第5話
家に帰ったとき、時計は正午を指していた。太陽は高く、風が緩い日だった。ここ最近では稀に見る温暖な天気だ。
薄く芝生の生えた庭の真ん中には椅子が置かれている。
「おぉ、丁度いいタイミングで帰ってきたな」
私を見つけた兄は、くいくいっと手で庭に来るよう合図する。私は首を捻りながら何となくその仕草に従う。何をやっているのか。昔からそうだが、時折こいつの考えている事は理解しがたい。頭がおかしいのではないか。
「酷いやつだな。髪を切るって言ったのはお前だろ?」
そう言えばそんな提案をしていたと思い出す。すっかり忘れていた。
「なんだ。何か浮かない顔してるな。話してみ? 俺の髪を切りながら」
すきバサミで、兄の髪を切っていく。短くされるのをあまり好まないのは知っているので全体の量を減らして、バランスよく整えると言った調子だ。
牧原くしの事を話しながら、自分が今後どうしていきたいのかと言うことについて漠然と考えた。
何も目標がない。
私のいた職場の大半の人が不況にも関わらず、仕事を辞めたがっていた。それでも皆が仕事を辞めなかったのは職を失うという恐怖ではなく、辞めたところで次にやりたい事がないという一点だ。
何も指標がない状態で辞めてしまうと私みたいになる。宙ぶらりんで、空に浮いたまま身動きが取れない。
「みやこ、手、止まってる」
兄に言われてハッと我に返る。兄はあきれた様子で私を見上げていた。
「こっちに戻ってきてから、お前よく急に言葉が途切れたりするよな。会話をそこで強制的に終了させるというか」
何気なく言ったつもりだろうが、その言葉に私はドキリとさせられる。
長くなりがちな接客を煩わしく思い、途中で話す事をやめて強制的に対応を終了させる。そんな事を繰り返すうちに、それはいつしか普通の話し方として私に染み渡ってしまっていた。
「変な癖ついたな、お前」
いつからだろう。人と交流する意味や意義を疎んじるようになったのは。
一人でいてもこれからの人生や、恋愛や、自分の事について答えも出ないような事をまとめもせず、ただグルグルと考えるだけなのに。
人といる事を面倒くさがるようになっていた。
自分の心の中に広がる黒い部分に気付かないフリをして、日々を過ごすのが今の私の日常。
「また難しい事考えてるのか」
難しくなんかない。
「じゃあややこしい事だ。面倒くさい事」
ムッとする私をよそに、兄の口はどんどん饒舌になって行く。
「こんなにいい天気なのに、そんな辛気臭い事ばっか考えてるからいつまで経っても前に進めないんだよ。だから自分と近い歳の人が夢を抱いて生きている事に、妙な焦りを覚えるんだ。もっとシンプルに考えろよ。お前は昔っからそう。考えすぎて動けなくなる時がある」
無口でクールだとか思われてるみたいだけどな、お前のはただの根暗だ。鬱陶しい笑い声をあげる兄の後頭部をしばいてやろうかとも思ったが、私は人の上げ足を取って意地悪く楽しむこの男と違い至極冷静な淑女のためそのような事はしないでおいた。
まぁせめてもの仕返しに前髪は切りそろえておいてあげよう。七五三の如く。
「お前にたとえ話をしてやろう」
またたとえ話か。語るのが好きな男だ。前に聞いたのが最低だっただけに何も期待も出来ない。
「まぁそう言うなよ。いいか、人生って言うのは大半が思い込みで出来てるんだよ。自分次第なんだ」
兄は自分の語る事がさも世界の真理であるかのように口を開く。
十年ぶりに人を好きになった男がいるとする。しかも片想いだ。相手の性格や、ふとした仕草、人となり、口調、様々な要素にいつしか惹かれていき、気がつけば好きになっていた。
そんな男の悩みは、好きな女の子と会えないことだ。
好きな子と時々会話する仲でしかない男は、すれ違いざま相手が話しかけて来てくれないか、相手からメールが来ないか、そんな事ばかり考えていて何も手がつかない。結構辛いぞ? 他の人になら言えるような歯の浮くセリフも、本当に好きな子の前ではうまく吐けないんだ。全然思うように行かない。
何とかして仲良くなりたい。でもチャンスは限られている。その間に出来ることなんて果たしてあるのか? 男の苦悩は深く続くばかりだ。
「で、だ」兄はそこで言葉を区切る。「お前はこの片想いの男によく似ている」
どこが似ているというのだ。
「つまりは考えても仕方のない事をずっとエンドレスで悩んで、何も楽しめてないんだよ。時間だけが過ぎていく。もちろん、人生全部を完膚なきまでに楽しむ事なんて不可能だよ。でもな、立ち止まる時間を限りなく少なくする事は出来るんだ」
立ち止まる時間。停滞。何もせずに考えだけを巡らし、悩み続けるだけ。確かに私だ。
「人生は常に癖付けだ。習慣にしちまえば良い。いつも自分が前進し続けるにはどうすれば良いのかって考え続けるんだ。そして出来ればそれを楽しもうとする姿勢が望ましい。不安なのは誰だって一緒なんだよ。ようはそれをいかにして表に出さないか。半ば無理やりにでも自分を動かして人生転がしていくかなんだよ」
風が吹いて切った髪が飛んでいく。
「どうせ同じ時間を過ごすなら楽しんだほうが得なんだよ。圧倒的に。そして不思議な事に、そのほうがいい結果を得やすい」
そんな事は言われなくても分かっている。
「分かっていても、実行に移してない。文句はまずやってから」
人生楽しんだもん勝ちだぞ、と言う兄は確かに人生楽しそうだ。
兄の言う事は理想論で、もちろん人間そんなに簡単に変われるわけがない。
ただ、今はとりあえずやってみるのも悪くないかもしれない。何となくそう思わされる。
へっくし、と言う間の抜けたクシャミをする兄の首に、私はやさしく腕を回した。
「えっ? 何? 殺すの?」
いつまで経っても無邪気で馬鹿な兄だと思う。後ろから彼を抱きしめる。
「おぉ、結構胸大きくなったんだな」
そしてこういう点で、私は毎回幻滅している。
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