第4話
翌日、何となく家にいるのが嫌で私は街を歩く事にした。
家を出て数十分、近所の商店街に足を踏み入れた。肉屋さんや駄菓子屋さん、スーパーマーケット、うどん屋、そんな店たちが立ち並んでいる。寂れた商店街だった記憶があるが、ちょこちょこ店舗も入れ替わっており、割と人は多い。
歩いていると何かが足下に転がってきた。赤い。りんごだ。何気なく手に取り、どこから転がってきたのかと周囲を見渡す。
「すいません、拾ってもらっちゃって」
大きな紙袋を二つ、両手一杯に抱えた女性が近づいてくる。背は私より少し小さい。クリーム色のカーディガンに茶色いマフラーと下はデニム生地のロングスカート。落ち着いた服装は、冬なのにどことなく秋を連想させた。りんごを袋に戻してあげるついでに、二つある袋のうち片方を持ってあげる。
「あ、どうもありがとうございます」
荷物に埋もれた顔が、ようやく姿を見せた。幼い顔立ちだがどことなく大人びていた。茶色い髪の毛は根元までしっかり染まって……いや、どちらかと言うと色素が薄いと言う印象だ。地毛だろうか。
袋には野菜や肉類等、食材が大量に入っている。一体これだけ買ってどうするつもりなのだろう。
「私、カフェやってるんです。そうだ、良かったら寄っていって下さい」
女性に先導され、何気なくその後ろを歩く。
商店街を出てしばらく歩いた先に小さな木造の建物があった。まだ真新しい。昔はこんなものなかった。出来たのは最近だろうか。
女性が店の扉を開け、そのあとに続いて入った。チリンチリンと甲高い鈴の音が響き、温い暖房に暖められた部屋の空気が冷えた体を包み込む。しっとりとしたピアノ曲が店内には流れており、カウンター席と四人掛けの丸いテーブル席がちらほら。雰囲気の良いお店だが店内にお客の姿はない。
「まだ開店時間じゃないんです」
悪戯っぽく笑い、女性は時計を見る。時計は午前十時半を指している。どうやら十一時に開店らしい。
店内には清潔感が漂い、フローリングになっている床には埃すら見当たらない。細やかに手入れしているのだろう。
「出来てまだ新しいお店なんです。店員も今は私一人で。お客さんも少ないの」
言われて見ると、店の敷地の割にテーブルが少ない気がする。カウンター席にテーブル席、合わせると十組がやっとと言うところか。
「恥ずかしい話、一人で切り盛りするってなるとこのくらいの規模じゃないとまわせないんですよね」
女性は苦笑するとカウンターの中に入り、キッチンに紙袋を置く。手招きされ、私も恐る恐るカウンターの中へと足を踏み入れた。流しの横に丁度物を置けるスペースがあり、そこに紙袋を置く。
「座ってください。運んでくださったお礼に、何かご馳走しますよ」
言われるがままカウンター席に座ると、女性は満足げに微笑んだ。
「コーヒーで良いですか?」
私は軽く頷く。しばらくするとコーヒーメーカーの稼動音が響き、独特の香りが漂ってきた。コーヒー豆が放つ酸味ある香り。私はこれが結構好きだ。しかし開店三十分前なのに私の相手をしていてもいい物なのだろうか。
「良いんですよ。いつも十二時までお客さんこないんですから」
……店の経営が心配になる言葉である。そもそも何故こんなひなびた街に出店しようなどと考えたのだろう。
「ここは父の故郷なんです。昔、夏休みやお正月になるとよくここに遊びに来ていて。ここに来るたびに、この街で暮らせたらいいだろうなってずっと思ってて」
それでカフェを建てた。彼女からすれば、夢が叶ったわけだ。
「まだまだ途中です。最終目標は、このお店を笑顔のお客さんで一杯にする事」
彼女の目は透き通っていて、真っ直ぐ芯がある。何故だか知らないが、私はつい視線を逸らせてしまった。
私にだってあったはずなのだ。夢や希望、もしくはそれに準ずる何かが。
多分そんなに歳は違わない。それなのに、彼女は順調に道を駆け上がっていて、私は駆け上がる道がどこにあるのかすら分からないでいる。
昔の自分に対するどうしようもない罪悪感が、現在の私をさまよわせる。
私の人生はなんだか、中途半端でくすぶってばかりだ。仕事を辞めたのも、こうして何もせずただぷらぷらと街を歩いているのも、それは逃げでしかなかった。
かつて私は音楽で世界と闘えると本気で思っていた。バンドをしていると言えば、一般的にチャラチャラした軽薄なものだと思われがち。けど、芝居の様に、絵画の様に、音楽は私にとって自己表現をする手段の一つだったのだ。
自分の作ったメロディをコードに乗せ、リズムを重ね、言葉を、想いを乗せていく。狭い舞台で、それでも飛ばした言葉は確かに伝わって、日常のふとした風景を彩り、人が前に進む、変わるきっかけになる。そう言う体験を私はたくさんしたし、また自分の作った音楽が変わるきっかけになったと言われたこともある。
こんなちっぽけな私でも誰かを助ける事が出来るんだと、私はたまらなく嬉しくなったものだ。
ふと、キッチンの奥に写真のようなものが見えた。L判の写真用紙で、木製の洒落た額縁に入っている。小学生の女の子と、まだ若い男性が一人。女の子は間違いなく彼女だろう。ではこの男性は……。
「父です」
棚からカップを出しながら彼女は言う。
「もう十五年以上前ですね。大事な写真なんです」
彼女は私の前にコーヒーを差し出す。濃厚なミルクと上質そうな角砂糖が添えられていた。
「ずっと前に亡くなったんですけど、本当に尊敬できる父でした。父の姿とこの土地がずっとセットになっているんですよね、私の中で。だからこの街に来たんです」
私は出されたコーヒーを一口飲む。別に評論家ではないのでコーヒーの味についてなんてそんなによく分からないが、深い香りと苦味の中に眠る酸味に心がホッとする。
女性はコーヒーを飲んだ私を見て嬉しそうに笑みを浮かべた。
「この街はいいですね。美味しそうにコーヒーを飲んでくれる人がたくさんいる。変わらない物と、変わっていくものがあるけれど、この街にはずっと変わらないでいて欲しいな」
変わらない物と、変わっていく物。
笹やんもそんな事言っていた。
「変わらない物があるからこそ、それを軸にして生きていける。根っこになる部分ってやっぱり必要だと思うんです」
根っこ、か。
私にとってそれは一体何なのだろう。
自由になった。
自由には、何の強制力も先導もなかった。
何も用意されていない。
自分で用意しなかったと言ってもいい。
音楽をやっていた時、何も考えていなさそうな人を見るたびに、何でこの人はこんな生き方で平気なのだと首をよくひねった。
でもそうやって首をひねる自分は、人を見下す事で、自分が人生的に、人間的に先んじていると優越感に浸り、実際はなにもしていない事に気付けないでいた。
だから今こうして立ち止まってしまっている。
「難しい顔してますね。何か深く思いつめてるみたい」
思いつめている気はなかったけれど。傍から見てそうなのであれば私はさぞかし辛気臭い顔をしていたのだろう。顔の表情を意識して作り出すことは意外と難しい。
コーヒーを飲むともう十一時で、私は立ち上がった。
「あ、帰っちゃうんですか?」
寂しそうな表情。そんな顔をされると帰り辛い。
「良かったら明日もまた来てくれませんか? もっとあなたとおしゃべりしてみたい。せっかく知り合えたんだし」
そこで彼女はハッと顔を変える。
「そういえばまだ自己紹介もしてませんでしたね。牧原くしです。二十七歳だから、多分一緒くらいですよね? 私たち」
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