第6話
喫茶店に流れる緩やかな音楽の中、煎れられたコーヒーの香りはスッと胸に染み込むようだった。店内に私以外の客はいない。実に心地がよい。
「へぇ、お兄さんが……」
兄の話をすると、牧原くしは楽しそうに声を弾ませた。
私が年下と言う事は明かしてあるが、それでも彼女は敬語で話す。
理由は「あなたの方が大人っぽく見えるから」。
私は目にかかり始めた前髪をちょんとつまんでみる。毛先が随分と痛んでいて、くしゃくしゃに折れ曲がって絡んでいる。
何もやってないのにどうしてこんなに痛むのだ。何もやってないから痛むのか。そんなどうでも良いことを考える。
「みやこさんのお兄さん、どんな人なんですか?」
脳天気で、何も考えていない。毎日暇そうにぷらぷらしている(それは私も同じか)。何より性質が悪いのは、時折核心を突いた発言をしてくるところだ。その言葉に、ドキリとさせられることも多い。
「核心を突くっていうと……」
人の悩みの本質をバッサリと切り捨てる。いや、彼なりの答えを提示すると言っても良い。語り口調のせいかもしれないが、それがなんだか妙に理にかなっているように思え、納得させられてしまう。
そう、兄はいつも答えを私に差し出している。そして私は無意識のうちに、兄の出す答えを求めている。私の欲しい言葉を、兄はそのまま口にしてくれる。
そのおかげかは知らないが、こっちに帰ってきてから、少しずつだけれど、随分と心が軽くなった気がする。
「いいお兄さんですね」
そんな事はない。ただのごくつぶしである。兄は人の話をいつも茶化してくる。そうやって彼なりに場の緩和を図るのだ。私が陰としたら、兄が陽。しかし辿っている道は不思議と似ている。
すると牧原くしはさもおかしそうにお腹を押さえて笑い出した。
「ごめんなさい。でも、みやこさんがお兄さんの事大好きって言うのが良く分かりました」
そんな事はない。でも手を繋いだり抱きしめたり、直接的なスキンシップはよくする。他の兄妹に比べると仲は良いほうなのかもしれない。
私の呟きに、牧原はなんだか困惑したような色を顔に浮かべた。心なしか顔も少し赤い。
「……多分それ、すっごく仲が良いと思いますよ」
普通の兄妹でも手を繋いだりするのは珍しくないと思いますが。
「私たちみたいな年齢の兄妹で、触れ合ったりするのは珍しいんじゃないかな」
牧原はカウンターに頬杖をつき、悪戯っぽくこちらを見てくる。
「なんだか恋人同士みたいですね」
何を気持悪い事を。
「あはは、ごめんなさい。でもすっごい仲良いって思いますよ。だってそんな兄妹関係、初めて聞いたもん」
そうなのだろうか。よく分からない。私の家庭では当たり前に行われてきたからだ。
一瞬だけ、ブラザーコンプレックスと言う言葉が思い浮かんだ。いや、さすがにそれはない。
しかし言われてみれば、前に付き合っていた彼氏は兄に似ていた気がする。
父は私が中学生の頃に死んだ。会社帰りに道を歩いていて、居眠り運転の車に轢かれたのだ。だからそれ以後、私にとって兄は父親みたいなもので。
女の子は父親、男の子は母親を理想の相手として見立てるという。
つまり私は無意識のうちに、兄を理想の相手として見立てていたと、そういうことだろうか。なんだかそれは酷く屈辱的な話だった。
「でも、みやこさんのお兄さん、私が知ってる人となんだか似てますね」
知ってる人?
尋ねようと口を開くのと入り口の鐘が鳴り響いたのはほぼ同時だった。牧原がハッと振り返り、私も何気なく彼女の視線を追う。
「こんなところにカフェなんてあったのねぇ」
「あ、いらっしゃいませ」
牧原が慌ててカウンターを出る。少し洒落た服装の、四十代くらいの女性。
「二十人なんだけど、空きあります?」
「えっ?」一瞬だけ驚いたように目を見開いた後、すぐに表情を取り繕う。「あ、えぇ。大丈夫ですよ」
二十人か。予想以上に人数が多い。地元のおば様方が群れを成してやってきたと、そんな印象である。おそらく婦人会やらPTAの集いやらそんな感じの会合があったに違いない。
テーブル席がやってきた大群で一気に埋まった。初めての事の様で、牧原は少し焦っているようだ。店の規模からしても、想定外の客数なのだろう。
てきぱきと慣れた様子でメニューと水を配っていく牧原。笑顔を出してはいるが、その奥に潜む不安は隠しきれていない。もっとも、来ている客は全く気付いていないみたいだが。
大型の店舗で何千人と相手にしてきた私だから分かるのかもしれない。こちらの説明が分かっているのか、何か聞きたくて店員に目で訴えているのか、人が放つ細かい仕草にアンテナを張っていた。だからこそわずかな表情の変化も目に付く。一種の職業病だろう。
一通りメニューを配り終えた牧原は私にだけ見えるような表情で苦笑して戻ってきた。果たしてあれだけ大量のオーダーを捌けるのか。
「多分コーヒーとケーキだけだと思うから、大丈夫だと思いますよ」
とは言えその表情は硬い。心なしか手も震えている。緊張しているのだろう。店を始めてこんなに一度にお客が入ってきた事などなかったのかもしれない。開店して間もないとは言え、今までよくやってこれたものだ。
自分の出来る仕事のキャパシティを遥かに超える来客を受け入れてしまったのは牧原のミスかもしれない。十人が限界だと思っていたのに、その倍を受け入れてしまった。その判断ミスに彼女は首を絞められている。でもその中にはどうにかしてお客さんを作りたいという気持ちがあるのが分かった。
カウンターの中に入って彼女はカップを並べ、ケーキを切り始めた。前もって準備しておくのか。
少し経った後、すいませんとテーブルから声が上がった。作業をしていた牧原が「はい、ただいま」と顔を上げる。
カウンターを出ようとした彼女を手で制した。
訳がわからない様子でこちらを見てくる彼女を無視して、私はカウンターに入り込んだ。案の定、奥の方に予備らしきエプロンがかけてある。なんとなしにそれをつけると、キッチンに置かれていた新しい伝票の束とボールペンを掴んだ。呆気に取られている牧原をよそに、私は客席へと向かう。
テーブルには番号が設けられていない。その為入り口側から奥側へと順番にテーブルごとに番号を振った。
四人掛けの席が五つ。
おまたせしました、と適当に愛想を振りつつメニューを取る。昼過ぎではあったが、食事にデザートとガッツリした注文ばかりだった。これは一人だときつい。
テーブルをくっつけなかったのは慌てた牧原のミスだろうが、今回はそれが功を奏していた。一席ごとにバラバラの注文が入る。注文のタイムラグのおかげで料理を一度に出す事を迫られずに済む。
少し大きめの声で料理名を復唱し、カウンターの牧原に伝わるようにした。すぐさま何かを炒める音が聞こえてくる。よしよし。
上手くずれた時間にオーダーが入ってくる。こういう年齢層の人たちはこちらの事などお構いなしに注文を重ねたりするものだが、運が良いのかもしれない。
注文をとり終わるとすぐさまカウンター内に入った。テーブルごとに伝票を書き、オーダー順に分かりやすく並べておいたのだ。
まずは料理、その後デザートとドリンクと言う采配。私に出来ることと言えば簡単な炒め物や下ごしらえくらいだろうか。
パスタは最初によく混ぜておいたら一つのザルで二人分一気に茹でても問題ないだろう。問題はピザだ。何これ。まさか普通の喫茶店にピザがあるなんて。冷凍だろうか。
「右下の棚に生地が入っているから、小麦粉につけてもらっていいですか? 伸ばすのは私がやります」
どうやら手製のピザを売り物として出しているらしい。ちゃんとメニューを見た事がなかったので全く知らなかった。なるほど、変わってはいるが新しい試みだ。私は少し顔をニヤつかせてオーダー票を見た。マルゲリータが三枚。これならいけるかもしれない。
私は生地によく粉をまぶして軽く手で形作った。それから台所の一部にもよく粉をまぶす。こうしないと生地を伸ばした時くっついてしまう。
近くに麺棒があるのを見つけ、それを使って一気に伸ばす。両手を使って伸ばし、粉をつけて裏返す。裏返したらまた粉をつける。
生地の分厚い部分を麺棒が当たるよう左右に持ってきて伸ばしていく。角を潰すのだ。なければ手を使って楕円形にし、角を作る。そうして伸ばしていく。まさか学生の頃やっていたアルバイトの経験がこんな所で役に立つとは思わなかった。パスタとピザが売りの店で、何枚もピザを伸ばしたものだ。
横を見ると驚いたようにこちらを見つめる牧原の顔があり、少し笑えた。
ピザボードがあったのでそこに粉を振り、伸びきった生地を置く。上にホールトマトで作ったソース。あとはモッツァレラチーズ。オーブンは上が強火で下が弱火。こうしないと裏側が焦げてしまう。時間は大体二分でいいだろうか。
一枚伸ばして焼き、その間に次の一枚を作る。三枚目をオーブンに入れたときに丁度一枚目が焼きあがった。取り出してバジルをちぎり、見栄えよく盛り付ける。終わった頃に二枚目、三枚目が焼きあがった。
「みやこさん、すごい。私よりずっと早い」
感動したように牧原が拍手する。いいからあんたはさっさと自分の料理を作ってくれ。
でも正直、悪い気はしなかった。
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