仕事でちょっとやられちゃって」

 食材を片しながら彼女は言うと「違うな」とでもいいたげに首を捻った。

「私はそれを言い訳にしてたのかも。本当は抱えていた色んな不安を、全て仕事のせいにしようとしてたのかもしれない。抱えるものが何も無くなったから、今は気が楽。でも、このままじゃいけない。いつか答えを出さないと」

 そう言った彼女に、あせらなくてもいいんじゃないと声をかけた。

 二十歳になったときは早く歳を重ねたかったけれども、二十五歳と言う年齢が近づくにつれ、私も良く分からない焦りに襲われた事がある。早く将来の答えを出さないと、確定付けないと、そう思い続けてずっとじたばたしていて色んな事を失敗した。今のうちに積み重ねておかないと、三十代から削り取る一方なのではないかとそう思えてならなかった。

 種類が全く同じとは思わないけれど、みやこさんの焦りはそれに近いんじゃないだろうか。そんな気がして、なんとなく共感できてしまう。

「うん。でも最近は、次に進もうかなって考え始めてる」

 こちらに視線を寄越さないように呟く彼女の表情は、別れがそう遠くない事を示唆していた。そんな彼女の様子に、また一人に戻ってしまう事を少しだけ怖いと思うようになっている自分がいた。

 

 みやこさんが元々ここで働き出したのは、店が回っていない所を助けてもらったのがきっかけだ。彼女は私みたいな人間にとっては随分と頼りがいがある人物だった。要領もいいし、立ち回りも上手い。人付き合いは苦手みたいだけど、だからこそ心を開いてもらっているのを実感できて嬉しかった。

 彼女のお兄さん──『彼』に会わないまま別れてしまうことももちろん気がかりだが、それ以前にもう櫻井みやこと言う人間は私にとって必要不可欠な存在になっていた。

 定休日以外は基本的に働いてくれている。最初は週三くらいのアルバイトをお願いしていたのだが、別に気を使わないでもいいよと彼女が言ってくれたのだ。

 休憩時間や、お店が暇になるたびに私は彼女と話をした。

「私と兄は実は同じ漢字で違う読みなんだ」

 表に出すための黒板にメニューを書きながら彼女は『京』と漢字を書いた。

「私の名前は櫻井みやこ、兄は櫻井けい。どっちも漢字は同じで、名付け方がミスってるだろって二人して突っ込んでたなぁ」

 櫻井けい。

 幼いとき、ずっと聞かなくて後悔していた彼の名前が、今になってこんなに簡単にわかってしまうのが妙に不思議だった。名前の由縁とかはあるのだろうか。

「違う生き方で別々の方向に進んだとしても、根っこは一緒であって欲しい、だってさ。両親が両方とも京都人だから、それもあるとおもうけど」

 季節の境目だからだろうか、窓から見える景色はどんどん移ろっていく。新しい水が湧き出て、古い水と循環するように、空気や街の色素が移ろい、変わっていく。肌寒さは徐々に薄れていき、新しい命の芽吹きを感じ始めている。

 私の視線に気付いたのか、みやこさんも外の景色に目を向ける。

「変わっていくものと変わらないもの……」

 呟いたそれは私が以前言った言葉だった。

 何もかもあるがまま、あるようにしてそこにある。街は変わらないのに、私達は変わっていく。

 時間の流れは膨大で、遡行する事はできない。記憶ですら、いつしかいろんなことに上書きされていく。だから人間は生きていける。

 辛い記憶が鮮度を保ったままそこにあるなんて、想像もしたくない。

 時間の流れはゆっくりと、私たち人間を回復させる。

 片づけを終えてようやく一息つく。来客も途絶え、休憩どうぞと言うとみやこさんはエプロンを外してカウンターに座った。コーヒーとケーキの余りを差し出すと「どうも」と受け取る。そのまま彼女はコーヒーを啜りながら喋らなくなった。

 みやこさんは時々、理由もなく頭が思考を完全に停止する瞬間がある。

 一人でそっと静かにたたずんでいるときや、コーヒーを飲んで何気なく窓の外を眺めたり、用もなく街中を散歩してみたりするとき、不意に過去の事や、辛い記憶が何かをきっかけにしてリフレインしそうになるのだそうだ。考え出すと思考は螺旋階段を転がるように、ずっと下に向かい続ける。それを防ぐために、全ての思考が止まってしまうのだと言う。いわば緊急的なブレーキなのだろう。

 彼女には、何か特別大きな出来事があったわけではない。

 少しずつ、小さなことが積み重なって彼女から色々な物を削っていったのだ。

 ここで働き出して彼女は随分と明るくなった。でもまだ完全じゃない。まだ彼女を回復させるには、足りていない。

 まるで壊れたロボットの様だと私は思う。魂が抜け落ちてしまったように、空っぽに思えてならない。その姿を見ると、私は無性に悲しくなった。抱きしめたくなった。でも彼女の中の何かを補填できるのは私ではないのだ。それが出来るのは彼女自身でしかない。

 色んな人に支えられて生きてきたし、覚えてた感謝の気持ちは廃れることなく私の中に芽吹いている。だけども、本当の意味で自分を助けられるのは、自分でしかない。

 その時、店に流している音楽が静かなギターのアコースティックへと移り変わった。夜の草木を思わせる自然音の中に、そっとギターの音が主張することなく溶け込んでいる。その音を聞いてみやこさんは顔を上げた。

「またいつか音楽がしたいな」

 先ほどと違って目を輝かせる彼女の瞳に、自然と笑みが浮かんだ。

 みやこさん音楽してたんだ。

「昔からギターをずっと。弾くのが好きで、音を聞くのが好きだったんだ。人前でギターを弾くのは緊張するけど、終わったあとの高揚感は不思議と嫌いじゃなかった。また、ああやって人前で演奏がしたいなって今でも思う」

 人前でギターを。意外な趣味だったけれど、彼女がそうしている姿は不思議と目に浮かぶ。

 そんな彼女の姿を見たいと思った。

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