第4話

「くしちゃん、いつもありがとさん」

 新鮮な野菜の入った紙袋を渡しながら八百屋のおじさんが声をかけてくれる。時々買いに来る程度だが、もうすっかり顔なじみになってしまった。

 ずっしりくる荷物の感触に、また買いすぎてしまった事を実感する。店に戻ったらみやこさんに怒られそうだ。

 色づいた町並みは色彩を増し、陽だまりが傾斜を緩やかに感じさせてくれる。足取りも自然と軽くなっていく。

 春の陽気に、ついあの頃の事を思い出してしまう。彼にあった時の事、そして父が亡くなった時の事。私の記憶は、いつも春に集約する。

 街を歩いていると、学校帰りと思われる女子高生と時々すれ違った。この時期は受験シーズンか。もう結果発表されてるのかな。

 すれ違う若人はなんだか表情が豊かだ。私もまだ世間一般ではギリギリ若人に含まれるのだろうか。でも、私の表情は彼らみたいに活き活きとしているのかは分からない。

 大量の荷物に苦戦しながらどうにかこうにかお店に入ると、若い男女が客席に座っていた。自分で言うのもなんだが、この時間に来客があるのは珍しい。そう思っていると客席で対応していたみやこさんがこちらに飛んできた。

「くしさん、またそんなに買ったの? 自分の持てる量ちゃんと把握してよ」

 言いながら片方袋を持ってくれる。無意識のうちの行動だろうが、そんなささやかな優しさを嬉しく思う。

 ごめんね、と謝るとみやこさんは顔をキュッとしかめた。

「ほらまたそうやって謝る」

 なんだか申し訳なくなってまた謝る。ごめんなさい。

「ほらぁ」

 そう言ってなんだか呆れたように笑みを浮かべる彼女を見て、私はどこか安堵していた。

 荷物を片付けてようやくカウンター内に立つと、注文をとったみやこさんが戻ってきた。その表情はどこか嬉しそうだ。私の視線を察したのか、みやこさんは軽く頷く。

「高校の同級生なんだ。女の子はこっちに帰ってきてすぐ会ったんだけど、男子のほうは本当に久々。幼なじみなんだけどね。でもあの二人が付き合ってるとは知らなかったなぁ」

 まぁ私は昔からそう言うのは疎かったんだけど、なんて言いながら苦笑する。

 二人と話すみやこさんは本当に嬉しそうで、そんな彼女を見ていると私までなんだかうれしくなる。表情を緩められる相手なのだから、きっと本当に仲がよかったのだろう。

 会計時、また来て欲しいと言う様な事を言うと二人は快く頷いてくれた。二人が出て行って間もなく、接客を終えたみやこさんが寄ってくる。

「帰っちゃいました?」

 今しがた、と言うとそっかぁと残念そうに声を上げる。

「もうちょっとちゃんと話したかったけどなぁ。仕方ないか」

 また来てくれるって言ってたよ。

「じゃあ期待しないで待とうかな」

 幼なじみ、と彼女は言っていた。じゃあ『彼』にとってもそうなんじゃないだろうか。

 幾田、すすむ。なんとなく呟くとみやこさんは驚いたように目を見開いた。

「何で知ってるの?」

 えっ。

「すすむって、男の方の名前。くしさん知り合いだった?」

 いや、どうだったっけ。以前みやこさんから聞いたかもしれないなぁ。

「そうだっけ」

 そうだよ。きっとそう。なんだか慌てて誤魔化す。

 そう言えば私の初恋の相手がみやこさんのお兄さんかもしれないと言う事を、まだ私は打ち明けられずにいた。隠す気はないのだが、どうにも言う機会がない。

 そこで、ふと気付く。予感が確信に変わったことに。私の過去と、みやこさんの現在が繋がっている事に。

 お兄さん“かも”しれないんじゃない。

 お兄さんで確定なんだ。


 幾田すすむが再び店に現れたのはそれから数日後の事だった。少し物憂げな表情で、視点もどこか曖昧で、心ここにあらずと言った感じだ。挨拶をするとハッとこちらを見る。

「ああ、どうも」

 窓際の日当たりが良い席を案内した。こう言う人は放っておくとすぐ暗い所に行こうとする。明らかに何か悩んでいる風だった。そう言う時に暗い場所に行ってしまうと、悩みが階段を転げ落ちるように悪い方へ導かれてしまう。

 みやこさんがいない事を告げると、彼は少しだけ目を伏せて「そうですか」と頷いた。メニューを手渡すと、サッと目を通して「アメリカンコーヒーとシフォンケーキを」と素早く注文される。

「甘党なので」

 誰も聞いていないのに言い訳みたいにそんな事を言われて、なんだかおかしい。男性でケーキを頼まれる方多いんですよと一応フォローしておいた。

 幾田すすむと言う名前が本物なのか確かめるために尋ねてみると、確かに彼は幾田すすむだった。何故自分の名前を知っているのかと疑問に思っている様子はない。みやこさんから聞いたのだと勝手に納得してくれているのだろう。

 店の事を訪ねられたので、みやこさんがうちで働くまでの経緯を簡単に説明しておく。

「みやこは周囲の目とか気にしてしまう奴なんですよ。酷く臆病なんです。それでも我を通すから、マイペースに見られがちで。そんなあいつが社会に出て上手く働いている姿があんまり想像つかないですね」

 時々心がどこかに飛んでしまったようなみやこさんの姿を見ると、胸が痛くなる。

 私は彼女が苦しんだであろう社会のしがらみとはおよそ無縁の人生を送ってきた。こんなに楽で良いのだろうか。私も何か抱えなければならないんじゃないか。そう思えてならない時がある。それはとても不平等な事なんじゃないかと。

「不平等かどうかは分りません。でも、要領良く生きれる人は得をするのは事実でしょうね」

 なんだか重たい空気になり、誤魔化すように思わず二人とも笑う。話題を変えるために、今日はみやこさんに何のようだったのか尋ねたところ、朋と言う名前が出てきた。以前一緒に店に来た女性の事だろう。

「みやこは勘違いしていたみたいですけど、別に付き合っている訳じゃないんですよ」

 随分仲良く見えたが違うのか。男女関係と言うのは本当に分らない。

「でも、やっていることはそれと一緒なんです」

 私は首を捻った。どういう事なんですか? 尋ねて、デリカシーの無い質問だったと慌てる。

「いや、良いんですよ」

 幾田はゆっくりと口を開く。

「二十代後半の男女が毎日一緒にいて、まだ互いの関係がまるで分っていないんです。馬鹿みたいですよね。休日は一緒にでかけるし、夜は一緒に寝る、時間を共有する事がまるで当たり前になっているのに、僕達は自分達の関係性を定義づける事を恐がっているんですよ。情けないことに」

 彼は一口コーヒーを啜る。

「これから僕達はどうして行きたいのか、どうなって行きたいのか、まるでわからないんです」

 人と一緒にいると言うのは本当に難しい事の連続だ。

 近くにいてもまるで分からない事だらけで、一緒にいないともちろん分らない。何をやってもわからない。分ったつもりでいるしかない。

 私たちは結局、話し合う事でしか自分の考えを伝えることなんて出来ないのだ。でも自分の内側を具体的に言葉にして具現化する事を私たちはいつも恐れてしまう。その行動が引き起こす変化を嫌い、なぁなぁで過ごす毎日に甘んじてしまう。その癖悩みだけがふつふつと湧き上がる。

 言葉にしないと、何も伝わらないんですよ。私が言うと彼はハッと顔を上げて私を見た。何気なくはなった言葉は、彼の心の琴線に触れたらしい。

 少しばかり席でくつろいだあと、幾田は席を立ち上がった。

「ありがとうございました。なんか、色々愚痴っちゃってすいません」

 帰りしな、そう頭を下げられる。

「あ、そういえばみやこに伝えといてもらえませんか。あいつの兄貴にこの前会ったって」

 少しだけ、心臓の鼓動が高鳴るのが分る。

「みやこがここで働いているって伝えたら驚いてました。店の場所とかも聞いてたから来るつもりなんじゃないかな。みやこの兄貴は理屈っぽいけど、どこか人の心をほぐす所があるから、店長さんも一回是非会ってみてください」

 ええ、わかりました。私が頷くと彼は満足げな様子で店の扉を開けた。去っていく背中を見つめ、私は彼──みやこさんのお兄さんについて考える。信じられない事だ。でも、記憶の中の世界と今がどんどん繋がっていく。

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